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今回の記事のテーマ
ロジャー・バニスターが最終的に1 マイル(約1.6 キロ)を4 分以内で走った裏には、多大な努力と準備がありました。その絶えざる訓練と練習の中に、とりわけ厳しい山登りが含まれていました。この賞は若きアスリート、バニスターにとって大きな意味を持っていました。1954 年5 月6 日も、ロジャー・バニスターはいつものように感情的、霊的、知的、肉体的な準備をしていました。しかし、彼は前日の朝、磨いた床で転び、その日は足を引きずって歩いていたのです! それにもかかわらず、翌日に始まったレースに出場したバニスターは1 マイルを3 分59 秒4 で走り切ったのでした。彼は1 マイルを4 分以内で走った最初の人となりました。
使徒パウロは運動競技からの比喩を用いて、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12:1)と私たちを励ましています。しかし、パウロの語っている競走はバニスターが勝ち取った競走よりもはるかに重要なものです。この競走は私たちに最高の霊的・肉体的健康を要求します。この健康は運動によってもたらされます。これが今週のテーマです。
霊的競技者
問1
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(II テモ4:7)。信仰による救いについての偉大な教師パウロは、ここで何について語ろうとしていますか。
幾世紀にもわたって、人々は運動競技に熱狂し、多くの人が競技者の偉業に驚嘆してきました。これらの選手たちが自分の肉体をもって成し遂げた功績をうらやましく思わない人はいません。しかし、彼らの生まれつきの能力がどうであれ、大部分の選手は厳しい努力によってそれを成し遂げたのです。
ある人が優勝経験のある長距離選手に向かって、自分も偉大なランナーになることができるかどうか尋ねたことがあります。「もちろんです」と、その選手は答えました。「それには、1 週間に6 日、15 マイル[24 キロ]走り、7 日目に25マイル[40 キロ]走る必要があります。それを1 年間続けてみなさい。そうすれば、十分に成功するチャンスがありますよ」
問2
聖書はあちこちで、信仰生活を運動競技にたとえています。次の聖句を読んでください(Iコリ9:24 〜27、フィリ3:12 〜14、II テモ2:3 〜5)。それらはどんなことを強調していますか。これらの聖句の意味をあなた自身の体験に照らして考えてください。
私たちは顔の表情を見て、ジョガーやサイクリスト、ランナーが競技をどのように楽しんでいるか判断しがちです。競技が拷問に見えるときさえあります。しかし、運動を続けることには多くの恩恵があります。これについては、あとで考えます。これらの恩恵は練習を行うために必要な固い意思と鍛練によってもたらされます。守るべき規則があります。規則的に練習しなければなりません。目標と、時には報賞がなければなりません。
これらの原則は霊的、肉体的健康にも当てはまります。霊的に健康であるためには、イエスに心を向ける必要があります。御言葉を読み、祈り、瞑想する必要があります。さまざまなことが私たちの関心をそらせます。これには、たとえば仕事や勉強、あるいは教会活動といった、よいことや高尚なことも含まれるかもしれません。しかし、もし力強くゴールインしようと思うなら、私たちが恵みに成長し、自分の目標達成を優先するのを妨げる活動や誘惑を断つ必要があります。
信仰の筋肉が衰えるとき
問3
エフェソ2:8 とヘブライ11:6 を読んでください。これらの聖句はどんな関係にありますか。私たちはどうしたら賜物として与えられている信仰を保持し、造り上げることができますか。
骨折や捻挫をした人は治るまで患部を固定していなければなりません。ギブスや包帯、ピンが損傷した関節や骨を安定させるために用いられます。患部を固定している間、周囲の筋肉は用いられません。そのため、筋肉は徐々に衰退・衰弱します。しかし、骨や関節が回復するにつれて、動かすことができるようになります。ゆっくりと用い、運動することによって、筋肉の力も戻ってきます。
