あらゆる祝福の源である神をたたえよ!【健康と癒し】#1

この記事は約11分で読むことができます。

目次

今回の記事のテーマ

ハッブル望遠鏡が宇宙をより遠くまで探査するにつれて、創造の神秘もさらに深まってきています。もしそのような無限が人間の有限な頭脳に理解できないものであるのなら、宇宙の創造者はそれよりもはるかに無限の存在、そして──必然的に──御自分の被造物よりもはるかに複雑な存在でなければなりません。もし人間が宇宙そのものを理解できないとすれば、どのようにしてそれを創造された方を完全に理解できるというのでしょうか。

ナアマ人ツォファルはヨブに尋ねます。「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか」(ヨブ11:7)。

もちろん、ヨブにはできません。それでもまだ十分でないかのように、宇宙を創造されたこの神はイエスにおいて私たちの人性ばかりでなく、私たちの罪をも負われたのでした。宇宙を創造された神が、私たちに永遠の命を与えるために、自ら私たちの罪に対する刑罰をお受けになりました。

このような真理を前にして、私たちはこの神を愛し、心からの賛美と礼拝をささげないでおられましょうか。

私たちの愛の神

神は私たち人間を、自由意志、つまり神に従うことも背くこともできる能力をった者として創造されました。同時に、人間が自分に与えられた自由意志を用いて誤った選択をした場合に対処するための道をも備えられました。この備えが、いわゆる「福音」、すなわちイエスが私たちを創造時に与えられていた永遠の命に回復するために成し遂げてくださったことについての幸いな知らせです。

問1
テモテII の1:9 を読んでください。神が世の始まる前から救いの計画を用意しておられたというこの思想について瞑想してください。神が私たちの存在する前から救いの計画を用意しておられたことは、私たちのための神の無条件の愛についてどんなことを教えていますか。この聖句は恵みの意味を理解する上でどんな助けになりますか。

神の大いなる愛と恵みは私たちの存在する以前から働いていました。ある意味で、福音は私たちの魂のための担保でした。神はどのような結果になるかを知っておられたので、愛と知恵をもって、危機に対処するための救いの計画を準備しておられました。当然ながら、この計画の中心に、私たちのためのイエスの犠牲の死がありました。私たちが堕落した状態から贖われる唯一の方法は、神御自身が人性をもって私たちの罪に対する刑罰を受けられた十字架でした。ほかのいかなる方法も十分ではなかったでしょうし、十分ではあり得ませんでした。その代価がどれほど法外なものであっても、イエスは私たちのために喜んでそれを支払われるのでした。

問2
このような愛を前にして、私たちはどのように応答すべきですか。エフェ4:32、5:2、フィリ2:5 〜8、コロ3:13 を読んでください。これらの聖句には、何と教えられていますか。

恵みの神

問3
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェ2:8、9)。この聖句をあなた自身の言葉で要約してください。救いが行いではなく、信仰によらねばならないのはなぜですか。行いが私たちを救うことができないのはなぜですか。ガラ3:21 参照

ある癲癇(てんかん)の少年が発作を起こして、ニューヨーク市の地下鉄の線路に落下しました。列車が駅に入ってきていました。そのとき、ひとりの見知らぬ青年がためらうことなく飛び降り、もだえ苦しむ少年の上に覆いかぶさりました。彼は少年を押さえたまま、列車が急ブレーキをかけながら頭上を通過するのを待ちました。「助かった!」と彼は叫びました。危険を顧みない青年の自己犠牲の行為がなかったなら、少年は間違いなく死んでいたことでしょう。この出来事は、恵み、功績によらない恩恵、イエスが私たちのために成し遂げてくださった御業を効果的に例示しています。少年がどれほどその青年に感謝したか想像してみてください。とするなら、私たちのためになされたイエスの御業のゆえに、私たちはどれほどイエスに感謝すべきでしょうか。

重要な問題は、私たちがこの感謝の気持ちを生活の中にどのように現しているか、ということです。イエスに対する感謝の気持ちについて、あるいはイエスの御業のゆえに神を愛することについて語ることも大切です。しかし、私たちにとっての真の問題、私たちの信仰を試す真のテストは私たちの行いです。それは、救いを得るための行いではなく(そのようなことはできない)、私たちがイエスにおいて与えられ、約束されている祝福に対する感謝と賛美の心から出る行いです。

ところが、キリストの御業に心から感謝することは必ずしも容易ではありません。ある青年のクラスで、ひとりの若者が手を上げて、こう言いました。

「ぼくは死なねばならないようなことは何もしていません」しかし、実際には、私たちはみな死に値する存在なのです。あるいは、次のように言ってもよいでしょう。私たちは生きるに値するようなことを何かしたでしょうか。私たちは永遠の命を受けるに値するようなことを何かしたでしょうか。神がこれほどまでして私たちを救おうとされるのは、私たちに何か価値があるからでしょうか。

愛の関係

問4
すべての掟の中で最も重要なのはどれか、との質問にイエスは答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」(マタ22:37、38)。私たちはイエスのこの命令をどのように実行したらよいですか。

これらの言葉の持つ深い意味について考えてください。イエスによれば、すべての掟の中で最も重要なのは、安息日を守ることでもなければ、殺すな、盗むな、姦淫するなといった禁止事項の一つでもありませんでした。反対に、最も重要な掟は私たちの心の中、魂の中にあるものと関連していました。それは、どれほど重要であろうとも、私たちの外面的な行為ではなく、心の中にあるものを扱っていました。

