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懐かしさの中の寂しさ
ふと、懐かしさがこみ上げてくることはありませんか。少し肌寒く感じ始めた秋初め、僕はよくあります。
人それぞれ、懐かしい思い出はきっとあるでしょう。その一つ一つは写真になっているかもしれませんね。
思い出話に花を咲かせると、写真を見返したくなるものですが、僕自身はあまり写真を持たないタイプなんです。というのも、写真を見ると切なくなってたまらなくなるから。
写真によって思い出された鮮明な記憶には懐かしさと寂しさが同居しています。もう会えない人たちがそこにいるのを目にします。別れというのは、僕たちにとって失望です。その際たるものが「死」でしょう。

アメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリンはこう言いました。
税金と死以外に確かなものはない
ベンジャミン・フランクリン
これは皮肉でもありますが、真理をついているのかもしれません。あらゆる人が直面しなければならないのが、「死」という現実です。
子どもの頃、この「死」ということについて考えてみたことがありました。意識がなくなり、感情がなくなり、意思がなくなり、ただ真っ暗な世界。それだけが広がっているだけのように感じます。
世界は今、ますます真っ暗になり、不確かさで覆われているようです。
その世界の中を必死に漕いで行った先にあるのが、「死」です。最後のゴールも、真っ暗な世界だとしたらどこに希望があるのでしょう。
暗闇の中の希望
聖書は死んだ人を「眠っている人たち」といい、「死」を深い眠りについたように無意識だと言っています。なるほど、僕が子どもの頃に持っていたイメージは大きく間違っていたわけではなさそうです。
では聖書のゴールも、真っ暗な世界なのでしょうか。
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが望みのない他の人たちのように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。……すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下ってこられます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主と共にいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。
イエスさまがもう一度おいでになる時、再臨の時に死んだ人たちも復活するのです。不確かさが満ちていく世界で、税金と死以外にも確かなものがありました。それが復活という希望です。
感染症のパンデミック、地震や山火事、イナゴによる飢饉や経済恐慌、世界を不確かなものへと変えていくさまざまなものが僕たちの周りには取り巻いています。
しかし、これらのひとつひとつは確かな希望への一歩一歩でもあるのです。
イエスさまはご自分が地球に来られるその再臨の日の前兆として、これらのことが起こると預言されました。
戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。……民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるし が現れます。……人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。……そのとき、人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
これが聖書の希望です。
なんと言ってイエスさまが来られるのかはわかりませんが、もしかしたら、「もう十分だ」と言われるのかもしれません。もう死は十分、もう悲しみも、叫びも、苦しみも、痛みも十分だ。
ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロの手紙二 3章9節(新共同訳)
その再臨の日を待ち望んでいるのはイエスさまも同じです。イエスさまはあなたを待っているのです。