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先祖を敬う生き方

日本人は先祖を敬う国民です。
わたしたちの命は、さかのぼれば先祖代々、脈々と受け継がれてきているわけですから、今ある命と幸せをご先祖様のおかげと受け止め、感謝する心は尊いものです。
しかし、もっと大切なことは、どのように生きることが本当に先祖を敬うことになるのかを正しく理解することです。
親が喜ぶように生きることこそ、一番の親孝行です。同様に、先祖が一番喜ぶように生きることこそ、先祖を敬う生き方ではないでしょうか。
先祖は死んで眠りについていますので、もはや、永久にこの地上の一切のこととは、かかわりをもつことはありません。
仮に意識があるとしても、子どもや子孫の幸せを一番望むだろうし、喜ぶのではないでしょうか。
「先祖を拝まないから、たたりがある」といったことを耳にしますが、そのような教えは真理だとはとても思えません。
わたしたちが、この地上で与えられた命を大切にし、本当に人間として最高に幸せに生きること、これこそ本当に先祖を敬う生き方なのではないでしょうか。
聖書の価値観に沿って言えば、それは死んだ先祖に手を合わせることではありません。
むしろ、先祖をも造られた命の神、すべての人間の命の源である神を礼拝し、この神の教えに従うことこそ、本当に先祖を敬う生き方と言えるでしょう。
なぜなら、この神を敬い、この神に従うときに、人間は本当の意味で幸せになれるからです。
十戒の第二条
神の戒めがまとまったかたちで、示されているのが、十戒です。
イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出した後に、二度と奴隷となることのないように、真の自由を喜び楽しむように、神が語られた10の言葉が十戒でした。
あえて言葉を補うとすれば、「あなたを解放する10の愛の言葉」ということができるでしょう。
今回は、「十戒の第二条」つまり「神からの第二の愛の言葉」を一緒に学んでみたいと思います。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。出エジプト記20:4-6(口語訳)

神はこの戒めをとおして、何をなさろうとしているのでしょうか。
そうです。神はわたしたちから、一切の偶像を取り除こうとしておられるのです。
あなたが、本当の自由と幸せを楽しむためには、偶像は必要でない。
いや、かえって、妨げになるのだ。だから、偶像を捨てなさい。
そう言われています。
神は、わたしたちの幸せのために、いろいろな偶像礼拝から、わたしたちを解放しようとしておられるのです。
偶像礼拝を禁じる理由 その1
この神が偶像礼拝を禁じる理由は、なんでしょうか。
第一に、「刻んだ像」つまり「偶像」は神と人との直接の交流を妨げてしまうからです。
ご自分の民をひたすら愛される神、ねたむほどに激しく愛し、交流を求められる神は、偶像礼拝を禁じているのです。
人間を造られた神は人間の幸せにとって、神との直接の交わりが絶対に必要であることをご存知です。
ところが偶像礼拝は、神と人との直接の交わりを妨げてしまうのです。
さらに、神さまは自分のかたちにかたどって造られた人間を、激しく愛しておられるゆえに、人間と直接に交わることを望んでいます。

夫と妻は、手紙や電話だけの交わりでは満足しません。
もし、妻が夫の写真をいつも手にして写真に語りかけ、直接、顔と顔とをあわせて交わろうとしないならば、どうして夫は満足できるでしょうか。
偶像は、真の交わりを妨げるのです。
神は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」、神を愛することを求めています。
なぜなら、神もまた「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」、わたしたちを愛しておられるからです(マタイ22:37)。
あるところに、一人の忠実なクリスチャンがいました。
彼は長い年月、忠実な信仰生活を続けていましたが、いつしか自分の信仰生活に満足できなくなりました。
「主よ、あなたがわたしのすべてのすべてとなるようにしてください」。
そのように彼は、真剣に熱心な祈りをささげるようになりました。
そして、あるときに彼は、神から特別に教えられたのです。
それは「あなたこそ、わたしのすべてのすべてだ」と神が言われている、ということでした。

