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目次あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節)
「神さまは乗り越えられない試練は与えない」という言葉が世間一般に知られるようになったのは、競泳の池江璃花子選手が白血病であることを公表した際に、この言葉を口にされたことがきっかけだったと思います。
そして、この言葉の出所が聖書だということも知られるようになりました。
さて、この聖句にある試練とは何でしょうか? この世の中には耐えられない試練が多くあるように思います。耐えなさいという言葉はときに無情なまでにわたしたちを傷つけていきます。
興味深いことに、英語の聖書では「試練」は”Temptation”と訳されており、「誘惑」という意味になっているのです。もともとの原語のギリシャ語でも、この言葉は「罪への誘惑」という意味がある言葉が使われています1。
なるほど、「試練」という言葉を「誘惑」と理解するのが正しいようです。
ここは「神さまは耐えられない誘惑をあなたに与えることはない」という意味で考えたほうがより正確です。
さらに、口語訳聖書はこの前を次のように訳しています。
あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはない。……(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節)
「罪」はこの世界では当たり前のことで、ありとあらゆるところから誘惑してくるけれど、神さまは必ずそこから逃れる道を備えてくださっているという約束なのです。
わたしたちを誘惑によって悪い方向に行かないように、神さまは守り、逃れる道を用意してくださっているという素晴らしい約束がここにあります。
罪というのは、わたしたちを神さまから引き離す力を持っていますが、神さまはわたしたちを罪の強い力から守ってくださいます。
そもそも「罪」とは一般的に、警察のお世話になるようなことを言います。

でも、自分はそんなことをしていないから罪とは関係ない
そんなことを多くの人が思っていることでしょう。
また、体に悪いとわかっていながら、夜中に濃い味のカップ焼きそばにマヨネーズをたっぷりかけて食べると(結構美味しいらしい)、「罪深い食べ方だ」などと言ったりしますが、
それを本当に「罪深い」などとは思っていません。
「罪」という言葉は一般的には犯罪者のための言葉で、私たちが普段の生活で「罪」というものを意識することはほとんどないでしょう。
でも、人の悪口を言ったり、人に対して悪い思いや感情を心に持っていたり、心の中で相手を殺したいと思っていたりした場合はどうでしょう。
実際に人を殺さなかっただけのことで、何かの拍子に実際に人を殺してしまう危険をだれもが持っています。
警察のお世話にならないようなことでも、人を傷つけたり悲しませたりするような悪いことをわたしたちはよくしていますが、そういう悪い行為の根本はその人の心に問題があるからです。
聖書が教えている「罪」とは、悪い行為だけでなく心の状態も含んだ広い意味を持っていると教えているので、わたしたちは誰一人もれなくみんな罪人だと言えます。
口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。(新約聖書 マタイによる福音書15章18-20節)
「罪」という言葉の元々の意味は「的を外す」という意味だそうで、それは戦争で槍を投げて、敵に命中しないことを言うそうです。そして、戦争において手抜きをして槍を投げる兵士はいません。みんな命がけで槍を投げますが、狙ったところには当たりません。
同じように、わたしたちはそもそも罪人なので、良い人になろう、良いことをしようと一生懸命になってみても、やることなすことが全部「的はずれ」になることばかりです。
「的はずれ」と言いましたが、その「的」とは何かというと、それは自分が目標としている到達点というよりは、神さまがわたしたちに望んでいることが「的」です。
これをイエス・キリストは具体的にこのように表現しました。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。……隣人を自分のように愛しなさい。(新約聖書 マタイによる福音書22章37,39節)
「神さまを愛し、人を愛する」ことができないすべての心の思いや状態、行為が「罪」であるとも言えるかなと思います。
さっきから「罪」ばっかり言っているのでうんざりしていることでしょう。でも、自分の胸に手を当てて考えてみると、自分って神さまも人も愛するどころか、神さまに逆らったり人を傷つけたりするようなことばかり考えたり実際にそうしているなと思うでしょう。
しかし、とてもありがたいことに、そんなわたしたちに対して聖書にはこのような約束があります。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(新約聖書 ヨハネの手紙一 1章9節)
主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。(旧約聖書 ミカ書7章19節)
「あらゆる不義から」、「すべての罪を」とあるように、文字通りすべての罪を赦してくださるという約束です。
警察のお世話になるようなことから、心の中で密かに考えてしまう悪い思い、一生懸命生きているつもりなのに「的はずれ」なこと、つまり神さまが望んでいないようなことをしたり考えたりしてしまうことなど、すべてひっくるめて「罪」と言います。
それらすべてを神さまがゆるしてくださるというとてもありがたい約束です。どうしてそんなことができるのか、という点については別の機会に取り上げたいと思います。
何はともあれ、こんなありがたい約束を信じない、受け入れない、というもったいないことをして良いでしょうか。
もし、何か過去にやらかしてしまったことや、人を傷つけ自分も傷ついてしまっているようなことなど、自分の心を苦しめていることがあれば、正直に神さまへ打ち明けてみましょう。
それらをすべて神さまは赦してくださると約束しています。神さまのゆるしを信じて受け入れるなら、心がとても楽になり、過去に縛られることなく前を向いて生きることができるはずです。
神さまは、わたしたちの罪をゆるしてくださいます。
そのことを忘れたり、信じられなくなっている誘惑に陥っていませんか?
「自分はこんなに悪いことをしたから、赦されるはずがない」と思っていませんか?
「わたしたちにとって、一番厄介な誘惑は何かな?」と考えてみましたが、「神さまがわたしたちの罪をゆるしてくださるという約束を忘れさせる誘惑」が、一番厄介かなと思います。
神さまの敵、サタン(悪魔)は、過去にわたしたちがやらかした罪を思い出させて、わたしたちを苦しめて、「神さまはわたしたちのどんな罪でもゆるしてくださる」という神さまの約束を忘れさせます。
サタンがわたしたちを誘惑するのは、わたしたちに悪い行為をさせること以上に、神さまとわたしたちの間の関係を破壊して、「神さまは、わたしたちのどんな罪でも赦してくださる」という約束を信じさせないようにする目的があります。
それが成功すれば、わたしたちは底なし沼にはまっていくように、どんどん罪を犯すようになります。
「自分の罪がゆるされない」となると、もうどうしようもありません。わたしたち人間は絶望して死んでいくだけです。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練 <誘惑> に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節)
< >は著者の注
この聖書の言葉の意味を自分なりに考えてみましたが、こういうふうに言えるのではないかなと思います。
「神さまは、どんな罪でも赦してくださるという約束を見失わせる誘惑に遭わせることはないし、もしそのような誘惑に遭ったとしても逃れることができるように助けてくださる」
自分の心が過去の罪によって責められて苦しい思いをするとき、どうか思い出してください。
「神さまは、どんな罪でも赦してくださる」という約束がある、ということを。
参考文献
- Arndt, W., Danker, F. W., Bauer, W., & Gingrich, F. W. (2000). A Greek-English lexicon of the New Testament and other early Christian literature (3rd ed., p. 793). Chicago: University of Chicago Press.