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今回の記事のテーマ
ジャッキーとキャロル(仮名)は、年齢が2つ違う姉妹で、どちらも愛情豊かな家庭で育ちました。青年期に達するまで、ジャッキーは勉強に専念しました。彼女は良い成績を収め、高校を卒業すると、ビジネスを勉強するために大学に入りました。彼女は現在、30 歳代半ばで、ある投資会社の責任ある地位にあり、結婚していて、自分の家で幸せに暮らしています。一方のキャロルは遊ぶこと、楽しむことを選びました。高校を中退してから、タバコ、酒、麻薬に手を出しました。彼女は現在、未婚の母で、生活保護を受け、麻薬依存症から立ち直るための訓練を受けています。姉の成功をうらやむと同時に、少しばかり誇りに思っています。
どちらにも、同じ機会、チャンス、選択肢が与えられていました。ジャッキーは一方を選び、キャロルは他方を選びました。二人は今、それぞれの選択の結果を味わっています。

私たちはみな何らかの選択をし、それぞれの選択の結果のもとで生きなければなりません。したがって、私たちにとっての重要な問題は、これらの選択がどのようなものであり、どうしたら正しい選択をすることができるか、ということです。今週は、選択の力についてもう少し詳しく学びます。
自由の実体
人々はよく「自由」について語ります。特に政治運動は、何らかの意味で、「自由」について高らかに語ります。アメリカ合衆国のある州は、「自由に生きよ、さもなければ死を」をモットーにしています。
実際には、自由は非常に難しいテーマです。それは、置かれた状況によって、人それぞれにさまざまに解釈されます。人が自由について語るとき、その意味を正確に把握することは必ずしも容易ではありません。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。それは、神が人間を創造されたとき、人間を道徳的な存在者として創造されたということです。そして、人間が真に道徳的な存在であるためには、彼は道徳的な自由を持っていなければなりませんでした。言い換えるなら、彼は、もし望むなら、誤った選択をする能力を持っていなければなりませんでした。もしそのような選択肢を与えられていなければ、彼は真に自由ではあり得ませんでした。
問1
創世記2:16、17 を読んでください。アダムに対する神の言葉の中にアダムの道徳的自由がどのように啓示されていますか。
創世記3:1 〜6 の中に、アダムとエバに与えられた道徳的自由を読み取るこができます。もし彼らに選択の能力が与えられていなかったなら、神は彼らにその木から取って食べるなと警告されるでしょうか。ここに、完全な環境のもとで道徳的自由を与えられた完全な存在者の姿があります。人間存在の出発点において、私たちの自由の実体が明らかにされています。
問2
創世記3:1 〜6 を読んでください。アダムとエバはどんな場面で自由意志を行使していますか。どうしたら、彼らはそれぞれの場面において、もっと賢明な選択をすることができましたか。私たちはこれらの聖句から自分自身の選択に関して何を学ぶことができますか。
人間の道徳的自由は神の目に非常に重要なものでした。人間がこの自由を乱用したために、神がどのような代償を払われたかに注目してください。この賜物がきわめて神聖で、根本的なものであったために、神はそれを人間から取り上げないで、つまり人間がこの賜物を誤用したという理由で、人間を滅びるままに放置しないで、十字架におつきになったのです。
結果──罪責と恐れ
問3
創世記3:7 〜13 を読み、以下の質問に答えてください。
1. アダムとエバが経験したことをひと言で表現するとどうなりますか。私たちも今日、どのようなときに同じ経験をすることがありますか。
2. ほかに、彼らはそれまで知らなかったどんな感情を経験しましたか。私たちもどのようなときに同じ経験をすること がありますか
1970 年代初め、米国でウォーターゲート事件が新聞によって明るみになると、ホワイトハウスは工作のもみ消しを計りました。リチャード・ニクソン大統領が辞任に追い込まれたのは、彼が民主党本部への侵入を許したからでもなければ、侵入計画に加担したからでもありませんでした。彼が有罪となったのは、ほかの者たちの行為を隠蔽(いんぺい)しようとしたからでした。
ある意味で、この聖句には、隠蔽工作によって、自分たちの行為を神から隠し、責任を他人に転嫁しようとするアダムとエバの姿が見られます。
