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ウィクリフの影響
「火花が散れば火がつく」という歌がありますが、ヨーロッパの一角に落ちた火花は、またたく間に他の地域へと拡がっていきました。
ジョン・ウィクリフはイギリスだけでなく、ヨーロッパ各地、そして特にプラハとボヘミアに大きな影響を及ぼしたのです。
ジョン・フスの生まれは貧しく、生まれてすぐに父親を亡くしました。しかし、母親が教育熱心だったこともあり、彼は奨学生としてプラハ大学に入学することができました。
フスと共にプラハに着いた母親は、彼の人生に主の祝福があるようにと祈りました。その祈りは何度もかなえられたのです。フスはすぐに頭角を表し、学問にはげみ、清く正しい生活を送りました。学業を終えた彼は聖職者となり、そこでもすぐに才能を表しました。
やがて、彼は王室付きの聖職者に任命されます。わずか数年の間に、国の誇りと呼ばれるまでになり、彼の名前はヨーロッパ中に知れわたりました。その証拠に、彼を記念する像が、ここ旧市街広場に建てられました。
フスとジェローム
司祭となって数年後、フスはプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者に任命されました。この礼拝堂の創設者が重きを置いていたのは、民衆の言葉で聖書を説くことでした。当時、ほとんどの民衆は聖書を理解していなかったからです。
フス自身も、民衆の言葉で聖書を教えることが、極めて重要であると考えていました。この頃フスは、ジェロームと出会います。生涯彼の右腕となった人物です。
ジェロームはプラハの市民で、イギリスを旅行したときにジョン・ウィクリフの著書を持ち帰っていました。
当時のイギリス女王もジョン・ウィクリフによって改宗していました。ボヘミア王女でもあった彼女の影響により、ウィクリフの著作はボヘミア中で読まれるようになりました。フスもそれを読み、ウィクリフは誠実なキリスト教徒であり、その著作が真理であることを認めたのです。
フスの影響は拡がり続け、彼の故郷だけでなく、やがて隣国ドイツにまで及んでいったのです。プラハでのフスの働きの知らせはローマ教皇庁にも届き、ついに彼はローマ教皇の前に召喚されることになります。
命に関わる事態でした。
ボヘミアの王や王妃、貴族や政府は、地元ボヘミアでの裁判を要請しましたが、彼らの訴えは退けられました。
フスの裁判は、彼不在のまま進められ、ローマ教皇の勅令によって、プラハの街は封鎖されてしまったのです。
この出来事は市民の心に恐怖を植えつけました。教会での礼拝が禁止されただけでなく、バプテスマや葬儀、結婚式といった市民生活にとって重要な儀式までもが、禁止されてしまったのです。
民衆はローマの圧政下に置かれることになりました。フスは都市の混乱を避けるために、生まれ故郷の村に隠れ住みました。しかし、困難の中でもフスは周辺の農村にでかけ、熱心な人々に聖書を伝え続けたのです。
危険と混乱が収束すると、ようやくフスはプラハに戻ることができ、再びジェロームと働くことができるようになりました。
フスの時代、ヨーロッパには三人のローマ教皇が存在しており自分こそキリストの代理人だと主張しました。
教会におけるこのような権力の乱用に、大勢が非難の声を上げていました。フスもその中の一人でした。
時の皇帝ジギスムントは、この争いに決着をつけるために、ドイツのコンスタンツに公会議を招集しました。これは新たな異端に対処するためでもあり、ヤン・フスのような赦されざる異端者を処分するためでもありました。公会議に招集されたフスには、安全な航路の確保が皇帝から保証されました。
母の祈り
この物語で重要なのは、ヤン・フスのために母親が祈っていたことです。彼が大学へ向かう道中も祈り続けたのです。
もしあなたが今、子どものために祈っているなら、親のために祈っているなら、決してあきらめないでください。
ヤン・フスの母親の祈りは、彼女の想像をはるかに超えて、何倍にもなって答えられたのです。
あなたは子どもたちのために祈り、彼らは学校に行く途中かもしれません。あるいはあなたが愛する人のために祈るとき、祈りが答えられないなどと決して考えないでください。
主は私たちの祈りに必ず答えてくださるお方だからです。