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宗教と政治の問題
宗教と政治の問題が大きくとりあげられています。社会的な基準からみて許容範囲を超えているとみさされた宗教はカルトと呼ばれています。
一つの問題は社会の側がカルトを見抜く目をもっていないことです。はっきり言えば、宗教の問題が真剣に考えられないところには、真空地帯が生じます。そして、カルト的な宗教が容易に入ってきてしまいます。
これは在来の宗教の責任でもあるのです。社会に生じている真空をきちんと在来の宗教がうめることができなかったということです。その責任は重いのです。
宗教に頼らない生き方
カルト宗教から救出されて牧師になった人がカルト問題について、トラクトを出しています。タイトルが「宗教に頼らない生き方」です。牧師が宗教に頼らない生き方などというのは自己否定だと思われる方もいるでしょう。
しかし、彼は正しいのです。普通の人が宗教という言葉を聞いてイメージするものは宗教の本質ではありません。良い行いをすること、献金をすること、これらは意味のあることですが、宗教の本質ではないのです。
しかし、そこが履き違えられてしまいます。
真の宗教は人間を超えたものとの人格的な出会いだと思います。それが組織への忠誠や、指導者への忠誠にすりかえられてしまうと悲劇が生じます。
そして、その宗教から引き離せば、それで救出したということにはならないのです。
実際、一度信じたものが間違っていたという人は本当に苦しみます。もともと、一般社会やそこでの一般的な生き方において意味を見出せずに苦しんでいた人が、その真空を満たそうとしてカルト宗教にはまったのです。
カルト宗教から脱出しても、またもとの真空にもどり意味の不在に苦しむのは当然です。なかには間違っていてもいいのだといって、その真空から逃れるために、せっかく脱出したカルトに戻ってしまう人すらいます。
重要なのは本物に出会うことです。本物とであえば、もはや偽物に迷うことはなくなります。
ペトロはイエスに対し「あなたこそ生ける神の子キリストです」と表明しました。本物に出会ってないと言えない言葉です。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。マタイによる福音書16:15ー16節(口語訳)