環境【健康と癒し】#5

目次

今回の記事のテーマ

創造主は天地創造の最初の5 日間を、生まれてくる人間のための環境を整えるために用いられました。神はアダムとエバを園に住まわせ(創2:8、15)、彼らが地上のすべての被造物を守るようにされました。これによって、彼らは研究し、楽しむ機会を、また地上における神の代表者として成長する機会を与えられました。安息日は神に対する彼らの関係を保証するものとなるのでした。しかし、罪が神の本来の計画に変更をもたらしました。環境は敵対するものとなりました。楽しいはずの労働が苦しい労役となりました。利己主義が支配するようになりました。地球の資源に対する収奪が始まり、今日もなお続いています。森林が伐採され、水路が変えられ、汚染が広がっています。肥えた土地はひどくやせたものとなりました。健康に欠かせない日光は、過度にさらされると、健康を脅かすようになりました。このように、人間が絶え間なく地球を虐待しているにもかかわらず、地球はなおも私たちの生存を支えてくれています。

環境を創造する

今日のいくつかの理論によれば、地球とその上の生命体の創造は、たまたま、偶然、道徳外の(道徳に無関係な)力が生じ、それが長い時間をかけて、計画なしに、この地球とその上のあらゆる生命体をもたらしたことによるとされています。対照的に、聖書は人間の起源について全く異なった描写をしています。人間の起源を神も目的もないところに求める進化論は、創世記にある創造の記録とは全く対照的です。これら二つの見解は基本的に、相容れないものです。

問1
創世記1 章と2:1 〜7 を読んでください。創造週における神の御業は創造の極致である男と女の創造のためにどのように道を備えましたか。人間の創造はほかの被造物の創造とどのように異なっていましたか。

創造主なる神が男と女を創造しておられる光景を想像してみましょう。まず、神は土からアダムを造られます。ここに、彫刻者としての神がおられます。次に、神はかがんで、アダムに御自分の息を吹き込まれます。生命の賦与(ふよ)者なる神がアダムを生きた者とされます。ここに、働いておられる私たちの神の素晴らしい姿を見ることができます。

しかし、それだけではありません。神は外科医となって、アダムのあばら骨を取り、それをもってアダムの伴侶、人類の母なるエバを造られます。エバはこの完全な環境の中で、アダムのそばに立つのでした(創2:18 〜24 参照)。神はそれから、これら創造されたばかりの人間を、先に準備しておかれた美しい園に置かれます。

神はアダムとエバのために最も健康的な環境を用意されました。平和に満ちた緑の木々、色とりどりの花と果物──これらはみな、彼らのために理想的な家庭を提供するのでした。私たちの最初の両親が怠惰な生活を送るように、神は計画されたのではありません。彼らは園の中で働き、それを管理するのでした。それによって、彼らは満足と喜びにあずかるのでした。「神の第二の書」と呼ばれる自然界を通して、彼らは神についてさらに多くのことを学ぶのでした。

安息日の環境

興味深いことに、創造のすべての働きは、神が安息日を創造するまでは完成していません。何という対照でしょうか──世界、動物、海、草、そして人間の創造があって、その後に一つの行為、すなわち休息という行為があります。

問2
創世記2:2、3 を読んでください。神御自身が安息日に休まれたという事実のうちに、何を読み取ることができますか。

創造主なる神御自身が第7 日安息日を守られるとは、どういうことでしょうか。それは安息日の起源について私たちに教えているのです! いかなる意味を持つにせよ、一つのことだけは確かです──第7 日安息日は、ユダヤ国家やユダヤ民族が出現するずっと前に、神によって定められました。

安息日は創造主とその愛、被造物に対する神の配慮に関心を向ける機会を私たちに与えてくれます。安息日は、労働が比較的楽しく、生産的であった時代においても、労働に一定の制限を加えるのに役立ちました。

罪が入り、働くことがずっと困難で苦しいものとなってからは(創3:17 〜19)、労働を制限することや、創造主を覚えるようにという招きはさらに重要な意味を持つようになりました。天地創造の記念である安息日はまた、被造世界に対する私たちの責任に目を向けさせてくれます。しかし、時代の経過と共に、安息日の休みの真の意味が数々の規定や規則によって失われ、人々の思いは安息日の真の意義と価値から離れてしまいました。

問3
マルコ2:27、28、3:4 を読んでください。イエスは安息日をどのように理解しておられましたか。

キリストは安息日の意義を、神がもともと意図されたところまで回復されました。神が安息日を、善をなすとき、神の国を前進させるとき、窮乏の中にある人々に奉仕するときと見ておられることを、キリストは明らかにされました。

罪以後の環境の変化

問4
創世記3:7、17 〜19 を読んでください。アダムとエバが禁断の木の実を食べたことにともなう結果は、まずどのような兆候となって現れましたか。

罪がアダムとエバに入ったとき、彼らはいくつかの困難な結果に直面しました。まず、エレン・ホワイトも記しているように、彼らをおおっていた光の衣が消えました。彼らを取り巻いていた環境に変化が現れました。植物界にも変化が現れました。茨とあざみが生えいでました。土地が固く、不毛になりました。その上、それまで彼らが全く経験したことのない死が入り込んできました。

それまで彼らが享受してきた素晴らしい環境が突然、変貌(へんぼう)しました。こうして、彼らに新たな試練が訪れ、その試練は時の経過と共に、世代を追って悪化していくのでした。一方、人間は自己の利益と栄華のために地球を搾取(さくしゅ)し始めます。

