終末を生きる【1コリント6:1-2】

この記事は約7分で読むことができます。

目次

「終末」というと?

「終末」という言葉が持つイメージがあります。

みなさんはどのようなイメージを持っておられますでしょうか?

「終末」は、わかりやすく言えば、「終わり」と言えます。

通常、「終末」というと、「歴史的終末」をイメージし、それに関連する聖書の預言を思い浮かべます。

聖書がいう「終末」とは?

そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 (ヘブル9:27)

だれもが一度は死にますし、その問題がキリスト教の救いの始発点となっています。本来、永遠の生きるように造られていた人類は、神さまの命から遠く離れ、その結果、だれもが必ず死ぬ存在となりました。

死ぬしかない私たちを、もう一度命を得させるべく、神さまは、一人一人に「特別な時間」を与えられました。すべての人々に死が訪れる前、死が執行される前に、イエスさまを信じ、永遠の命を得ることが出来るように「特別な時間」をくださったのです。

その時間を聖書は、「恵みの時」と言います。

一般に、その事実を知らない人々は、その時間を「寿命」と理解します。

その寿命が何年であろうと、許された「時間」を生き、そして死んでいきます。この死を誰も拒否することはできませんし、運命的に受け入れることしかありません。

人生の目的

この「寿命」を、わたしは「執行猶予期間」と表現しています。

この「執行猶予期間」中に、神ご自身が用意された「救い」を受け入れる人は、失っていた永遠の命を取り戻すことができます。

神さまの用意された救いの道を受け入れることを、「信仰」と表現します。だれもに許された「神の恵み」なのです。

わたしたちが今を生きているのは、この地上で70年、長くて80年という「寿命」を生きるためではなく、この「寿命」の間に、永遠の命を取り戻すためだと聖書は教えます。

そこにこそ「人生の目的」があるのです。 

きょうを生きる

聖書は、この事実を次のように教えます。

人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩篇90:10)

主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。(詩篇39:4、5)

われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

わたしたちには、「終わり」、すなわち「終末」がありますし、だれもが、各自、「個人的終末」に向かって生きています。だからこそ、生きながらえる間、許された時間を大切にしなさいと聖書は教えます。

あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。(ヘブル3:13)

わたしたちはみな「きょう」という時間しか許されていません。

「昨日」、その時間はすでに過ぎ去っていて、もう一度生きることはできません。
「昨日」の時間はもはや私たちの時間ではありません。

「明日」、それはまだ来ていません。まだ来ていない時間を生きることはできません。
「明日」を先取りして生きることはできないのです。
「明日」はまだきていないので、わたしたちの時間ではないのです。

「今日」が過ぎると、「昨日」となり、同時に過去となります。
「今日」が過ぎると、「明日」は、「今日」に変わります。

わたしたちは、つねに「今日を生きる」ことしか許されていないのです

「時間は金なり」という言葉があります。それは時間を大切にしなさいという教訓です。

私たちが時間を大切にするということは、すなわち、わたしたちに許されている「今日」という時間を無駄にすることなく、大切に生きることを意味します。

神さまは、わたしたちを「永遠を生きるように」されました。しかし、人は善悪の木の実を食べることによってこれを「拒否」しました。結果、存在を永遠に失うことになりました。これを「死」と言います。

すべてのアダムの子孫は、この「死んだ後」のアダムの子孫として生まれたのです。つまり、生まれながら、命を失った状態で生まれているのです。

そこで神様は、人々を「死」から「命」に移すべく、すべての人々に「恵みの時」、「救いの時」を与えられました。そして、すべての恩恵期間が終わる時が、「歴史的終末」であるわけです。

「歴史的終末」は、すべての時間の終わりを意味します。「時間」が終わるとこの世のすべてが終わります。すべての終わりとともに、「永遠」が始まるのです。

この永遠の時間をすべての人々に与えるために、一人ひとりの人々に「救いの時」、「恵みの時」を与えられたのです。

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。(2コリント6:1-2)

あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。(ヘブル3:13)

