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今回の記事のテーマ
自分の病気は悪い呪いのせいだと信じ込んだある患者が医者のところにやって来ましたが、はっきりした病気や症候群の症状は見当たりませんでした。医者は患者の前に2 本のガラス管を置きました。一方には過酸化水素が、もう一方には水が入っていましたが、どちらも同じように見えました。それから、患者の血をとり、それを過酸化水素と混ぜました。混合物がぶくぶくと泡を立てるのを見て、患者はそれが悪い呪いのせいだと考えました。
次に、医者は患者に簡単な塩水注射をし、これで呪いは解けると告げました。しばらくしてから、医者はまた患者の血をとり、それをもう一方のガラス管に入った水に混ぜました。今度は、泡が立ちません。呪いが解けた「証拠」です。患者はすっかりいやされて帰りましたが、今度はその医者にいやしてもらうために、たくさんの友だちを連れてきました。
この物語は、私たちの心が体にどれほど大きな影響を与えるかを教えています。今週は、このことについて学びます。
不安の種
何年か前、テレビに「フィア・ファクター」(不安の種)というショー番組がありました。出演者は、さまざまな恐ろしい状況──たとえば、サソリやネズミのいっぱいいる穴に座らされたり、燃える建物の中を走り抜けたりする──に置かれ、いかに上手に恐怖を克服するかを競うのです。
もちろん、人はわざわざ不安を作り出す必要はありません。この堕落した世界にあって、人生は恐怖に満ちた出来事であふれているからです。17 世紀のイギリスの政治哲学者トマス・ホッブスは、恐怖が人の人生を動機づける最大の要因であり、人間が政府を作った主たる目的も、人間に危害を加えるものから自らを守るためであった、と記しています。だれであろうと、どこに住んでいようと、どのような境遇にあろうと、私たちはみな何らかの恐怖に直面していることは確かです。しかしながら、恐れそのものは、必ずしも悪であるとは言い切れません。
問1
恐れはどんな場合に私たちを守ってくれますか。事実、私たちはどんなことを恐れるべきですか。
恐れは自然で、必要な感情の一つで、人間が危険に対処し、生き残るのを助けてくれます。この感情・本能は事故や犯罪、病気、テロ、戦争の多い世界にあって必要なものです。
問2
私たちは聖書に記された最初の恐れから、恐れについて何を学ぶことができますか。創3:8 〜10
確かに、この世界には、私たちを恐れさせるものがたくさんあります。しかし私たちはしばしば、決してあり得ないことを恐れています。恐れはストレスに満ちた感情で、私たちの体に大きな害を及ぼします。恐れは私たちの心にだけ害を及ぼすのではありません。それはまた、私たちの肉体的健康にも有害な影響を及ぼします。だれであろうと、どこに住んでいようと、どんな問題に直面していようと、恐れはつねに私たちの生活の中にあります。重要なのは、その恐れにどう対処するか、です。
ある人が宇宙に向かって言った
ある人が宇宙に向かって言った。
「宇宙よ、私は存在するのだ!」
宇宙は答えて言った。
「しかし、その事実は私のうちに義務感を創造しなかった」
──ステファン・クレーン
問3
上記の詩を読んでください。この詩は何を言っていると思いますか。アドベンチストの宇宙観はこの詩の宇宙観とどこが異なっていますか。その理由は何ですか。
ここで、私たちを創造された神、創造主、聖なる力が存在しなかったと仮定してください。そして、多くの人が言うように、私たちが高度に進化した猿、私たちのことを全く心にかけない神なき宇宙から生じた存在にすぎないと仮定してください。私たちや、私たちの幸福に興味も関心もない、知性なき勢力に依存する存在であったと仮定してください。それはどのような世界でしょうか。
それは私たちクリスチャンの信じる世界ではありません。対照的に、私たちは、神が私たちを創造し、支え、心にかけておられると信じています。それゆえに、私たちはすべての人を悩ます恐れや試練に対処することができると考えます。
問4
次の聖句を読んでください。私たちは恐怖の時代にあっても、これらの聖句からどんな希望と慰めを与えられますか。詩編118:6、箴3:5、6、ルカ12:6、7、ロマ8:38、39、II テモ1:7、ヘブ13:6、Iヨハ4:18
当然のことですが、神の存在を信じるクリスチャンであっても、私たちは恐ろしい世界、何が起こってもおかしくない世界の中に生きています。しかしながら、私たちは神を知っているので、全体としての世界、またその中にいる私たちの立場をよりよく理解できる情況にあります。