問5
列王記上10:14 〜22 を読んでください。これらの記述から、人間がこの世界をどのように見るようになったかがわかりますか。

搾取に加えて、腐敗、滅び、死がすべての人に臨むようになりました──その程度があまりにもひどいので、私たちはこれらを人生の一部のように見なしています。しかし、このような状況は初めからあったのでもなければ、神の最終的な計画の中にあったのでもありません。貪欲(どんよく)な人間が結果を顧みないで地上の富を手に入れようとしたとき、地球に対する人間の管理は搾取に変わりました。

大気と水、土壌の汚染、また新種の、恐ろしい病原体の出現などは、地球の老化と再生の必要性を示唆しています。発展途上国が発展をめざし、先進国が現在の生活水準を維持しようとするとき、人類が直面する健康上の問題は環境汚染のためにさらに深刻なものとなります。

環境保護と私たちの責任

問6
詩編24:1 を読んでください。この聖句は私たち人間と世界との関係についてどんなことを教えていますか。世界の現状に目を向けてください。私たちは環境を保護するために、いま何をすることができますか。

まず初めに、神の主権が地球全体に及ぶことを覚える必要があります。私たちは神と神の被造物に対する責任を免れることができません。地球は神のものであり、同時に人──私たちすべての人──のものです。私たちはほかの人々と地上のほかの被造物を守る責任を神に対して負っています。私たちは資源を守る必要があります。

その一例が水です。私たちは賢明に水を使用しなければなりません。私たちは水のない人々にきれいな水を供給する努力を支援すべきです。世界のある地域では、水不足が非常に深刻な問題になっていて、そのために多くの人命が失われています。

私たちは主の計画された食事に従うべきです。より多くの人が菜食にすれば、より多くの人に食物がゆきわたるはずです。菜食よりも肉食のほうが、より多くの資源を必要とするからです。

私たちには植物や森林を保護する責任があります。そうすることによって、空気をきれいに保つことができます。

程度の差にかかわりなく、私たちは二酸化炭素排出物を減らすように心がけるべきです。二酸化炭素排出物は環境に悪影響を与えるので、ますます世界的な関心事になっています。

地球のよい管理者になることによって、環境保護に努めることによって、資源を独り占めしないことによって、自分の富を人々とわかち合うことによって、私たちは助けを必要としている人々の生活を改善することができます。クリスチャンとして、また主イエスに従うと公言する者として、私たちは必要の中にある人々を助ける義務を負っています。

太陽礼拝者

永遠という光に照らして見るときに初めて、私たちは罪が環境に及ぼす否定的な影響を十分に理解することができます。私たちにとって、アダムとエバの住んでいたこの世界がどれほど美しく、また周囲の環境がどれほど完全に生物に適合していたかを想像することは困難です。

もちろん、罪の影響は地球だけに留まるものではなく、人間にも影響を及ぼしました。罪が人間に及ぼした否定的な影響の中に、彼らが偶像崇拝に陥ったことがありました。それは、創造主でなく「造られた物」(ロマ1:25)を礼拝し、これに仕えることのうちに表されていました。

問7
列王記下23:5、エレミヤ書8:2、エゼキエル書8:16 には、太陽礼拝のことが書かれていますが、どうして太陽を礼拝したのでしょうか。

今日の地球環境についてわかっていることの一つに、私たちの健康に欠かせない日光も、過度に浴びると健康にきわめて有害であるということがあります。このように、ある意味で、現代の太陽崇拝者も、昔の人々とほとんど同じくらい無知の中に生きていると言えます。

今日では、過度に日光にさらされると、さまざまな皮膚がんになる危険性が増大することがわかっています。

その一方で、日光浴は人体の代謝と丈夫な骨に欠かせないビタミンD の生成に役立ちます。適度の日光浴はまた、ある種のがん予防に役立ちます。

では、理想的には、どのくらい日光に当たったらよいのでしょうか。赤道に近い環境に住む皮膚の色の白い人が日光からビタミンD を得るためには、1 日に最低5 分は必要です。同じ環境に住む皮膚の色の黒い人が同じ量のビタミンD を得るためには、30 分は必要です。日照時間がもっと限られている地域では、ビタミンD を医師の指導のもとで補給する必要があります。

ときどきカーテンや窓を開けて日光を部屋に入れると、ある種の細菌が死滅するので、健康的です。研究によると、十分に日光に当たらない人は季節性うつ病(季節性情緒障害[日照時間の短い冬になるとうつ状態になり、春になると回復する])にかかりやすくなります。この病気は特に冬になると日の短くなる地域で起こりやすいことがわかっています。解決法はきわめて単純です。冬の季節には、人工の光を含めて、努めて日光に当たることです。

要するに、どんな健康法にも重要なのは、節制と適度の日光浴です。

今回の記事のメッセージ

「『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません』(ロマ1:20)。今日、私たちが目にする自然界の事物は、エデンの栄光をかすかに見せてくれるだけである。罪は地球の美しさを傷つけてしまった。あらゆる物の上に、悪の働きの痕跡を見ることができる。しかし、多くの美しいものが残されている。自然界は、力において無限の方、慈しみと憐れみ、愛において偉大な方がこの地球を創造し、それを命と喜びで満たしてくださったことを証言している。損なわれた状態の中にあってさえ、万物は偉大な芸術家の御手の業を啓示している。私たちは至るところに神の声を聞き、神の慈愛の証拠を見ることができる」(エレン・G・ホワイト『ミニストリー・オブ・ヘルス・アンド・ヒーリング』234 ページ、英文)。

*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。

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