「活動は人間の生存の法則である。身体の全器官には各々指定された働きがあり、その働きによって発育し、強くなっていくのである。全器官が正常に活動するときは力と活気が生ずるが、そうでないときには衰弱と死に向かうのである。数週間だけでも片腕を縛っておき、そのあとで解いてみると、その間控え目に使っていた腕よりも弱っていることがわかる。活動させなければ、同じことが全ての筋肉組織に起こる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』227 ページ)。
信仰もこれと同じです。信仰は働かせなければ成長しません。信仰の手足と体に欠かすことのできない動きや活動が起こりません。信仰は賜物ですが、もし信仰を働かせなければ、もし信仰にもとづいて選択をしなければ、もし手を伸ばし、信仰によって神の約束を掴もうとしなければ、もし信仰にもとづいて積極的に機会をとらえなければ、もし服従と謙遜をもってひざまずくまでに信仰を働かせなければ、私たちは信仰を失う危険があります。
信仰を失うことは悲劇的なことです。なぜなら、信仰は神の賜物の中でも最も重要なものの一つだからです。信仰を持たないで、神を知らないで、神の約束のうちにある希望を持たないでこの世にあって生きることがどういうことかわかっている人だけが、信仰の賜物がどれほど素晴らしく、価値のあるものかを知ることができます。
見ないで信じる
その若い陸軍将校は落胆のあまり道端の石ころを蹴りました。母親が乳ガンの手術を受けることになっていたのです。それが、軍事作戦のために、家に帰って母親に付き添うことができなくなってしまったのでした。彼は怒りと反抗の気持ちから、「なぜだ! なぜだ! なぜだ!」と叫びました。彼は信仰を求めて祈ってきましたが、物事が願った通りに運ばず、祈りが求めたように答えられないので、信仰を失いかけていました。疑いの闇が魂に入り込み、一時的ですが、神の存在さえ疑いました。そんなとき、あたかも太陽が昇り、美しい曙光(しょこう)が空に満ちるように、彼はある聖書の言葉、子供の頃から知っていた一つの物語を思い起こしました。その物語について思い巡らしているうち、彼の信仰がよみがえってきました。それらの出来事の意味と理由を理解することは困難でしたが、彼は主イエスに対する信頼と愛をもって前進しました。
問4
ヨハネ20:24 〜29 を読んでください。この物語はどんなことを教えていますか。見ないで信じることはどれほど重要ですか。それが信仰を働かせることの重要な側面であるのはなぜですか。
イエスが寛大に、優しく、御自分の傷をトマスにお示しになったとき、トマスは答えます。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハ20:28)。あの若い陸軍将校の心に残っていたのは、「見ないのに信じる人は、幸いである」(29 節)という聖句でした。これが鍵でした──見ないで信じること、つまり「証拠」を求めないで神をその言葉の通りに受け入れること。結局のところ、世界中の「証拠」があっても、信じない人は信じません。信仰によって生きるとは、したがって、私たちが神の愛についてすでに経験していることにもとづいて生きることです。すでに経験していることにもとづいて神に信頼することです。神が御自分の慈しみと愛を示してくださっているゆえに、神をその言葉の通りに受け入れることです──自分の置かれた状況がどれほど困難で、理解不可能であっても、です。
運動の効用(その1)
今週はここまで、信仰を働かせることの意味について、またパウロがクリスチャンの信仰の歩みについて教えるために聖書の中で用いている運動選手と競走の比喩について学んできました。同時に、聖書の中には私たちの体が聖霊の神殿であることも語られています(Iコリ6:19、20)。
問5
コリントIの6:19、20 を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。運動の問題はこれらの聖句とどんな関係にありますか。
私たちの体は神からの賜物です。虐待すべきではありません。科学が明らかにしているように、運動は私たちの体のほとんどあらゆる面に効果を及ぼします。私たちはみな1 マイルを4 分で走るように求められているわけではありませんしかし、ほとんどの場合、私たちは適度の運動を通して肉体的に、また知的、霊的に十分な効果を得ることができます。