キリストは、全人類の罪のために十字架にかかられました。
しかし、たとえ一人の救いのためでも、キリストの命のすべてが必要だったのです。
あなたは、キリストの犠牲の何億、何兆分の一の血で救われたのではありません。
キリストの血は、あなただけのものです。キリストはあなたを救うために命の全部を差し出してくださったのです。ここに、愛があります。これが神の愛です。
神は、これほどに、わたしたち一人一人を愛し、心にかけています。
そして、わたしたちとへだてのない、心と心の交わりを切に求めているのです。神は、生きています。
そして、いつでも、どこでも、わたしたちと交わりを持つことができるのです。
わたしたちもまた、そのような神といつでも、どこでも直接、交わりが持てるように招かれているのです。
神とのこの直接の交流の中にこそ、人間の本当の幸せがあることを、神が一番知っています。
だからこそ、「刻んだ像を造ってはならない、それにひれ伏してはならない、それに仕えてはならない」と命じられるのです。
わたし自身がこの神を知り、この神に祈り、この神を礼拝するという神との交流を体験してみて、今まで体験したことのない平安を味わうようになりました。
これは、他のどんなものによっても得られないものです。
しかも神との交わりは、いつでも、どこでも、何をしていても、さまたげられることがない、というのは本当に素晴らしいことだと実感しています。
神が偶像礼拝を禁じる理由、その2
神が、偶像礼拝を禁じる理由は、ほかにもあります。
第二の理由は、わたしたちが神の本当の姿を正しく知ることを、神が望んでいることを挙げられます。
わたしたちの幸せは、唯一の真の神を知ることにかかっていることを、だれよりも人間を創造された神は知っているのです。
神を知らないことが、あらゆる不幸や災いの原因となっています。
あなたがたはみずから慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形をも見なかった。それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。申命記4:15、16上(口語訳)
神は、いかなるかたちによっても、神を表現することはできないのです。
真の神を本当に礼拝するためには、偶像のような目に見えるかたちは、かえって妨げとなります。必要なのは、信仰なのです。
物体をもって永遠のおかたを象徴しようと試みるときに、神に関する人間の観念は低下するのである。人の心は主の無限の完全さから離れる時に、創造主よりも被造物の方へひかれるのである。そして神についての観念が低下するにつれて、人間は堕落するのである。
『人類のあけぼの』上、356ページ
ここで指摘されていることは、偶像礼拝は偉大な神を引き下げ、また偉大な人間をも引き下げて堕落させる、ということです。
パウロという伝道者が、つぎのように祈っています。
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちにすみ、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。エペソ3:16-19(口語訳)
これはパウロの祈りであると同時に、パウロにこれを書かせた神の願いでもあります。
キリストをとおして現わされた、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することが、わたしたちの特権です。
神を知れば、神を愛するようになります。神は、それほどにすばらしいお方だからです。
もっともっと神の愛を悟る者となりたいと願っています。
この神の無限の愛を、人間の造った偶像などであらわすことは、決して、決して、決してできません。ただ神の御子イエス・キリストだけが、神をあらわすことができました。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。ヨハネ1:18(口語訳)
イエスは彼(弟子のピリポに)言われたわたしを見た者は、父を見たのである。ヨハネ14:9(口語訳)
神の偉大さは、人となってこの地上に生まれた赤子のキリストやハンセン病にかかって絶望と孤独や不安、恐れの中に生きていた人を深く憐れんで手を伸ばしてさわり、「きよくなれ」(マタイ8:3.マルコ1:41、ルカ5:13)と言われたあの姿の中に見ることができます。
また、ひざまずいて弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでその足をぬぐわれた姿にも見られます。
そして、一番よくあらわされたのが、あの十字架の上に釘打たれ、苦しみの中で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と祈られた姿の中です。
全宇宙を創造し、支配し、保持しておられる偉大な神、王の王が辱めと屈辱に耐えて、わたしたちの罪のために十字架にかかり、ご自分の命までささげてくださったのです。
それは、わたしたちを愛するがゆえでした。
真の神は、へりくだる神、自己犠牲の愛の神です。ここに、神の偉大さがあります。
この神をどうして、人間の手で造ったり、刻んだりできるでしょうか。
そうすることは、偉大な神を引き下げることです。
そして、わたしたち人間は罪を犯したとはいえ、神の御子が、これほどの犠牲を払ってまで救おうとされたほどに、神とって価値のある存在なのです。
人間の偉大さは、神が払われた犠牲の大きさの中に示されています。
あなたもわたしも、神の目にはこれほど大切な存在とみなされているのです。
さらに、わたしたち人間だけが神のこの大きな愛と犠牲、すばらしい救いを悟り、受け入れることができるのです。
そして、そこに感謝と献身をもって、応答できる、唯一の存在なのです。ここに、わたしたち人間の偉大さがあります。
ところが、神のかたちにかたどって造られ、神と交わることのできる偉大な人間を、偶像礼拝は引き下げることになるのです。

