ワルド派の由来
ケルト教会はブリテン諸島で純粋な初代教会と同じ信仰を守りながら、伝道活動を続けていました。同じように、ワルド派の人々が北イタリアで真の信仰を保っていました。
「Waldensian(ワルデンセス)」とは、「渓谷の人々」という意味があります。
元々、イタリア語では「Vallenses」と頭文字にはVがついていました。それがフランス語に翻訳されて「Vaudois」と表されるようになりました。しかし、12世紀になると、VがWに変化し、LがDに変化しました。そこからワルデンセスと呼ばれるようになったのです。
ワルド派の人々は、彼ら自身のことを改革者だとは思っていませんでした。
自分たちはカトリックに属したことはないと彼らは主張し、そもそもローマから分離する必要がないと考えていたのです。
ワルド派は、自分たちの信仰の起源が、何世紀も前にさかのぼった初代教会の信仰にあり、その信仰を受け継いていると主張していました。
事実、わたしたちは数千年とは言わないまでも、数百年にわたるワルド派の歴史を見ることができます。
4世紀にはヴィジランティウスと共にあり、7、8、9世紀にもワルド派の人々は存在していました。
ある人々はワルド派を創始したのは12世紀のピーター・ワルドだと言います。しかし、これはあまり正確なことではありません。
ピーター・ワルドはリヨンの商人で、自分の持ち物をすべて売り、確かに福音を伝えることに生涯をささげました。しかし、彼が最初のワルド派ではありませんでした。ワルド派のルーツは彼よりもずっと前にさかのぼるのです。
実際、初期のワルド派の名称のひとつはインサバティというものでした。ワルド派は安息日を守る人々であり、彼らが礼拝をおこなう、まさにその日にちなんで名付けられたのです。
ワルド派とローマ・カトリック
ワルド派が誕生した頃に、ローマ・カトリック教会も形成されつつあり、ローマ・カトリック教会もワルド派も周囲の異教徒を宣教地としてとらえていきました。
ローマ・カトリックが法と剣の力、そして政治的な同盟関係を用いて人々を説得したのに対して、ワルド派の人々は神の言葉の力に信頼を置いたのです。
下流域での迫害を受け、ワルド派の人々は上流へと移り住んでいきましたが、ワルド派の人々は世捨て人として生きるために移住したのではありませんでした。
第一に、彼らは迫害から逃れて、ここにきて、できるだけ普通の生活を送ろうとしていました。宣教師を育成し、聖書をどのように学び、教えるかについて若者を訓練しました。それが彼らにとっての普通だったのです。
谷間の至る所にあった数多くの学校の一例として、バーブス・カレッジは今日も建っています。彼らはヨーロッパ全土の宣教師となる若者たちを教え、訓練しました。
バーブス・カレッジには、聖書の筆写台があります。その場所で学生たちは手作業で丹精込めて、最初から最後まで聖書を書き写したのです。
ワルド派の信仰生活
聖書はワルド派の人々にとって、とても重要なものでした。彼らには彼ら自身の言語で書かれた聖書がありました。聖書は会衆礼拝の基礎となったのです。
若い人たちが集まり、聖書の大部分を暗記するようなコミュニティーを築き上げていきました。
学生たちは谷間の大学で学んだ後、ヨーロッパ中の大学に派遣されました。イングランド、スコットランド、フランス、スペイン、ドイツ、チェコ、ポーランド、リトアニア、ブルガリア、クロアチアなどヨーロッパ各地に渡りました。
彼らは学生として行った先で、医者になるため、看護婦、弁護士になるためにさまざまな勉強をします。しかし、彼らの真の目的は宣教師として各国に潜入することでした。彼らは聖書を持って出かけていくのです。
彼らの中には労働者として派遣される宣教師たちもいました。彼らは旅する職人もしくは工芸家、商人でしたが、彼らもまた聖書をたずさえてヨーロッパ各地に行き、旅をしました。
しかし、当時のヨーロッパでは聖書を持つことは違法でした。そこで彼らはコートを着て、コートの縫い目をほどき、コートを二重構造にして、その内側に聖書を隠し持つことにしました。そして、聖書の全巻ではなく数ページだけを持って旅をしたのです。
彼らは福音に関心のありそうな人を見つけるとコートの縫い目から聖書を取り出し、神のみ言葉の真理を分かちあいました。
迫害下のワルド派
西暦初期、ローマはワルド派の人々に要求を突きつけました。それは、我々が望む生き方に従うか、もしくは住み慣れた場所と礼拝の場を捨てるかという選択でした。
