主がともにおられたのに
今日は、旧約聖書の創世記39章後半のヨセフ物語からです。
エジプト人の奴隷となっていたヨセフは、ご主人様の奥さんに誘惑され、無実なのにもかかわらず、牢獄へ入れられてしまいました。
さて、この創世記39章では「主が共におられた」という表現が最初と最後にしっかりと記されています。
ヨセフの人生は「主が共におられた」のにも関わらず、だまされて牢屋にいれられたのです。
普通であれば、憎しみで怒りを爆発させるところでしょう。
どうにかして復讐してやろう、用意周到に脱獄の計画を立てて、やられたら、やりかえす、仕返ししに行く、というような物語の展開になっていくのかもしれません。
しかし、ヨセフの場合はそうではありませんでした。
主がともにおられることを信じて
彼は自分にふりかかった最悪の状況に対して、「主がともにおられる」ことを信じました。
かならず何か別の良い道を備えてくださると信じて、自暴自棄にならずに、牢獄での厳しい生活を真摯に受け止めて生活していったのです。
すると、どうでしょうか、牢獄の監守長の目にとまり、獄中生活の責任をすべて任されることになったのです。
人生どん底の生活を味わっていたとしても「神さまが共におられる」のでした。
聖書の神さまは必ず良い方向にわたしたちを導いてくださいます。
しかし、神さまがいつも共におられるからといって問題がまったくなくなるわけではありません。
問題が解決していくのではなく、問題が自分の中で解消していくのです。問題の受け止めかたが変わり、自分自身が変わることができるということなのです。
さて、聖書全体を要約すると、そのテーマは「主が共におられる」となります。
旧約聖書の申命記31章6節には、次のようにあります。
「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」
あなたはどんなときも決して一人ではありません。
「主が共におられる」そのことを感じられる今日一日であることをお祈りします。