かつて、わたしが牧師をしていたある教会の近くに、石を簡単に積み重ね、その石の上や、周りに草履がならべて置いてありました。
聞くところによると、「足の神」だそうで足の不自由な方が、手押し車を押してこられ、線香やろうそくをたいて、拝んでいました。
そして、そのすぐそばが、ごみ置き場になっていました。
信心は尊いと思いますが、人間が、自ら石を積み重ねてつくった粗末なものに頭を下げ、自分の足が治るように拝んでいる姿を見て、なんだか悲しくなりました。
人間が石に向かって拝むことのむなしさ、愚かさに気づかない、気づかせない、そこに偶像礼拝の恐ろしさがあります。それは、確実に人間を引き下げてしまうものです。
こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。
これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、「わたしはその半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを造るのか。木のはしくれの前にひれ伏すのか」と言う者もない。彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また「わが右の手に偽りがあるではないか」と言わない。イザヤ44:15-20(口語訳)
このみ言葉は、偶像礼拝によって、人が霊的に盲目になっていく恐ろしい現実を指摘しています。
これ〔偶像〕を造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。
偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。〔新共同訳〕詩篇115:8
この目で見ることのできない神を、目に見える形であらわそうとすると、本当の神を見失ってしまいます。
偶像は、本当の神とはかけ離れているからです。
それだけでなく、自分が無意味な、むなしいことをしていることすら、わからなくなるのです。
つまり、信仰の目が見えなくなり、神を知る能力が失われていくということです。ここにも、偶像礼拝の落とし穴があります。
あるとき、おばあちゃんが教会にやってこられました。
礼拝堂をながめて、ここにはご本尊はどこにありますかと尋ねた、というのです。

ご本尊がなければ、拝めない、拝んだ気がしない、そのようになってしまうのです。
このような礼拝をいつも経験している人は、偶像のあるところでは、敬虔な気持ちが起るかもしれません。
しかし、偶像から離れたところにいれば、まったく忘れて、まるで神がいないかのように振舞うことになってしまうのです。
生ける神は、いつでも、どこでも、わたしたちとともにおられます。人が見ていなくても、神は見ておられます。この神の目をごまかすことはできません。
日本中、いや世界中の人が、本当にこの神を知っていたら、どんなに多くの犯罪がなくなり、不幸と苦しみが減ることでしょう。
神が偶像礼拝を禁じる理由、その3
偶像礼拝には、もう一つの落とし穴があります。それは偶像を拝んでいる人は、ある種の安心を得られることによって、真の神を礼拝する必要を感じない、ということです。
ここに、偶像礼拝の恐ろしさがあります。そして、これが、神が、偶像礼拝を禁じられる、第三の理由でもあります。
日本人は、八百万の神を拝んでいます。日本中に偶像があふれています。
このことと、日本人が聖書の神である天地創造の神を求めず、信じようとしない現実。つまり、クリスチャン人口が1%に届かないほど、少数であることとは無関係ではない、と思っています。
特に、日本人は、先祖崇拝を大切にします。このことが、まことの神を信じ、拝むことを妨げている、ということも否定はできません。
日本人は、仏壇にむかって手を合わせ、先祖の位牌や刻んだ像に手を合わすことで先祖を敬っている、と錯覚しているのではないでしょうか。