ワルド派の人々は家よりも神の言葉に従うことを選びました。こうして彼らはそこを出て、山に入っていくことになるのです。ワルド派の渓谷での暮らしは決して楽ではなかったでしょう。
成長していく子供たちは、自己犠牲と自己否定、倹約と経済性という教訓をすぐに学ばなければなりませんでした。両親は聖書に書かれている原則を大切にし、それらを子どもたちにも授けたいと願っていました。
彼らは、それを大切にして山に隠れ住み、2つのことを教えようとしたのです。
1つめは、神の言葉に基づいた純粋な生き方を教えること、2つめは、自分たちが持っている信仰を広めることでした。親たちは自分たちが住んでいる谷間だけでなく、さらに遠くへ伝えることのできる宣教師になることを子どもたちに望んでいました。
そのため、この地に学校を建て、礼拝所を設けました。時には洞窟の中で、彼らは子どもたちや若い人たちに、どのようにしたら宣教師として出て行き、み言葉を伝えられるか教えようとしたのです。
ワルド派は聖書を熱心に信じていました。聖書に従うべきであると信じ、それを大切にしていました。そして、ワルド派は聖書を通して与えられた神の戒めを信じ、守ろうとしました。しかし、彼らはその信仰のゆえに迫害されていました。
それゆえに、彼らは高い谷に退かなければならなかったのです。
アルビジョア派
ワルド派はアルプス山脈のイタリア側で暮らしていましたが、同じ信仰をもつ集団がフランス側にもいました。
南フランス全域に広がり、東はアルプスから、西はピレネーにまで及びました。彼らは自国語に訳された聖書を読み、自由を愛し勤勉で心豊かな人々でした。
彼らはアルビジョア派と呼ばれました。
ヨーロッパに点在する他の集団と同じように、神の言葉に忠実であり、ローマの傘下に入る動きに抵抗していました。
もしこの動きが妨げられていなかったら、宗教改革は16世紀ではなく、13世紀に始まっていたことを歴史家は指摘しています。
そして、拠点はドイツではなく南フランスであったということです。
教皇イノセント3世と十字軍
13世紀初頭は教皇イノセント3世の治世でした。彼は決して「潔白(イノセント)」ではなく、当時のヨーロッパの状況を調査し、こう判断したのです。
どんなに小さい集団でも、教会の存続のために駆逐する必要があると。
そして、そのような信者たちに対する、殺害命令が下されました。十字軍が発足し、広範囲に活動を強めていったのです。北フランスの「戦士」たちは、パレスチナまで行く必要がなくなりました。自国で同じ恩恵にあずかることができたのです。
彼らはこのように教えられました。
殺すことによって罪が洗い流され、殺した相手の財産を手にすることができ、死んだらすぐに天国に行けると。
これらはすべて40日間の服役との引換えに約束されました。
南フランスに来た軍の構成員がどのような人たちだったのかを、想像できることでしょう。
1209年から1229年までの毎年、20年にわたりこの十字軍はアルビジョア派に対抗しました。
ベジエでの戦い
教皇イノセント3世の命により、初期のころ、十字軍はトゥルーズを攻撃し、征服しました。
それから、南下して、1209年7月にベジエという町に来ました。多くの兵士が町を取り囲み、攻撃を仕掛けます。人々が陣地を固める前に攻撃したのです。
しかし、それは失敗に終わり、撃退されました
十字軍の攻撃を逃れて人々が急いで町に戻ってきたとき、十字軍に市民が紛れて、一緒に町になだれ込みました。門を閉める暇もありませんでした。ここで問題が発生します。
十字軍はどうしたのでしょうか。町にはアルビジョア派と一緒にカトリックの十字軍がいました。そして、そこで教皇庁の公使はこう言ったのです。
すべて殺せ
神は己の者を知り給う
記録によると血は水のように流れ、町の人々はすべて惨殺されました。誰ひとり助かる者はいませんでした。教会に避難していた人々でさえも殺されたのです。
当時、町の人口は1万5千人ほどでした。しかし、この破滅の日には、約6万人がいたと考えられています。近くの町や村の人々が避難して来ていたのです。
虐殺の後、この場を去る前に、町に火が放たれ、すべてを焼き尽くしました。1軒の家も残ることはなく、誰一人として助かりませんでした。
この地域にある他の都市や町も陥落し、同じような運命をたどりました。彼らは民族こそ異なりましたが、信仰を同じくする人々でした。
これらの破壊と組織的な殺害は、虐殺行為と見なされています。この時から、教皇庁の威信は大きく損なわれました。この殺りくのニュースがヨーロッパ中に広まったからです。
しかし、アルビジョア派は撲滅されたわけではなく、数世紀にわたって小さな単位で残り続けました。