命の水【健康と癒し】#4

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今回の記事のテーマ

人間の五感は驚くほど私たちを欺きます。地球は地軸を中心にして1 時間に約1000 マイル[1600 キロ]の速さで自転しながら、1 秒間に約18 マイル[29 キロ]という猛スピードで太陽の周りを公転しています。これほど速く動いているのに、私たちには全く動いていないように感じられます。一方、机や椅子、岩、人間など(つまり、物質)は、どれほど硬く見えても、ほとんど空間のようなものです。太陽から放出された何十億という原子より小さな粒子がつねに私たちの体を貫いていますが、私たちは全くそのことを感じません。しかも、外観からは全くわかりませんが、私たち人間の体はほとんど水からできています。そうなのです。人体の約60 パーセントが水ですから、その意味では、私たちはまさに水のような存在なのです。信じられないかもしれませんが、私たちの脳の約85 パーセントは水です。硬い骨でさえ、約10 〜15 パーセントが水です。

驚異と神秘に満ちた水はあらゆる生命の源です。水なしでは、私たちは存在することができません。今週は、この不可欠の液体──水──の持つ霊的、物理的な側面について考えます。

生きた水

問1
ヨハネ4:1 〜26 を読んでください。この物語の中で、水はどんな用いられ方をしていますか。それは何を意味しますか。このことは今日の私たちにどんなことを教えていますか。

イエスはサマリアで、ヤコブの井戸に水をくみに来た女と出会われます。イエスは女に水を飲ませてくれるように依頼されます。イエスは続く会話の中で、彼女の渇きを永遠に取り除くことのできる水を与えることができると言い、御自分を「生きた水」と呼ばれます。この言葉は、イエスが平安と喜び、罪責からの自由、赦し、神との一体感に対する必要を満たすことのできる方であることを暗示しています。クリスチャンはイエス・キリストのうちに解決法を見いだします。

イエスは私たちにイエスのもとに来て、イエスと共に奉仕する機会を与えておられます。この機会は今日も有効です。なぜなら、イエスは決して変わらない方だからです。イエスの憐れみと愛、受容にあずかるとき、多くの人はその不安と悩み、空しさを取り除かれます。

私たちが求める限り、神は霊的な水を豊かに与えると約束しておられます。神は黙示録22:17 で、命の水を価なしに飲むように私たちを招いておられます。私たちは命の源であるイエス・キリストにある限り、豊かに聖霊を受けることができます。愛に満ちたイエスはすべての人に、命の水を価なしに飲むように招いておられます(ヨハ4:13、14)。尽きることのないこの生きた水を受けるようにというイエスの招きは私たちすべての者に与えられています。

神がイスラエルの子らに岩から水を与えられたように、イエスは今日の私たちにも命の水を与えてくださいます(Iコリ10:1 〜4)。

私たちが何者であれ、過去がどうであれ、過ちが何であれ、現在の状態がどうであれ、私たちはこの生きた水を受けることができます。それはキリストの恵みを通して私たちに与えられています。

バプテスマの水

使徒言行録8:35 〜39 を読んでください。フィリポは聖書にもとづいて、エチオピア人の宦官(かんがん)にイエスの福音を語りました。宦官はイエス・キリストを神の子として受け入れます。二人が水のある所に来たとき、宦官はフィリポに、「バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言います。こうして、彼はフィリポからバプテスマを受け、喜びにあふれて旅を続けました。

水そのものに奇跡の力はありません。それは清めの象徴です。生き方を変えるのは聖霊の賜物です。バプテスマはイエスを受け入れたことを公に宣言することです。ヨハネ3:5 〜8 を読んでください。イエスはニコデモに言っておられます「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3:5)。