しかし、これを読まれている方々には、ぜひ、次のことを考えていただきたいです。
日本人は、位牌や仏壇に向かって手を合わすことによって、先祖をも造り、生かしてくださった、命の源、先祖の先祖である偉大な生けるまことの神を拝むことを拒んでいるのではないでしょうか。
天地創造の神は、日本人の神でもあるのです。
この神を信じて礼拝することは、わたしたちの幸福に欠かすことができない大切なことです。
それにもかかわらず、その祝福を拒んでいる。むしろ、生けるまことの神を拝むことが、先祖に逆らうことであるかのように錯覚しておられる方がたくさんおられるのです。
そのような思いを抱かせたりすることの中にも、偶像礼拝の危険と落とし穴があります。聖書の中で、神が偶像礼拝を厳しく戒めて、警告しておられる理由がわかるような気がします。
わたしたち自身に命を与え、この一瞬一瞬、生かしていてくださる、命の神にこそ、わたしたちは感謝をささげ、礼拝すべきではないでしょうか。
人間が無限に清く、気高い神についてのより高い観念を持つことを、神は望んでおられます。
それは、神のかたちにかたどって造られた人間をさらに高く成長させ、神にいっそう近づくことを可能にします。
神はわたしたちがもっと清くなるように、もっと高く成長するように招いておられるのです。
自分のために
さて、十戒の第2条の中に「自分のために」とあることに注目してください。
ここに偶像礼拝の本質、あるいは偶像を拝む動機が示されています。
偶像礼拝とは、実は自分を神とする自己崇拝なのです。
「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とあります。
家内安全、商売繁盛、合格祈願を祈って、手を合わせますが、それは人間が自分の欲望や願望、目的達成のために、神の力を利用しようとしているのであって、けっして人間が神に仕えているのではありません。
このことをわかりやすくあらわしているのが、童謡の「てるてるぼうず」です。
1番
てるてるぼうず、てるぼうず、
あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のように晴れたら
金の鈴あげよう
2番
わたしの願いを聞いたなら
あまいお酒をたんと飲ましょ
3番
それでも曇って泣いてたら
そなたの首をチョンと切るぞ
もし、「自分のために」拝むのなら、拝む対象がたとえ真実の神であっても、それは偶像礼拝になってしまいます。
わたしたちが、天地創造の生ける神を礼拝する動機が利己的であるならば、偶像礼拝になってしまうのです。
わたしたちは、神さまを礼拝しているとき、自己中心になっていないか、自問してみる必要があります。
人が神を動かすのではなく、神が人を動かすのです。神を、自分の道具のように使うのは、本当の礼拝ではありません。
むしろ、神のみ心がおこなわれますようにと祈るときに、本当の幸せな人生を送ることができるのです。
これについては第三条で、また学びたいと思います。
あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない、と神は命じられています。
神以外のものを拝むことは、みな偶像礼拝になります。その礼拝の本質は、自分を神とすることです。
聖書は、その代表的なものとして、お金(ヨブ31:24,28)、人間〔エレミヤ17:5〕、不品行、貪欲(エペソ5:5)などを指摘しています。
被造物である人間が、真の神である天地創造の生ける神をあがめる最高の行為が、礼拝です。
そして、礼拝こそ神のかたちにかたどって造られた人間だけにできるすばらしい行為です。
わたしたちが、自分を神に造られ、生かされている土くれに過ぎないということを認め、生かしてくださる神の恵みと愛に感謝して、ひざまずくときにわたしたちは神に栄光を帰することができるのです。
そして、神はそのようなわたしたちを祝福してくださるのです。
神ご自身が特別に定めてくださった、交わりのときが安息日であり、礼拝の日としてとても大切です。それはわたしたちの祝福のためです。
この日を、人間の都合によって、守ったり守らなかったりするとき、わたしたちは神を偶像化してしまうのです。これについては、第4条で学びましょう。
まとめ
神はあなたを愛しておられます。ねたむほどに愛しておられます。そして、いつでも、どこでも、わたしたちとの交わりを求めています。
それが、人間の本当の幸せになること、最大の祝福になることを神は知っているからです。
神は霊とまことをもって、心の目で仰ぎ見るべき存在です。神を見える形のものであらわすと、本当の神から離れてしまうのです。神は、形であらわすことができないからです。
偶像は、まことの神を見失わせ、神を自分のレベルにひきさげてしまい、しかもそれに気づかず、自己満足に陥らせる危険を持っています。だから神は、このような偶像礼拝を憎む、と言われるのです。
あなたを愛し、あなたの幸せをだれよりも願う神が、わたしたち一人一人に、いつでもどこにいても、何のさまたげもなく、自由に交わりましょう、と招いておられます。
この神をあなたも求め、生きた交わりを体験して、揺るがない平安と喜び、希望のある人生を歩まれますように、心よりお祈りします。