私たちクリスチャンは分離した不滅の霊魂というギリシアの思想を信じていません。肉体があらゆる点で悪であるという異教の思想を信じていません。私たちの心と体は共に神からの賜物であって、互いに密接に関連しています。肉体の状態は精神の状態に影響を及ぼし、精神の状態は霊性の状態に影響を及ぼします。すべてが関連しており、どれか一つを軽視すると、その影響がほかの点にまで及びます。
「神の要求を、良心に徹底させなければならない。男女ともに自己に勝利し、純潔の必要を感じ、すべて、放らつな食欲や汚れた習慣を捨てる義務があることを自覚しなければならない。彼らはあらゆる心身の能力が神の賜物であり、それらを神の奉仕のために最善の状態に保っておかなければならないことを深く感じる必要がある」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』114 ページ)。
運動する人は運動のすぐれた効果を実感することができます。しかも、嬉しいことに、激しい運動は必要ではありません。
運動の効用(その2)
信仰を働かせる必要があるのと同様に、体も運動を必要とします。しかしながら、運動を始める前に覚えておきたいのは、健康であるためには規則的な運動が必要だということです。何らかの健康上の制限や障害がある場合には、運動の強度に関して医師の指導を受けることが賢明です。
運動を始めるときには、次の3 点に留意する必要があります──回数、強度、長さ。
(1)回数 少なくとも1 週間に6 回、運動するのが健康に最もよいとされています。
(2)強度 理想的な運動の強度は年齢と健康状態によって異なります。継続してやるのなら、運動量を少しずつ増やすことも可能です。心拍数をあげ、汗をかくくらいにすることもよいでしょう。自分自身で調整してください。理想の状態は人によって異なります。
(3)長さ 1 日に45 分〜90 分がよいでしょう。1 週間に6 日、少なくとも30 分、運動すると効果的です。たとえば朝、昼、夜に各30 分のように、運動する時間を分けることもできます。あなたの都合に合わせて、調整してください。ウォーキング(歩くこと)は優れた、しかも長続きする運動です。
運動には、裏づけられた多くの効果があります。規則的な運動は体重を抑制します。運動は高血圧の降下を助け、あらゆる高血圧治療の重要な補助的療法です(医師の監督と指導による)。規則的な運動は2 型糖尿病の発病率を減らすこともわかっています。心臓の健康を増進する効果として、規則的な運動が高密度リポ蛋白(たんぱく)質(HDL、善玉コレステロール)を増やすことがわかっています。
規則的な運動は人の多幸感を増進させます。これは部分的に、運動しているときに分泌されるエンドルフィンと呼ばれる化学物資によってもたらされます。運動はアルツハイマー病の発症を遅らせることと関連があり、一般的に知的活動を促進します。規則的に運動する人はうつ病にかかりにくくなります。運動は乳がんと大腸がんを予防する上で役立ちます。運動の効用は多様です。
今回の記事のメッセージ
「恵みに成長するただ一つの方法は、キリストがお命じになった働きを自己を忘れてすることであって、助けを必要としている人に、私たちの力の及ぶかぎり助けと祝福を与えることです。力は使えば出てきます。生きるには活動しなければなりません。恵みによって与えられる祝福を受動的に受け、キリストのために何もしないでいながら、クリスチャンのいのちを保とうと努力している人は、働かないでただ食べてばかりいて生きようとしているのと同じです。自然界と同じように霊界でもこれでは衰えてしまうよりほかありません。手足を使わないでいれば、やがて手足を動かす力を失ってしまいます。それと同様に、神がお与えになった力を使わないクリスチャンは、キリストにまで成長しないばかりでなく、すでに持っていた力さえ失ってしまうのです」(『希望への光』1962、1963 ページ、『キリストへの道』109、110 ページ)。
*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。