そのために許された時間は「きょう」。

きょう、恵みを受け取るために、生かされているのです。

時間を大切に用いるということの本来の意味

わたしたちが、今、生かされていることの本当の意味は、神さまの救いの恵みを受け取ることにあるのです。これこそ、時間を大事にすることを意味します。

「終末」とは、この世で、アダムの子孫として生きるすべての人が生きる時間です。すべての人々に、終わり(終末)があり、終わりを生きています。

終末というと、日曜休業令やものを売ったり買ったりすることができなくなること、地震や戦争の噂、疫病、獣の刻印、ヤコブの悩みなどがあり、そのために、小さな角に関心を払い、終わりのための備えをしなければならない、と思うかもしれない。

しかし、現実は日曜休業令が現実的に起ころうとなかろうと、山に逃げるようなことがあろうとなかろうと、今、わたしたちは、それらと関係なく、個人的終末を生きているのです。

「明日」、私が生きているかどうか、なんの保証もない「個人的終末期間」を生きているのです。

聖書の人物であるアブラハムや、モーセ、ヤコブやヨセフも、避けることのできない個人的終末を生きました。各自の「個人的終末」を生きて、一度は死ぬことが定められているゆえに死んで行きました。「死ぬしかない人生」、それが「個人的終末」です。

だからこそ、大切な時間を良く数えて、大切に用いる必要があるのです。時間は決して永遠にあるのではありません。

生きるとは、「執行されるまでの猶予期間」を生きるに過ぎないのです。

われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

この終末を生き抜くための「地図」が必要になります。それが、「足元の灯火・預言の言葉」です。

激しい荒波のような人生を生き抜くため、荒波の上で破船しないためにも、命の言葉が必要なのです。つねに、み言葉を通して天の知恵を得る必要があります。

わたしは、この世には「二種類」の人しかいないと思っています。

①「最初のアダム」と

②「最後のアダム」です。

最初のアダムは、神さまの姿形に似せて、聖なる存在として造られました。全人類は、そのアダムから生まれ、地上は神さまの姿に似せられた愛にあふれた人々で「満ちる」はずでした。

ところが、善悪の木の実を食べ、神さまからの命を完全に失い、死ぬしかない死刑囚となり、その状態で、子孫を生んだのです。

すべての人は、アダムから、生まれながら命を失った状態で、一度は死ぬことが定められた人として、まるで死刑囚のように生まれました。

このような人々を、もう一度活かすために、独りの救い主が、アダムと関係なく生まれ、「命」としてこの世に来られました。

その方が「最後のアダム・イエスキリスト」なのです。

「最初の人アダム」の中で死んでいたすべての人々は、「最後のアダム」によって「命」を得ることができるようになりました。

今、すべての人々は、「最初のアダム」の中に留まり、執行猶予期間が過ぎ、死の執行を待つか、「最後のアダム」の中で命を得るか、どちらかを選択することが求められます。

このための時間を「恵みの時間」といいます。死刑が猶予された時間なのです。

わたしたちは、間違いなく、個人的終末を生きつつ同時に歴史的終末を生きています。

自分がキリストの中にとどまっているのか、アダムの中にとどまっているのかを、今、一度、真摯に吟味することは、重要な意味があると思います。

主は、滅びるしかない無力で弱いわたしたちのために、イエスキリストの身代わりの犠牲をゆるされ、永遠の死から、永遠の命へと移る機会をすべての人々に与えられました。

その恵みにあずからせようと、人々に大切な恵みの時を与えられました。

この大切な期間を、決して無駄にすることないように、神さまの計らいを決して軽んじることないように、神さまは、この特別な愛を、終わりの時代、歴史的終末を生きる残りの民に、委ねられました。そこに「三天使の使命」の特別な意味があるのです。

この恵にあずかり、この使命を生きるみなさまの上に、主の憐れみと祝福に預かることを、心よりお祈りいたします。終末を生きるみなさまお一人お一人の上に、主の特別な憐れみ、特別な守りがありますように、心からお祈りいたします。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次