もちろん、主を知る人なら、何かを主から隠すことなどできないことを知っています。私たちの髪の毛さえ数えられているとすれば(マタ10:30)、自分の行為に関して神をだますことなどできません。しかし、自分自身ならだますことができます。責任を他人に転嫁することも容易です。もし上司があんなことをしなければ、自分もしなかったのに。もし夫(妻)があんなことをしなければ、自分もしなかったのに。もし神が祈りに答えて誘惑を取り去ってくださっていたなら、自分は過ちを犯さなかったのに。……
私たちはときどき、内面に働きかける強力な誘惑に直面することがあります。堕落した性質を持って生まれているので、状況はいっそう不利です。それゆえ、誘惑や試練に遭うと、簡単に負けてしまいます。罪とその結果は言うに及ばず、責任を受け入れることを拒むことによって、事態はさらに悪化します。結局のところ、自分の責任を認めない限り、罪に打ち勝つことはできません。
選択──善と悪
アダムとエバの堕落後、私たちの性質が大きく変わったとはいえ、人間にはなお選択の能力、自由意志が与えられています。この自由意志を用いて何をするかは、全く私たちにゆだねられています。私たちは神を信じ、神に従うこともできますし、自分自身の罪深い道を歩むこともできます。
問4
ヘブライ11:8 〜10 を読んでください。アブラハムと彼の選択について何と書かれていますか。彼の選択から何を学ぶことができますか。
問5
同時に、アブラハムはどんな誤った選択をしていますか。これらの選択はどんな結果をもたらしましたか。創16 章、21:9 〜14 参照
「当時、一夫多妻は広く行われていたので罪だとは思われなくなっていた。しかしそれが、神の律法に違反することはまちがいなく、家族関係の神聖さと平和にとって致命的であった。アブラハムとハガルとの結婚は、彼ら自身の家庭だけにとどまらず、将来の世代にまでも悪い結果をもたらした」(『希望への光』71 ページ、『人類のあけぼの』上巻150 ページ)。
ダニエル書1:8 〜16 を読んでください。「ダニエルは……決心し」という言葉は、彼の選択が意識的で、堅固なものであったことを暗示します。この慎重で、分別ある決心はダニエルの全生涯に影響を与え、主の特別な祝福と関心を導き出しました。彼は祈りの時を通して日ごとに、主に対する献身を再確認しました。
問6
正しい選択をしなければならないと考えることと、心からの確信をもって正しい選択をすることとは全く別の問題です。つねに正しい選択ができるように心を訓練するためにはどうしたらよいでしょうか。詩編119:11、フィリ4:8、コロ3:2
私たちは、どのような代償を払っても、神の御心を求める「決心」をし、正しいことを選ぶ「決心」をしなければなりません。忘れてはならないことは、たとえ私たちが罪を犯し、誤った選択をしても、神は私たちをお見捨てにならないということです。危険なのは、むしろ、私たちが過度に罪悪感を抱き、絶望するあまり、あきらめてしまうことです。その場合には、十字架のもとにひざまずいて、イエスの赦しを求めるしかありません。

選択と次の世代
問7
申命記30:10 〜19 を読んでください。主はここで御自分の民に何を教えようとしておられますか。また、イスラエルの選択が子孫の人生に影響を与えるという思想をどのように理解しますか。私たちの選択はどのようにして子供たちに影響を及ぼしますか。
人生の選択は自分自身だけでなく、しばしば自分の子供にも影響を及ぼします。この影響は思っているよりもはるかに大きなものであって、特に子供に対してはそうです。一例として、飲酒の影響をあげることができます。1 日コップ1 杯の酒がもたらすとされる「効能」について、華々しい宣伝がなされています。酒造会社に利益をもたらすこのような宣伝は多くの人を欺いています。しかし、このような[効能に関する]研究は欠陥だらけで、詳しく調べてみると、そのような大げさな効果がないことに、ほとんどの人が気づいていません。
アルコールは、いつでもそうであったように、人類の大きな災いであることに変わりありません。アルコールの害について警告が与えられているのに、警戒を怠ることは愚かなことです。
アルコールを初めて口にする人の約7 パーセントが、アルコール中毒者か、問題のある飲酒者になることが知られています。自宅の片隅に少量の酒を置いておくくらいなら、私たち自身に影響を及ぼすことはあまりないかもしれません。それによって深刻な害を受けることはないかもしれません。しかし、子供たちにとってはどうでしょうか。それは模範となるでしょうか。もしあなたが酒を飲むのであれば、子供たちもたぶん飲むようになるでしょう。子供たちの生命を奪うようなことをしてもよいものでしょうか。アルコールのある家庭で育った子供はそうでない家庭で育った子どもよりもアルコールで問題を起こす危険がずっと高いことがわかっています。このことだけを見ても、私たちの与える模範については十分に注意しなければならないことがわかります。
