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悪が存在しているなら、神は存在しない?
自然界は決してわれわれのために神が整えてくれたものではない。この世にはあまりにも罪が備わり過ぎている[1]。
そのように、ギリシャのエピクロスは言葉を残しています。彼の言葉はわたしたちの人生最大の疑問を突きつけてきます。
神は愛である。ヨハネの手紙一 4:8(口語訳)
この言葉が真実ならば、なぜ苦しみはあるのでしょうか。なぜ、わたしは愛する人を失わなければならなかったのでしょうか。なぜ、わたしは病気になったのでしょうか。なぜ、わたしの人生はこうも苦しいのでしょうか。
この苦しみの中でわたしたちには、ひとつの結論が導き出されます。それは、神などいないという結論です。しかし、すべてが偶然の産物であり、そこに意味はなく、ただ苦しみだけが存在しているのであれば、希望はありません。
今日、最も影響力のある進化生物学者の一人であるスティーヴン・グールドは、一つの細胞から今のような世界までに進化する可能性は、ほとんどゼロであるとしています[2]
そのうえでこう結論づけました。
「だから生きていることは奇跡なのだ」と。
しかし、こうも言い換えられるかもしれません。
この世で確かなことは、死と税金以外にはない[3]
この言葉はアメリカの独立に尽力したベンジャミン・フランクリンが、手紙の中で残した言葉です。奇跡としか言いようのない確率でわたしたちが誕生したにもかかわらず、人生において確かなことが税金と死しかないのであれば、そこに希望はありません。

苦しみを耐えるために苦しむ
希望が見えなくても、苦しみは依然として目の前に見えています。その苦しみを耐えるためにわたしたちは淡い希望を抱いたり、さまざまな理由づけをしたりしてきました。
「あと少しでこの苦しみは終わる」。
そう自分を励まして前へ前へと重い足を進ませてきましたが、わたしたちはそれがまやかしであることにも薄々気付いています。ホロコーストという史上最大の苦しみの渦中に投げ込まれた、ヴィクトール・フランクルは著書の中でこのように言っています。
希望は何度も何度も失望に終わったために、感じやすい人びとは救いがたい絶望の淵に沈んだ[4]
「あと少し」という励ましはむしろ絶望へと誘う道でしかないのかもしれません。事実、強制収容所の中で多くの人が命を落とした時は、淡い期待が裏切られた時であるとフランクルは記録しています。では、どのように苦しみと向き合えばよいのでしょうか。この苦しみに何か意味づけをすればよいのでしょうか。
そのような意味づけの最たるものが「この苦しみは将来の糧となる」という考え方でしょう。しかし、この考えはフランクルが経験したホロコーストのような圧倒的な苦しみの前では藁のように吹き飛ぶものです。戦争、虐待、自然災害、パンデミック、その他ありとあらゆる苦しみの理由としては、決して納得いくものではありません。

