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自然の中へ
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。…今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。新約聖書 マタイによる福音書 6章26,30節(新共同訳)
わたしたちは普段、機械製品だけでなく、人との交わりにおいても、さまざまな人工的な営みに囲まれています。
そのような生活の中で、ひと時、自然に目を向けるときに、いやされたとか、ゆっくり休めたとか、元気が出たというような肯定的でどこか人間本来のあり方を見出したような想いにさせられます。
そして、それらはすべて神が造られたことに思いを向ける時に、「空の鳥をよく見なさい」「野の花を注意して見なさい」とのイエスの言葉が思い起こされます。
特に、「よく見なさい」「注意して見なさい」とわざわざ言われるほど、わたしたちは自然界のものに注意を払っておらず、普段は何とも思っていないわたしたちの現実があります。
忙しさの中でも
元テレビ朝日アナウンサーの前田有紀さんは、アナウンサーとして働いていた頃、毎日の激務で疲れ果てて、自分の生活よりも仕事を優先する日々を送っていました。
そんなある日、仕事帰りに寄ったスーパーのレジ横に売っていた花がふと目に入り、一輪だけ買って飾ってみたら、部屋の雰囲気が一気に明るく、心地よい空間に変わるのを感じたそうです。
それ以降、花を飾るだけでなく、ベランダでグリーンを育て、花瓶を少しずつ買い集めるようになります。そして彼女はアナウンサーを辞め、今ではフラワーアーティストとして活躍中です。
わたしたちは、普段から自然のものや鳥や花には目もくれずに毎日を忙しく過ごしていますが、イエスが言うようにそういったものを「よく見なさい」「注意して見なさい」と、特に意識して見るように言われています。
それは、わたしたちが普段何とも思っていないような存在も、神は気にかけておられること、そして、神がそれらのものを造られ、この世界のすべてをお造りになったということを知るためです。
神に養われて
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。新約聖書 マタイによる福音書 6章25節(新共同訳)
「衣食住」と言われますが、わたしたちの生活に必要なものであり、わたしたちは衣食住を得て、それらを保つために、毎日あくせくしています。そのようなわたしたちに、神がどのようにわたしたちを養ってくださるか、空の鳥と野の花を通して教えておられます。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。…なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。新約聖書 マタイによる福音書 6章26,28―29節(新共同訳)
このようなイエスの教え方は、ラビ的教授法と呼ばれます。つまり、大と小を比較して、大に関して真理であるなら、小に関しても同じことが言える、というものです。
大切な命や体を与えてくださった神が、食べ物や着物といった、より小さなものを備えてくださらないはずがない。ここでは、大とは命であり、小とはその維持に必要なもののことです。
空の鳥は、種まき、刈り入れ、倉に貯蔵することなど一切しませんが、天の父はこれを養っておられます。だから、わたしたちを養ってくださらないはずがない。ここでは、大とはわたしたちの命であり、小とは空の鳥の命です。
神は小にも目を留めておられるのだから、大に目を留めてくださらないはずがない。野の花は、働きもせず、紡ぎもしないが、神がこれを美しく装ってくださる。その美しさは、ソロモンの栄華にも勝るものです。
移ろいやすい野の花さえも、このように大切にされているのだから、わたしたちが神の守りの外に置かれるはずはない。ここでは、小とは野の花であり、大とはわたしたちの命です。
だから、思い悩むこと自体が無駄なことである、というわけです。マタイによる福音書6章30節の終わりには、「信仰の薄い者たちよ」とあります。
神を信じていない、信じようとしない人なら思い悩むことがありますが、神を信じる者が思い悩むなら、それは神を信じていることになるのかと、イエスは厳しい言葉でわたしたちに問うています。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。新約聖書 マタイによる福音書 6章33節(新共同訳)
神との正しい関係を結ぶことを求めていきましょう。神がすべて必要なものを備えてくださるから、明日のための心配は無用なのです。
以上がこの聖書の箇所の大まかな流れですが、今回特に注目したいのは次の言葉です。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。新約聖書 マタイによる福音書 6章30節
空の鳥と野の花をよく見なさい、というイエスの言葉は有名ですが、この6章30節の言葉は見過ごされがちです。
野の草でさえも
イエスが大切なことを教えるために用いられたたとえは、空の鳥と野の花だけではなく、野の草もここで取り上げられています。
イエスは、空の鳥については「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」、野の花については「働きもせず、紡ぎもしない」というように、まるで何もしていない存在として表現しています。
このような表現から学べることは、神は造られたものの存在を喜ばれるのであって、何かができるから価値がある存在であるというわたしたちの考えとは違うということを示しています。何かができるから価値があるのではなく、神が造られたものはその存在そのものが尊いのだということを教えています。
とはいえ、野の草に関しては、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」と、少し恐ろしい表現なのが気になってしまいます。