このように、理想を言えば、私たちはどんなに厳しい時代にあっても、希望と慰めを持つことができます。ただ、現実問題として、私たちはいやなことや恐ろしいことに遭わないわけではありません。それでも、私たちにはこれらの問題に対処しうる堅固な基礎が与えられています。
信仰の力
問5
「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす」(箴17:22、口語訳)。この聖句は心と体の関係についてどんなことを教えていますか。
ある教師が、病気で休んでいる生徒の家を、宿題をわたすために訪問したとき、その生徒の症状は非常に悪く、今にも死にそうな状態でした。先生は、「マイケル、ここに動詞と副詞の問題があるから、よく考えておきなさい」と言って宿題を渡したのですが、できる状態ではないことを強く感じていました。ところが、その後、少年は目覚ましい回復を見せ始めました。予後が悪く、長くは生きられないと思われていたのに、彼はどんどん良くなっていきました。「あの宿題がすっかり君を変えたようだが、いったい何があったのかね」と聞かれたとき、その少年は答えました。「僕はもう死ぬんだと思っていました。だけど先生は動詞と副詞の宿題をやるように言われました。僕はまだ生きれるんだと思ったのです」

明らかに、私たちの心と体と行動との間には、深い関係があります。この関係についての詳しいことは科学にもわかっていませんが、そこに明らかな関係があって、私たちの健康に決定的な影響を及ぼすことは確かです。
同じことが、神に対する信仰、神の愛と慈しみに対する信頼についても言えます。神が私たちを愛し、私たちを心にとめてくださると信じるとき、私たちは平安に満たされ、悩みから解放されます。世界的な研究によっても明らかなように、一般的に、信仰は人を健康にし、神を信じる人は長生きをし、うつ病にかかりにくく、心を傷つける出来事にもうまく対処することができます。神の超自然的、奇跡的な力が私たちにいやしをもたらすことは確かですが、必ずしもそれだけがいやしを与えるのではありません。信仰は信じる者に平安と確信、希望を生み出し、それが精神的な安定につながり、結果として私たちの心身の健康によい影響をもたらすのです。確かに、心の楽しみは薬のようなもの──いやそれ以上のものかもしれません。薬が有害な副作用を生み出すことがよくあるからです。
ストレスによる疲れ
問6
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ロマ15:13)。どうしたらこれらの約束を自分のものとすることができますか。あなたのどんな態度・行為がそれを妨げていますか。
私たちの健康に悪影響を与える最大の要因の一つはストレスです。それは必ずしも人生の大きなトラウマ(心的外傷)であるとは限らず、むしろ毎日の生活の中で体験する、ごくありふれた緊張と関係があります。

医師の報告によれば、診察を受けに来る患者の90 パーセントが何らかのストレスを抱えていることがわかっています。人間はストレスを受けると、ある種のホルモンが分泌され、体のさまざまな器官に影響を及ぼすことが科学によって裏づけられています。それが長期にわたって続くと、体の器官はこれらのホルモンによって弱められ、病気にかかりやすくなります。たとえば、ストレスはアドレナリンを分泌させるので、心臓の鼓動が速く、強くなり、心悸亢進(しんきこうしん)(動悸)を引き起こすことがあります。ある種のストレス・ホルモンは血管を収縮させ、高血圧を引き起こします。ストレスは呼吸を浅く、速くさせ、ときには過換気を引き起こします。ストレスは胃の血流を悪くさせ、胃の病気を引き起こします(恐れや不安、悩みが胃に及ぼす影響はだれもが体験していることです)。ストレスは血糖値を高め、人によっては糖尿病の原因になります。ストレスはまた安眠を阻害するので、心身の健康に悪影響を及ぼすことになります。さらに、ストレスは病気に対する体の防衛線である免疫システムに悪影響を及ぼすことがわかっています。
ほかにもまだまだあげることができますが、要点は明らかです。私たちはストレスにうまく対処する方法を学ぶ必要があります。ここに、神に対する信仰が重要な意味を持ってきます。なぜなら、神の愛の現実を知り、それを自分で体験することは心に平安をもたらし、ストレスとその結果としてのさまざまな病気を大幅に軽減するからです。
信仰と奇跡的ないやし
