すべてを明け渡した人々
旧約聖書、創世記47章からヨセフ物語の続きのお話しです。
さて、エジプトの飢饉がさらに厳しくなり、人々は国で蓄えられている穀物を買うことによってなんとか生き延びていました。
しかし、食物を買うために支払った銀がすべてエジプト王の宮廷に治められました。まったくお金のなくなったエジプト人たちは、ヨセフのところに来て、なんとか、助けてくださいと申し出ました。
ヨセフは、そこで、彼らの家畜を買い取り、食料を与えました。
しかし、それでも、飢饉がまだまだ続き、こんどは、土地をエジプトのファラオ王は買い取り、食料を与えました。
その結果、エジプトのすべての民は、ファラオ王の奴隷となってしまいました。
エジプト人たちは、飢えて死んでしまうよりは、すべてを売り渡してでも、ファラオ王の奴隷となったとしても、生き延びることを選んだのです。
旧約聖書創世記47章25節のみ言葉です。
「彼は言った。『あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君のご好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。』」
ヨセフの機転
そして、ヨセフは、奴隷となったエジプトの農民に無償で種を与え、収穫の20%をファラオ王に納め、残りの80%は自分たちのために自由にすることが出来ることを約束しました。
古代エジプト社会において、奴隷であっても20%の税金を納めるだけでよかったということです。これは、決して厳しい条件ではないような気がします。
80%の収入を自由に享受できる社会は、現代社会の状況を考えて比べてみても、決して悪い政策ではないと思います。
当時のエジプトの農民のすべてが奴隷となりましたが、しかし、有能な総理大臣であったヨセフの政策によって、大飢饉の状況であっても、エジプトの人々はしっかりと生き延びることが出来たのです。
その大飢饉の状況下の税制改革によって、次第に人々の生活も豊かになり、国も豊かになっていったのではないでしょうか。
それは、やはりエジプトで若い頃から奴隷として働いた経験のあるヨセフならでは政策だったのではないでしょうか。
飢饉が過ぎた後に
さて、エジプトの大飢饉が過ぎ去り、ヨセフの父ヤコブは、エジプトでの晩年の生活は、美味しい食べ物が沢山あり、家畜たちも増えて、家族のあいだで、以前のような大きなトラブルを起こすことなく、平和に満たされて過ごすことが出来ていました。
しかし、ヤコブは、当時、最高の土地であったエジプトで、子供たちや子孫が末永く安住する地ではないということを忘れてはいませんでした。神さまが示して下さった約束の地に必ず、神さまが呼び戻す時が来れば、いつでも戻ることができるような気持ちでいました。
残念ながらヤコブはエジプトの地を離れることは出来ずに、エジプトで最後、死を迎えることになりました。
その時、父ヤコブはヨセフにこのように語ります
「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿(もも)の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」
父ヤコブは遺言として、ヨセフに死んだあと、エジプトの地で立派なお墓に埋葬し続けるのではなく、ユダヤ、イスラエルのカナンの土地にある先祖が眠っているお墓に葬ってほしいと強く願いました。
また、彼はその先祖代々のお墓で共に眠り続け、いつの日か共に蘇る、目覚めさせてもらえる日を強く待ち望んでいたのです。
死は眠り
旧約聖書のダニエル書12章2節、3節にはこのように書かれています。
12:02多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
12:03目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。
聖書が教える最後の死は永遠の眠りではなく、しばらくの眠りなのです。
必ずいつの日かよみがえり、救われた人、家族、友人たちと、そして神さまと永遠に過ごすことができる、という大いなる希望が書かれているのです。