キリスト教の初期のリーダーであるパウロは歴史を振り返って「この世は彼らの住むところではなかった」と言いました(ヘブライ人への手紙11:38)。そのうえで彼は次のように断言します。
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。ヘブライ人への手紙13:8(口語訳)
神であるキリストが変わることはありません。愛する人を失った時も、病気になった時も、苦しんでいるこの時も愛の神なのです。では、この愛の神はなぜ悪を許されるのでしょうか。
神は愛なのか?
「神の判断は本当に正しいのか。わたしが上に立つべきではないのか」。
キリストに最も近い地位にいた天使ルシファーは、あるときからキリストの上に立ちたいという思いにとらわれます。なぜそのような思いが生じたのかはわかりません。
確かなことは、ルシファーはその目的を達成するために、「神は愛でも正義でもない」と主張し、その疑念を最初の人間であるアダムとエバにぶつけていったということです。
こうして敵(サタン)となった存在の言葉にだまされたエバを見て、彼女を失うのを恐れたアダムは、神に背き、キリストから離れていきます。
愛を強制することはできません。愛は自由意志を必要とします。プログラムされたロボットに愛がないように、自分の意志で神に従い、あるいは神の愛を拒むことのできる存在のみが、神と愛のある関係を築くことができるのです。だからこそ、アダムはキリストから離れ、エバを選びました。
そして、それは世界を壊したいと望む、サタンの誘惑に屈することを意味していました。
そのような彼を指して、サタンはキリストに言います。
「ほら、アダムはお前を愛してなどいない。彼は天国でお前と過ごしたくはないのだ」。
ここでこのような疑問が出てくるのではないでしょうか。
「この敵を滅ぼせばいいじゃないか。もし、わたしが神であれば彼らが苦しまないように、その原因をすぐにでも滅ぼすのに。神は無力なのか」。
しかし、想像してみてください。もし、悪を行った存在がすぐ滅ぼされとしたら、周囲でそれを見ている人たちにはどのような感情が心に残るでしょうか。
恐怖ではないでしょうか。
そして、すぐ滅ぼされたのが自分の愛する人であったならば、あるいはその人の行った悪が誰の目にも明らかにわかるものではなかったとしたら、どうでしょうか。敵にだまされたエバがすぐに滅ぼされたならば、アダムはどう思うでしょうか。
疑念が心に生じるのではないでしょうか。「神は愛なのか。その判断は正しいのか」。と。
実はこれこそが、敵であるサタンの策略であると聖書は言います。それゆえに力による解決はできないのです。だからこそ、キリストは彼らの盾となることを決められました。
キリストはアダムとエバの和解をしたいという思いを確認すると、黙って彼らの罪の責任を背負います。そして、彼らがもう一度天国に入ることについて疑問を持つすべての者に告げます。
「皆の思いはあるだろうが、わたしは彼らをゆるした。この決断に異議があるなら、わたしを責めなさい。彼らの罪はわたしが背負ったのだから」。

愛ゆえに苦しむ
アダムとエバのときと同じように、わたしたちに対しても、その思いをキリストは確認され、盾となられます。しかし、いつまでも忍耐することはできません。待てば待つほど、サタンはこの世界を壊し、苦しみは世界に満ちるからです。
その苦しみが限界に達したとき、キリストは天を飛び出します。
「もう十分、もう苦しみも悲しみも痛みも十分だ」。
そういって、人の目から涙をぬぐいとってくださるのです。しかし、それは同時にキリストが最も激しく泣くときでもあります。
悪の原因を消さなければ、この世界から悲しみはなくなりません。それは、かつての親友であったサタンを滅ぼし、そのサタンを選んだ人々を、愛しているにもかかわらず、滅ぼさなければならないことを意味しているのです。
キリストはわたしたちの罪を背負い、十字架で死なれました。それはどんなにわたしたちが神を必要としていなくても、わたしたちを愛しておられるからです。アダムがキリストの手を振り払ったとしても、手を差し伸べ続けたように、今もなおわたしたちに手を差し伸べておられます。だからこそ、この苦しみの世界に終止符を打つ決断は重いのです。
愛ゆえに苦しみは存在し、愛ゆえに神は苦しむといえるでしょう。
愛こそが希望
なぜ、わたしたちの人生に苦しみがあるのか。その理由を完全に理解することはできません。しかし、キリストが人類の罪を負ったということは、神がわたしたちを愛し、悪の問題を解決するために最善を尽くしている何よりの証拠になるのです。
ホロコーストという最大の暗闇を生き延びたフランクルは次のように言っています。
思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ[5]
希望が見えない暗闇の中にあっても、人は愛によって満たされるのです。愛こそが、わたしたちが今の苦しみを耐える希望となります。
神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる3:16(口語訳)
わたしたちはこの神の愛によって、満たされるのです。聖書はその愛を伝えているのです。
参考文献
[1]本多峰子『悪と苦難の問題へのイエスの答えーイエスと神義論ー』キリスト教新聞社、12頁
Luctretius, De Rerum Natura, with tr. W.H.D.Rouse,2nd ed. In Loed Ckassical Library (Cambridge:Harvard Univ.Press,1982),pp.394-395
[2]スティーヴン・グールド『ワンダフル・ライフ』ハヤカワ文庫NF、397-398頁
[3]Sparks, Jared (1856). The Writings of Benjamin Franklin, Vol. X (1789-1790). Boston: Macmillan. p. 410.
[4]ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版 (Japanese Edition) (p.52). Kindle 版.
[5]ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版 (Japanese Edition) (p.57). Kindle 版.