福音書をざっと読んだだけでも、イエスの働きの多くに奇跡によるいやしが含まれていることがわかります。病人、目の不自由な人、死に瀕している人、さらには死んだ人でさえ、主の奇跡による力によっていやされています。多くの場合、信仰はいやしに欠かすことのできないものと見られています(マタ9:2、22、28、29、15:28)。
対照的に、たとえばナザレの人々がそうであったように、不信仰はいやしを妨げるものでした(マタ13:58、マコ6:5、6)。あるとき、弟子たちに奇跡を行うことができないときがありました。そのとき、イエスは彼らの不信仰が原因であると言われました(マタ17:14 〜20)。
ところで、奇跡的ないやしには信仰が欠かせないという理由から、祈りによるいやしが成功しないのは病人の側に信仰が足りないからだと考える人がいます。しかし、これは非常に浅い考えであって、信仰といやしについての誤解から来ています。
問7
次のイエスのいやしを記した聖句はいやされた人の信仰について何と述べていますか。これらの模範からどんな教訓を学ぶことができますか。マタ12:9 〜13、ルカ13:11 〜13、14:2 〜4、22:47 〜52
これらの聖句には、いやされた人の信仰について何も書かれていません。このことは奇跡的ないやしにおける信仰の役割を軽視するものではありません。それはただ、信仰の表明が必ずしも重要な要素ではないことを示しているにすぎません。
私たちには理解できないことですが、主の超自然的な介入によっていやされる場合があります。また、自然な方法によっていやしが与えられる場合があります──そのときも、主の御手がこれらの方法を通して病人のために働いたと信じることができます。そして、理由はわかりませんが、私たちが祈り、願った方法でいやしが与えられない場合があります。しかしながら、たとえ最後の二例のような場合であっても、私たちアドベンチストは、堕落した世界につきものの不可解な悲劇の中にあってさえ、なお神の愛と慈しみ、善意に信頼することができます。
今回の記事のメッセージ
「真の科学においては、神の御言葉の教えに矛盾するものは何もない。なぜなら、両者の創始者は同じだからである。両者を正しく研究するなら、つねに調和があることが明らかになる」(『教会へのあかし』第8 巻258 ページ、英文)。この理解にもとづいて考えるなら、真の科学──神の自然の法則についての啓示──を通して神の助けを求めることをためらうべきではありません(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』465、466 ページ、『SDA 神学ハンドブック』英文第12 巻751 〜783 ページ参照)。
「心と体の間にある調和は非常に顕著である。心の状態は肉体組織の健康と密接な関係がある。もし心が、他人を幸せにするという正義感と満足感のもとで、自由で平安なら、それが快活さを生み出し、体全体に影響を及ぼし、血行をよくし、体全体を強くする。神の祝福は人をいやし、豊かに人を祝福する人は自分の心と生活の中に驚くべき祝福を実感する」(『教会へのあかし』英文第4 巻60、61 ページ、『スチュワードシップに関する勧告』英文345、346 ページ)。
「だれでも自分の祈りが即座に、また直接に答えられることを望み、その答えが遅れ、期待に反した形で与えられると失望するが、神は賢明、かつ最善なお方で、わたしたちが望むときに、望むように、いつでも答えるということはなさらないのである。しかし、わたしたちの希望が全部かなえられるよりももっと良い方法をとっていてくださるのである。わたしたちは神の知恵と愛を信頼できるようになるため、わたしたちの願いを聞いてくださいと祈るのではなく、神のみ心を知り、それを果たすように務めなければならない。自分の要求や興味を神のみこころを考える気持ちで忘れてしまわなければならない。信仰を試すこうした体験はわたしたちに有益である。なぜなら、それによって自分の信仰が真実であり、神のみ言葉の上に堅く立った信仰であるか、それとも事情が変われば動揺し、不安定で変わりやすいものかどうかが判然とするからである。信仰は働かすことによって強くなる。主に仕える者のために聖書の中には尊い約束があることを覚え、忍耐を十分に働かせなければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』221 ページ)。
*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。