この記事は約2分で読むことができます。
マグナ・カルタの背景
マグナ・カルタ憲章は800年前、ラニーミードで調印されました。
これには行政と宗教の両方にとって、またイングランドと全世界にとって、重要な意味があります。
このマグナ・カルタが調印された背景には、イングランドの王とローマ教皇との間の緊張関係がありました。ロンドンとカンタベリーの司教を任命する権限を巡る問題があったのです。
時のイングランド王である、ジョン王は力の弱い王でしたが、対する当時のローマ教皇、イノセント3世は強大な権力を誇った教皇の一人でした。
そのために、最終的にこの戦いは教皇の勝利で幕を閉じます。王は男爵家の支持を得ることができなかったのです。王が彼らと争っていたからです。
とうとう、ジョン王は1213年にローマ教皇庁に降伏し、王冠を足元においてまで、服従の意をあらわすことになりました。
加えて、ジョン王は年間1000マルクの支払いも承諾しました。さらには後継者がその契約を破った場合には、王国内のすべての権威を明け渡すことに同意したのです。
イングランドは屈辱を味わいました。
男爵たちは、この王を見て愕然とし、行動を起こしました。彼らは決して教皇の奴隷になるつもりはありませんでした。
国家主権の問題と精神的利益が換金される問題が生じる可能性があり、この出来事がその問題に通じる一歩になることを、彼らは心から恐れました。
ローマ教皇が自分の望む人物を王座につかせ、国家の問題にも権力を及ぼすことを恐れていたのです。
これらが主な理由となって、1215年6月15日にマグナ・カルタ憲章が署名されました。
マグナ・カルタ憲章の影響
さて、この憲章の第1条にはこうあります。
イングランド教会は自由であり、その権利を完全に保持し、その自由を侵害してはならない。
この問題は以後150年にわたり、続いていくことになります。ローマに納める金銭は徐々に失効し、不定期になっていきました。
これが主な理由となって、ジョン・ウィクリフとローマとの間に不和が生じたのです。
またマグナ・カルタ憲章のもう一つの重要な側面は、それが制定された法の基礎であるということです。
つまり、王と立法者は彼ら自身が定めた法律に従うのです。また、被告人の権利が認められ、仲間の陪審員が審査に携わりました。
こうした数々の法律は、現代における法律と正義の基礎を形成しています。事実、マグナ・カルタ憲章の原則の多くは、アメリカにおける憲法と権利章典の基礎となりました。
実際、記念碑はABA(アメリカ法曹協会)が費用を負担したのです。
現在、マグナ・カルタ憲章の原本は4つ残っています。
1つはリンカーン城。もう1つはソールズベリーのセント・メアリー大聖堂に、残りの2つは大英図書館にあります。
マグナ・カルタ憲章の理念は、私たちが市民的自由を大切に守ることです。
市民的自由を擁護し、今ある時間を有効に用いて、それができる間に福音を広めていきたいと思います。