問2
沈めのバプテスマに際して、何が起こりますか。

ロマ6:1 〜6 沈めのバプテスマに象徴される真の回心は、人の生き方が清められることを示しています。新約聖書は沈めのバプテスマに何度も言及していて、クリスチャンの経験におけるこの儀式の重要性を強調しています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)。救われたとき、私たちは霊的に洗礼を受けてキリストに結ばれ(ガラ3:26、27)、キリストの体である教会(Iコリ12:13)に受け入れられたのです。聖書の象徴によれば、水によるバプテスマは内なる清め(エフェ5:25、26)と霊的再生(ヨハ3:5)を表します。どちらも救いの中心的なテーマです。

私たちはバプテスマを当然のことのように考えていますが、世界の多くの人にとって、バプテスマを受けることは大きな勇気を必要とします。一部の国では、バプテスマを受けることは配偶者や家族、共同体から離れて、投獄されること、あるいは死ぬことを意味します。イエスはこの世を去る直前に、次のように言われました。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マコ16:16)。このことについて考えてみてください。イエスは最後に、信じて、バプテスマを受けなさい、と言われたのでした。イエスがそのように言われたとすれば、その重要性を見過ごすことはできません。

水の使用

問3
創世記2:10 によれば、エデンの園には、罪以前から神の被造物のために水が備えられていました。このことは何を暗示しますか。

私たち被造物はみな、生きるために空気と水と食物を必要とします(創1:29)。エデンについての描写の中で、美しい園のほかに、一つの川があり、その川が4 つの川──ピション、ギホン、チグリス、ユーフラテス──となって流れていたと記されています。神は御自分の被造物の生命を維持するために水を備えてくださったのでした。

神の被造物である私たちは生きるために水を必要とします。事実、体のすべての細胞や組織、器官が機能するためには、水が必要です。水は体温を調節し、栄養分と酸素を細胞に運び、老廃物を除去し、便秘を予防し、組織に潤いを与え、関節を滑らかにし、血液を体中に流れさせます。私たちは、渇きが要求する以上の水を飲む必要があります。たとえば水、ミルク、果物、野菜ジュースといった多くの液体は、水分の補給に役立っています。しかし、アルコールやカフェインを含む飲み物は逆に水分を欠乏させるので、有害です。純粋な水はどんな飲み物よりもすぐれています。一日の始めにコップ1、2 杯の水を飲み、食事の間にも水を飲むようにすると、十分な水分を補給することができます。

このほかにも、水はいろいろと健康に役立ちます。手を洗うことは、さまざまな細菌の伝染を防いでくれます。特に食事の前に手を洗うことによって、かなりの率で伝染病を減らすことができます。毎日入浴することも、病気の原因となる汚れを取り除きます。

問4
レビ記11:40、13:6、34、53、54、15:3 〜13 を読んでください。どんなことがわかりますか。

これら清めの儀式の目的について学者の間には、純粋に儀式的なもので、健康的な意味は全くない、とする立場があります。確かに、そう思われる部分もありますが(祭司が幕屋に入る際に手足を洗うことなど[出30:20、21 参照])、細菌や衛生に関する今日の知識からすると、たとえイスラエル人が細菌学を知らなかったとしても、主が健康の目的でこれらのことを定められたと考えることもできます。いずれにせよ、今日では、水によって体を清潔に保つことは健康にきわめて有益であることがわかっています。

水の力

「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40:31)。

問5
上記の聖句について瞑想してください。この聖句のうちに、どんな約束を読み取ることができますか。それはあなた自身にとってどんな意味を持ちますか。

ハーバード大学のピッツ博士らの行った歴史的な実験があります。彼は暑い環境の中で運動選手を時速3.5 マイル(5.6 キロ)の速さでトレッドミル(歩行器)の上に歩かせ、汗で消費するのと同量の水を飲ませました。実験が終わった後──7 時間後!──も、彼らはなお歩き続ける余裕がありました(G・C・ピッツ、R・E・ジョンソン、F・C・コンソラシオ「水、塩分、ブドウ糖の摂取が炎熱下の運動に及ぼす影響」『アメリカン・ジャーナル・オブ・フィジオロジー』142:253、1944 年)。別の日に水を与えないで行った実験では、これらの選手たちは3 時間半で極度の疲労に達しました。