もし最も重要な掟が私たちの神に対する愛を扱うとすれば、すべての掟の基礎は関係を扱うと言えます。結局のところ、もし関係でないとすれば、愛とは何でしょうか──私たちはこの関係の中で、ほかのだれよりも、何ものよりも神を愛するのです。

問5
神に対する愛がすべての関係の中で最も重要なのはなぜですか。それがすべてのものの土台となるのはなぜですか。もし私たちが神以上にほかの何かを愛するなら、どんな霊的危険が生じますか。

事実、神は初めから、人間が神との特別な関係を楽しむように意図されました。神の目的は人間を地上のほかの被造物よりも高い次元の経験に入らせることにありました。この真理は創世記1:26 に反映されています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」。神にかたどって造られた被造物はほかにはありませんでした。人間に与えられたのと同じ責任を与えられた被造物はほかにはありませんでした。この意味で、人間は単なる高度に発達した猿とは異なります。人間と地上のほかの被造物との間には、大きな質的隔たりがあります。人間は特殊な存在であって、その特殊性の一部が神との愛の関係に啓示されています。これは動物や植物が経験することのできないものです。

主を賛美する

問6
「神にあって喜んでいなさい。キリストは光であって、キリストのうちに闇は全くない。光をながめなさい。神を賛美することを習慣としなさい。ほかの人々を幸福にしなさい。これがあなたのなすべき第一の務めである。それによって品性の最良の特徴が強められる。魂の窓を天に向かって広く開き、キリストの義の光を取り入れなさい。朝に、昼に、夕に、あなたの心は天の光のまばゆい輝きによって満たされる」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1904 年4 月7 日、英文)。どうしたらこれらの言葉をあなたの生活において実践することができますか。

私たちクリスチャンにとって、神を賛美する理由はたくさんあります。どのような悩みや恐れ、苦しみ、喪失、失望の中にあろうとも、私たちには神に感謝することがたくさんあります。たとえ今、どのような状況の中にあろうとも、私たちにはイエスにある永遠の命という希望と約束があります。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙21:4)。このことだけでも、私たちにとっては十分に賛美する理由になります。

問7
今どのような問題に直面していようとも、あなたには神を賛美すべきどんな理由がありますか。それらを列挙すると同時に、神に感謝すべき理由を書いてください。

心から神を賛美するためには、主の慈愛を個人的に体験している必要があります。神が実在されること、また神が私たちを個人的に愛してくださることを知っている必要があります。主の導きに心を開いているすべての人に、主はそのようにしてくださいます。神の憐れみと愛を知るのを妨げているのは私たちのかたくなな心と肉の性質です。ひとたびこの憐れみと愛を知るなら、主を賛美しないではいられなくなります。

「なすべき礼拝」

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)。

ここまで、神が愛と恵みの神であって、私たちと特別な関係に入ることを望んでおられることを学びました。この関係は地上のほかの被造物には与えられていないものです。この関係の中心にあるのが十字架と救いの計画です。というのは、私たちが神を愛する理由の中で、十字架は最たるものだからです。

問8
次の聖句は神の愛の本質をどのように表現していますか。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Iヨハ4:10)。

人がだれかを愛するとき、賛美と感謝の言葉が自然に出てくるものです。私たちクリスチャンが主に心をささげるとき、聖霊の賜物を受けます。聖霊はクリスチャンを深い感謝の念で満たしてくださいます。このような感謝の念から、神に対する賛美と崇敬で満ちた心が生まれます。

しかし、多くの人が忘れている重要なことがあります。神に対する賛美には、全人格が含まれるということです。つまり、私たちは霊的、感情的、精神的な次元だけでなく、身体的な次元からも神を賛美するということです。それは健康的な習慣を生活の中に実践することであって、頭脳を明晰(めいせき)にし、全体にバランスを与えます。

科学者は、習慣的な行為が頭脳に素晴らしい物理的変化をもたらすことを発見しています。たとえば、麻薬は頭脳を侵食し、常習化させる作用を持ちます。血管の老化も同じように脳の機能を傷つけます。アルツハイマーのような病気は脳細胞が破壊されることによって起こります。はっきりしていることは、明晰な精神的、感情的、霊的関係が私たちの肉体の状態に依存しているということです。たまにしか食事の中に取り入れられない食物や飲み物は目立った影響を及ぼしません。しかし、そうすることが習慣となるとき、問題が生じます。私たちは全生命を生きた供え物として献げることによって、私たちの全存在をもって神を賛美するのです。

今回の記事のメッセージ

「青春の美と活気に満ちていたダビデは、地の高貴な人たちと同じ高い地位に着く準備をしていた。彼の才能は、神からの尊い賜物として、与え主であられる神の栄光を賛美するために用いられた。彼の熟考と瞑想の機会は、彼の知恵と敬神の念をいよいよ豊かにし、彼を神と人から愛される者にした。彼は、創造主の完全さを瞑想することによって、神のことをはっきりと理解することができたのである。不明瞭な問題は明らかにされ、困難なことは平易にされ、混乱の中に調和が見いだされていき、新しい光が与えられるたびに、彼は歓喜の声をあげ、神と贖い主の栄光に対して美しい献身の歌をうたった。彼を感動させた愛、彼を悩ませた悲哀、彼の得た勝利などは、みな、彼の活発な心の主題であった。そして、彼が自分の生涯のすべての摂理の中に、神の愛をながめたとき、彼の心は熱烈な賛美の感謝に脈打ち、彼の口からはさらに美しい旋律が流れ、たて琴は歓喜にあふれてかきならされた。こうして、羊飼いの少年は、力から力へ、知識から知識へと進んでいった。それは、神の霊が彼と共におられたからである」(『希望への光』334 ページ、『人類のあけぼの』下巻314、315 ページ)。

*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次