求めれば与えられる?【聖書の名言】

この記事は約5分で読むことができます。

目次

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
(新約聖書 マタイによる福音書7章7節)

聖書を読んだことがない人でも、「求めよ、さらば与えられん」という言葉をどこかで見たり聞いたりしたことがあると思います。この言葉は、聖書に書かれているイエス・キリストの言葉です。

そして、この言葉を聞いて嫌な思いになる人は、きっといないと思います。

それどころか、「求めたら与えられるなんて、そりゃ〜いい話だ!」と思うんじゃないですか? 

物事がなかなか自分の思い通りにならない世の中や自分の人生にとって、求めれば与えられるなんて最高じゃないですか!? 

さて、何を求めてみましょうか。

でも、求めるって、だれに求めるんだろう?

求めれば与えられるのはありがたいことだとしても、だれに求めるかが肝心です。

みなさんは、だれに求めようと思いますか? 
家の近くの神社やお寺に行ってみますか? 
お金持ちの知り合いに頼んでみますか?

新約聖書はギリシャ語で書かれていて、「求めなさい」はギリシャ語では「継続」の意味があるそうです。つまり、「求め続けなさい」という意味になります(「探しなさい」、「門をたたきなさい」も同じ継続の意味があります)。

「継続は力なり」と似ていますね。なので、根気よく求め続けないといけないようですが、そうするためにはなおさら、だれに求めるのか、だれに求め続けるのかがよりいっそう、大事になってくると思うんですが、どうでしょうか? 

たとえば、苦手な人に物事をお願いし続けるって、根気が必要どころか結構疲れるし、しんどくないですか。

でも、仕事上必要だったりしますから、わたしたちは腹を括ってお願いしますけど……。

イエス・キリストが言われた「求めなさい」とは、「天の父」に、つまり神さまに求めなさいという意味です。

少し先を読んでみると、こんなことが書いてあります。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(新約聖書 マタイによる福音書7章9節ー11節)

「求めたら与えられるなんて、そりゃ〜いい話だ!」って、だれでもそう思います。だから、「じゃあ、あれも欲しい、これも欲しい」ってなりますよね。

でもこの言葉は、「自分が親になったつもりで考えてみなさいよ」って言われているように読めます。

まだ親になっていない人は、自分の親がどんなふうに自分の願いをかなえてくれたかを思い出してみてください。

「自分の子どもには良い物を与える」って書いてあるように、愛する自分の子どもが悲しむようなことはしたくない、子どもの喜ぶ顔が見たいと、親は思っているんじゃないでしょうか。

わたしたちの天の父である神さまも同じです。神さまは、わたしたちが神さまに根気よく求め続けた結果、わたしたちに良いものを与えることを喜ぶお方です。

ただ、「良いもの」というのは、わたしたちにとって都合の良いものではありません。親としては時に、子どもが求めるものとは違うものを与える場合があります。

たとえば、子どもがまだ小さいのに「ハサミが欲しい」と言うと、きっと親は「まだ早い!」と言って与えないでしょう。あるいは、子どもが欲しがっていないけど、小さい子ども向けの安全なハサミ(そんなのがあるのか知りませんが)を与えて、本物のハサミを使う時に向けて練習させるかもしれません。

親というのは、子どもの成長に応じて、ものを与えたり与えなかったりします。

わたしたちの天の父である神さまも同じです。それどころか、天の父である神さまはわたしたちのことを肉親よりもよく知っているので、わたしたちにふさわしいものをふさわしい時に与えてくださるお方です。

最初の話に戻りますが、「求めなさい」って、だれに求めるんでしょうか? だれに求め続けるんでしょうか? 

根気よく求め続けるには、相手がだれなのかが重要です。それは、天の父である神さまです。

そして、この神さまは、わたしたちの願いを何でもホイホイかなえてくれるような自動販売機のような存在でもなければ、言ったことは何でもかなえてくれる召使いでもなければ、四次元ポケットで何でも出してくれるドラえもんのような存在でもありません(ドラえもんですら、のび太くんの要求を何でもかんでもかなえているわけじゃありません)。

神さまは、わたしたちの「天の父」ですから、わたしたちの親という立場なわけです。

神さまがわたしたちの親であるということは、肉親よりもわたしたちのことを何でも知っているということです。そして、わたしたちにふさわしいものを、ふさわしい時に与えてくださいます。

わたしたちは自分の考えで突っ走って、欲しいものを欲しい時に手に入れようとして、痛い目にあうことがあります。でも、天の父である神さまは、わたしたちのことをよく知っていますから、わたしたちが痛い目にあわないようにと配慮までしてくださいます。

そんな天の父である神さまなら、根気よく求め続けるのもしんどくならないと思いますが、どうでしょうか?

天の父である神さまに対して、親子関係のような強い信頼があれば、なおさらだと思います。求め続けているものがなかなか与えられなかったりすることもありますが、神さまへの信頼があれば、「きっと、神さまは私に何かお考えがあって、私にとって一番いい時に、一番良い物を与えてくださるに違いない!」って、前向きに考えることができます。

「あれが欲しい、これも欲しい」と神さまに願うのも良いけれど、まずは、天の父である神さまがどんなお方なのかを聖書を読んで知っていくことから始めてみるのもいいかもしれないね!

 わたしたちが思っているよりも、神さまって素晴らしい、身近なお方だということを発見するでしょう。神さまはわたしたちの「天の父」ですからね。

そんな「天の父」である神さまを信頼して、根気よく求め続けて与えられたなら、それはそれは嬉しいのではないでしょうか。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次