クリスチャンにとって仕事ってなに?

この記事は約3分で読むことができます。

目次

クリスチャンにとって仕事ってなに?

クリスチャンにとって仕事ってなに?

お金を得たり、承認欲求や自己実現欲求を満たしたりすることが世間の仕事観ですが、聖書の価値観では、仕事とは「神に仕える」ことです。

解説

一般的な仕事についての考え

内閣府の「国民生活に関する世論調査令和元年度」を見てみると、半数以上が「お金を得るために働く」と答えています[1]。また統計数理研究所の調査によると、じつは必ずしも日本人が特段に仕事一筋というわけではないことがわかります[2]。むしろ、余暇を大切にしたいと思っている傾向が他のアジア圏の地域と比べて強くあるのです!

日本の一般的な仕事についての考えは、この二つの調査をもとに考えると、生活維持のための収入を得るためであり、また余暇を守りたいという傾向があるといえるでしょう。その一方で、一生楽できるお金があったとしても仕事を続けたいという声も調査の中にはあり、自己実現の目的も見られます。それは社会的意味や個人的意味とも言いかえられますが、内閣府の調査でも、約39%がそれらの意味を労働に見出していることがわかります。

生活維持のための手段であり、また承認欲求と自己実現欲求を満たすためのものであるというのが、一般的な仕事についての考え方といえるのではないでしょうか。

創世記から見る「仕事」

一般的な仕事についての考え方が「生活維持のための手段であり、また承認欲求と自己実現欲求を満たすためのもの」とするならば、聖書の価値観は「仕事は神に仕える行為」です。

創世記2章15節と19節には、天地創造の時点で人が労働に携わっています。

つまり、聖書の中で労働は「社会の一員として務めを果たすため」、もしくは「人を助ける手段」ではないです。

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。創世記2:20(口語訳)

つまり、アダムは1人の時点で働いていて、「社会の一員として務めを果たすため」、もしくは「人を助ける手段」として労働が存在していたわけではないのです。

その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。創世記2:11,12(口語訳)

創世記2章11節と12節には、お金を得る手段としての仕事ではないこともわかります。さらに、創世記2章16節を見ると生活の保障がされていたこともわかります。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」創世記2:16(口語訳)

つまり、エデンの園において仕事は、生活維持の手段でも、自己実現の手段でもなかったのです。仕事を評価してくれる他の人や助ける相手、また生活のために働く必要がないときから、アダムには仕事が与えられていました。

創世記2章15節を見るとアダムには、園を管理する役割が与えられていたことがわかります。

ここで「守る」と訳されているヘブライ語の語根“シャーマル”は、しばしば「見守る」、「保護する」を意味[3] (している)。

人が神から与えられた仕事は、神のみ心に従って世界を管理し、育成し、守り、共に祝福を受けるためのものでした。

聖書の仕事についての価値観は、スチュワードシップとも関連しているものがここからわかります。つまり、人は神からその権利と所有物を与えられ、それを管理する役割があるのです。

富を得る力を与えられたのも主であること(申命記8:18)を思い起こさせるものが必要でした。このことのため、主は十分の一献金と諸献金の制度を与えられました。[4]

つまり、お金を稼ぐ手段とその成果は神から与えられたもので、その能力と成果を管理する責任が人間にあるのです。

一般社会の仕事についての考え方の中では、手段と成果に重きを置きますが、聖書の仕事観ではそれ自体をどのように管理するか、ひいてはどのように神に栄光を帰すのかまで考えるのです。

私たちの労働は、今やキリストにおける神の恩寵に対する応答としての感謝の献げものとしての労働であり、愛のわざとしての労働、さらには神の栄光を現わすための労働という意義をもつに至るであろう。これが主イエス・キリストの福音に基づく労働観であると言えるであろう[5]

まとめ

お金を得たり、承認欲求や自己実現欲求を満たしたりすることが世間の仕事観ですが、聖書の価値観では、仕事とは「神に仕える」ことです。

そして、ビジネスにおいて成功した者はそれを独占するのではなく、神と人との奉仕のために有益に用いていくことが求められているのではないでしょうか(申命記14:29、26:12、箴言3:9)。

ぜいたくに金銭を浪費することは、貧しい人たちに必要な食物や衣類を与える資力を彼らから奪ってしまう。衣服や家や、家具や装飾の誇りを満足させるために費やされる金銭が、不幸に苦しむ多くの家族のために用いられるならば、それは彼らの苦痛を和らげるであろう。神の家つかさは困窮者に仕えなくてはならない[6]

当サイトの活動はすべて無料で行われており、皆様の寄付金によって支えられております。今後とも、皆様からの温かいご支援をよろしくお願いいたします。
ご協力いただける方は、ゆうちょ銀行の下記口座へご送金いただければ幸いです。 

口座番号 00220ー1ー73287
加入者名 アドベンチスト・メディアセンター

[1]内閣府「国民生活に関する世論調査 令和元年度」2020年10月20日参照。

https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-life/2-3.html

[2]芝井清久、吉野諒三「職業観・労働観に現れる価値観の多様性と普遍性―「環太平洋価値観国際比較」データの文化多様体解析CULMAN―」データ分析の理論と応用Vol 3、2013年

[3]L.ジェームズ.ギブソン『起源』2013年第一期教課、福音社、

[4]SDA世界総会『アドベンチストの信仰』福音社、1995年、467-468頁。

[5]小田島嘉久『キリスト教倫理入門』ヨルダン社、1988年、238頁。

[6]エレンホワイト『ミニストリーオブヒーリング』13-60神の家宰、298頁

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次