結果は明らかです。水は、特に激しい運動をしているときに、力とエネルギーを与えてくれるということです。対照的に、十分に水分を摂取しないと脱水状態に陥り、十分に水を取った場合よりも早く疲労します。水分不足はまた、生命維持に必要な機能を狂わせます。たとえ代償的な作用が働いたとしても、慢性的な水分不足は健康によくありません。

適度の水分摂取は頭痛などの症状を和らげ、過度に用いた場合に副作用をもたらす恐れのある頭痛薬の必要を減らします。たいていの運動選手が知っているように、長く、激しい運動をしているときには、水分の要求量が著しく増大します。

しかし、過度に水分を摂取すると、水中毒(水あたり)になる危険があります。水分摂取の適量は、気温や体の大きさ、腎臓の機能といった種々の条件にもよりますが、通常の状態で尿の色が無色透明になれば十分です。たいていの場合、1 日にコップ6 〜8 杯の水を、暑い環境で激しい仕事をしているときはそれよりも多く飲むように心がけるとよいでしょう。

治療法としての水

「彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです』」(ヨハ9:11)。

問6
ヨハネ9:1 〜11 ──イエスが生まれつき目の見えない人をいやされた話──を読んでください。このいやしの奇跡はほかのいやしの奇跡と比べるとどんな点が異なっていますか(たとえば、マタ8:8 〜13、9:2 〜7、ルカ8:46、47 参照)。この違いは何を意味すると思われますか。

内用、外用に用いられる水はきれいなものでなければなりません。きれいな水を入手することが困難な人達が多くいます。汚染された水源から取られた水を飲用に用いるためには、化学的に処理するか、煮沸(しゃふつ)して、安全なものにしなければなりません。

水は内用だけでなく、外用としても有益です。水を外用する治療法には、水治療法があります。水治療法の一環として、温めた、あるいは冷やしたタオルを注意深く用いることは、多くの症状を緩和してくれます。血液循環の悪い人、糖尿病の人、神経系統に病気のある人に対しては、十分な注意が必要です。水治療法の訓練を受けることは非常に有益です。「しかし、多くの人が、水を適切に使用すれば良い結果となることを体験から学んでいないために水を恐れている。このため水治療法の正当な価値が認められず、またそれを上手に施すには手がかかるといって、喜ばない人が多い。しかし、この問題に無知、無関心であってよいと考えてはならない。苦痛を和らげ、病気を阻止するために水を利用する方法が多くある。すべての人が、簡単な家庭療法に水を使用する方法をよく知っておくべきで、特に母親は、家族の健康時や病気の時を問わず、どう取り扱うべきかを知らなければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』226、227 ページ)。

今回の記事のメッセージ

「病人を扱う人たちは神に対する強い信頼をもって、その大切な働きにあたるべきである。清浄な空気、清潔、健康的な食事、適度な労働と休息、それに水の使用は、神が恵みのうちに備え、憐れみのうちに一つの民としての私たちに関心を向けるように求めておられる方法であって、それには神の祝福が伴う」(『食事と食物に関する勧告』303 ページ、英文)。

「その朝、祭司は、荒野で岩を打ったことを記念する行事をとりおこなった。その岩は、ご自分の死によって、かわいているすべての者に向かって救いの生ける水を流れさせてくださるキリストの象徴であった。キリストのみことばは生命の水であった。集まった群衆の目の前で、キリストは、生命の水が世に流れ出るように打たれるためにご自分を聖別された。サタンは、キリストを打つことによって、いのちの君を滅ぼそうと思ったが、打たれた岩からは生ける水が流れ出た。イエスがこのように人々に語られたとき、彼らの心はふしぎなおそれにうちふるえ、多くの者は、サマリアの女のように、いまにも『わたしがかわくことがな……いように、その水をわたしに下さい』と叫びそうになった(ヨハネ4:15)」(『希望への光』907 ページ、『各時代の希望』中巻234 ページ)。

*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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