もう一度、申命記30:10 〜19 を読んでください。あなたの選択はあなた自身だけでなく、あなたの子供にも影響を及ぼします。たとえ子供がいなくても、あなた自身に多くの害を及ぼすことになるような選択をする必要があるのでしょうか。これらの健康の原則は、神が私たちの幸福のために与えてくださったものです。あなたは御言葉通りに神に信頼するだけの信仰をお持ちですか。
選択と機会
「『シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と』」。いと高き神御自身がこれを固く定められる。主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と」(詩編87:5、6)。
すべての人が選択の能力を与えられていますが、すべての人が同様の機会を与えられているわけではありません。これらの選択の中には、将来の可能性と機会を限定してしまうものもあります。一部の人は選択することなく不利な状況に立たされています。麻薬常習者の家庭、家庭内暴力のある家庭、極度の貧困の中にある家庭などのように、人生を暗くするような不利な条件のもとに生まれた子供たちのことを考えてみてください。暴力的な堕落と絶望がもたらす惨状について考えてください。私たちはみな、程度の差こそあれ、自分の選択とは無関係の状況の中に置かれています。
問8
詩編87:5、6 を読んでください。これらの聖句は自分の選択とは無関係の状況についてどんなことを教えていますか。それらはマタイ7:1、2 の意味を理解する上でどんな助けになりますか。
神は、私たちの多くが自分自身の選択とは無関係に厳しい状況に置かれていることを知っておられます。神だけが私たちの背景を完全に知っておられます。私たちの周囲には、家族を捨てた親、不倫を犯した配偶者、信頼していた人を裏切った友の選択のように、他人の選択の結果に苦しんでいる人が少なからずいます。このような例は数えればきりがありません。
しかし、幸いなことに、私たちはあらゆる選択の中で最も重要な選択をすることができます。私たちはイエスに従うことを選ぶことができます。イエスを個人的な救い主として選び、罪深い生き方を悔い改め、バプテスマを受けるとき、私たちは聖霊の賜物を受けます。この賜物を通して、神は私たちの心の中に入り、影響を与え、私たちの行動を導き、実を結ぶように助けてくださいます。私たちはまことのぶどうの木の枝になります。
ガラテヤ5:22、23 によれば、霊の結ぶ実は一つずつではなく、房になって与えられます。それは、聖霊が私たちの選択に従って私たちの意志を支配される結果です。言い換えるなら、私たちは、私たちの内に働かれる神の力を通して、自分自身の選択とは無関係に負わせられた否定的な結果を──私たちの選択によって──主によって無効にしていただくことができます。
今回の記事のメッセージ
「すべての人は天国を勝ち取ることができ、地獄を避けることができます。試みられ、誘惑を受けている人々を助けるために、天使の軍勢が待機しています。無限の神の子イエスは、私たちのために試練に耐えてくださいました。カルバリーの十字架は、すべての人の前に鮮やかに立っています。すべての人の立場が審理され、彼ら[滅びる者たち]が神に対する侮りと不従順による冒瀆のゆえに刑罰を受けるとき、だれひとり言い訳をすることはできませんし、だれひとり[自分の意思に反して]滅ぼされることになる人もいないのです。自分の王としてキリストを選ぶかサタンを選ぶかは、各自の選択によったのです」(『セレクテッド・メッセージ1』120、121 ページ、一部改訳)。
「神は人々が不信を捨てるように強制されない。彼らの前には光と闇、真理と誤謬(ごびゅう)がある。どちらを受け入れるかを決定するのは彼ら自身である。人間の心には善と悪とを区別する能力がさずけられている。神は、人々が衝動的に決定しないで、聖句と聖句をくらべ、重要な証拠によって決定するように計画しておられる」(『希望への光』910 ページ、『各時代の希望』中巻243 ページ)。
*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。