野の草とは、なんと価値の無い存在なのかと思ってしまいますし、わたしたちは普段多くの草を「雑草」と呼んでいることからも、わたしたちの草に対する見方はそのようなものです。
イエスが過ごしておられたパレスチナ地方では、緑の草はわずか数週間見られるだけで、雨季が終わると間も無く枯れてしまうようです。それもあって聖書で草とは、人の命の儚さの象徴、無力で無常なものの比喩として用いられています。
日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。(新約聖書 ヤコブの手紙 1章11節)
肉なる者は皆、草に等しい。旧約聖書 イザヤ書 40章6節(新共同訳)
人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る新約聖書 ペトロの手紙一 1章24節(新共同訳)
イエスは、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」と人の人生の短さ、儚さを表現されたように、確かに今日はこのように元気に生きているかもしれませんが、誰一人明日を保証されていないという人生の現実をわたしたちに示しておられます。
しかし、ここで話が終わってしまったら、わたしたちは何と価値の無いものかという希望のない結論で終わってしまいます。イエスはなぜ、空の鳥や野の花だけで終わらずに、しかも、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる」という刺激的な言葉まで添えて、野の草にまで言及されたのでしょうか。
山上の説教の背景
今回の聖書の言葉を、イエスは「山上の説教」の中で語られました。「山上の説教」が語られた背景として、当時のユダヤ人たちの事情があったと思われます。
どんな事情かというと、まず、ユダヤの国がローマに支配されていたので、ユダヤ人は救い主メシアがローマを倒して、今の苦しい生活から救ってくれると考えていたこと。また特にファリサイ派の人たちによって、律法の行いによって救われるということが教えられていました。
そのようなメッセージによって、人の自尊心は大いに傷つけられ、本当に人を救うどころか、人の欠点を指摘するだけで、もっと頑張らなければあなたの価値はないというメッセージを発信していたのです。
ここ最近、問題になっているカルト宗教が発信しているメッセージも、これと同じです。国の内外から自分たちのアイデンティティ、自尊心を傷つけられたユダヤ人たちは、預言されていた救い主メシアに期待をかけていました。
しかし、救い主メシアであるイエスは、そのようなユダヤ人たちの期待とは裏腹に、彼らが気づいていない彼らの本当の必要に触れられました。「山上の説教」で開口一番、本当に幸いな人とはどのような人かを語りました。自分の価値を見失い、本当の意味で自分の価値を見出していきたい人、すなわち神を心から求めている人が幸いなのだと語りました。
そしてイエスは、神が鳥や花にまで目を留めておられることを通して、あなたたちは空の鳥や野の花以上に価値のあるものだと語られました。
しかし、これはわたしの想像ですが、「空の鳥と野の花を通して自分が価値あるものだと言われてもねぇ」、というようなひねくれ屋がいたかもしれません。なにせ、ユダヤ人たちは国の内外から自尊心を傷つけられていたので、中には、空の鳥や野の花にまでジェラシーを感じていた人もいたのではないかと思います。
「鳥は自由に空を飛べるし、花は美しく飾ってもらっているからいいよなぁ」、と。
考えすぎかもしれませんが、自尊心が相当傷つけられた人は、そう考えないこともないのではないでしょうか。
そういう人たちに向けて、イエスはさらにもうひとつたとえを示されたのではないか。それが、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」です。草にはたくさんの種類がありますし、食べられるものもあるので、草に興味のある人や研究者などには大事な存在ですが、わたしたちの多くは草に興味を示すどころか邪魔者扱いしています。
パレスチナ地方では緑の草はわずか数週間見られるだけで、雨季が終わると間も無く枯れてしまいます。これが聖書では、人間の命の儚さを示しています。しかしイエスは、価値を見出すことが難しい野の草をも神がどのように見ておられるかというところまで示されました。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。新約聖書 マタイによる福音書 6章30節(新共同訳)
人生は短く儚い、または普段から邪魔者扱いされて人生に価値を見出すことが難しい人たちへ。
短く儚い、邪魔者扱いされている野の草でさえ、神は多くの種類を創造し、それらに一つひとつに名前を付けて、特徴を持たせてこの地球に存在させている。その命は短くても、神は一切手抜きをなさらない。人の間では邪魔者扱いされている存在であっても、神はきちんと装いを与えている。だったら、あなたたち人間は神のかたちに似せて造られたのだから、なおさらのことではないか。
そして最後には、「信仰の薄い者たちよ」と、少々厳しめの言葉が続きます。
「ここまで言っても信じられないとは何とまぁ」、というような神のため息が聞こえてきそうです。神が世界のすべてとわたしたちの命を造られたという信仰に立って生きるなら、人間は神のかたちに似せて造られたことが素晴らしいというのはもちろん、空の鳥や野の花だけでなく、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」、神が目に留めて世話をしておられることを通して、ますます人間というものは価値のある存在なのだということを知るのです。
だから、思い悩むなんて必要ない。「神を信じ、神とのつながりを求めて今日一日を精一杯生きていきなさい」というわたしたちの存在の根本的で必要なメッセージを受け取ってください。