社会的な支え──結びつける絆【健康と癒し】#13

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目次

今回の記事のテーマ

人から愛されていないこと、孤独であること、独りぼっちであることは、さまざまな不幸な結果をもたらすことがわかっています。そのような人は200 パーセントから500 パーセントも高い確率でいろいろな病気になったり、早死にしたりします。悲しいことに、孤独は日常生活の喜びや、満足すべき人間関係からくる喜びを奪います。軍の病院で胎児検診を受けている170 人の軍人の妻について、ある調査が行われました。それによると、感情的、心理的支えのない妻は適度の支えのある妻より3 倍以上も多くの合併症にかかることがわかりました。

座り込み、ひざを抱えてうつむいている女性

孤独感を募らせるものはすべて、病気と苦しみにつながることは確かです。一方、愛と親しみ、関係と交わりを促進するものは、いやしと健康をもたらします。私たち人間が人との関係・交わりの中で生きる者として造られていることを考えれば、当然のことかもしれません。

以上のことを念頭に置き、健康と節制についての最後の週の研究に臨みたいと思います。今週は特に、人間関係の大切さについて、また人間関係が私たちの肉体的健康にどのような影響を及ぼすかについて考えます。

原初の姿

人間として、私たちは罪に浸り切っているので、罪がどれほど悪いものか、罪がどれほど深刻な影響を及ぼしているかを忘れがちです。自分たちがどれほど堕落しているかを理解することは容易ではありません。長い間、堕落していたからです。

問1
創世記1:27 を読んでください。イエス御自身が神であられるという事実は、神にかたどって造られていることの意味を理解する上でどんな助けになりますか。イエスについて知ることは、アダムとエバが創造当初に持っていた品性を理解する上でどんな助けになりますか。

聖書ははっきりしています。人間は神のかたちに造られました。イエスは神であられます(ヨハ1:1 〜3 参照)。したがって、人間は当初、ある程度、イエスの道徳的品性を反映していました。イエスは私たちを愛するゆえに、私たちを救うために、へりくだって、私たちと同じ人性を取られました。人間も当初はそのようでした。イエスは御自分を裏切る者の足を洗うことによって、喜んで人々に仕えられました。人間もいくぶん、これと似ていました。イエスは十字架の上で死のうとしておられたときにも、死にゆく泥棒(どろぼう)を慰められました。人間もそのようでした。イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と叫ばれました。罪を犯す前の人間もいくぶん、これと似ていました。

イエスの生涯に見られた人々に対する無我の愛と関心は、「神にかたどって」造られた堕落以前のアダムとエバにも、ある程度反映されていたに違いありません。

したがって、イエスに似る者となるということは、私たちが最初に創造された姿に造り変えられるという意味です。キリストの品性の中心には人々に対する無我の愛があったということは、イエスを眺めることによって、またイエスがどのように生き、どのように人々を扱い、どのように敵をさえ愛されたかを見ればわかります。とするなら、私たち人間は当初、周囲の人々を無条件に愛し、心にかけるように造られていたことになります。これは確かに、神にかたどって造られていることの一部です。

私たちが造られたのは愛するためであり、愛されるためでした。私たちは愛する人々を必要とします。同じように、人々も愛される必要があります。共同体や家族の存在意義はここにあります。

抱き合っているカップル

人間は社会的な存在

人間は社会的な存在です。アダムが創造されて間もなく、神は彼のために助け手を備えられました。神は言われました。「人が独りでいるのは良くない」(創2:18)。私たちは互いに相手を必要としています。この現実はある重要なことを教えています。

問2
ローマ14:7 を読んでください。この聖句はどんな重要な原則について教えていますか。あなたはこの真理の力強い現実性をどのように理解していますか。

生きるにせよ死ぬにせよ、私たちはほかの人々、特に家族に影響を及ぼします。自分の健康に留意することは自分自身だけでなく、生活を共にしている人々にとっても祝福となります。

問3
次の聖句は、社会的な関係が私たちの祝福のために与えられたことについて何と教えていますか。創2:18、コヘ4:9 〜12、Iコリ12:14 〜26、ガラ6:2

よい人間関係は私たち自身の生き方はもちろんのこと、人々の生き方にも積極的な影響を与えるので、私たちは与えること、感謝して受けることを学ばねばなりません。「自分の体であるから、人にとやかく言われる筋合いはない」と言うことは間違っています。健康に関する個人の誤った選択は、直接的・間接的に、社会にも損失をもたらします。神の尊い創造物の一つである人間の生命は、かけがえのない価値を持っていて、大切に守るべきものです。多くの地域で、生命の価値が正当に評価されていません。クリスチャンにとって、すべての人は尊い存在です。自分自身の健康だけでなく、人々の健康のためにも投資することは重要です。

ある医師が、社会的なつながり・支えと病気・死亡率との間の重要な関係について研究しました。それによると、日本文化における緊密な社会的、文化的、伝統的な絆が健康に顕著な影響を与えていることがわかりました。社会的な絆が強ければ強いほど、健康にも恵まれていました。さらに、社会的な孤立が健康を阻害し、死亡率を高めることがわかりました。有意義な社会的関係は肉体と精神と感情の働きに積極的な影響を及ぼします。

贖いにおいて一つ

全人類は共通の祖先によって結ばれています(使徒17:26)。私たちはまた神の愛によって結ばれています。すべての人はキリストの尊い血によって贖われます。神は一人も滅びることを望まれないからです(II ペト3:9)。

聖書に教えられているように、イエスによる贖いを通して、私たちの間にあるすべての障害が取り除かれねばなりません。なぜなら、私たちは主の前に同じ罪人だからです。私たちはみな神の恵みを必要とする罪人です。

問4
パウロはイエスの血によって贖われた人たちについて何と言っていますか(エフェ4:1 〜16)。このことは私たちのあるべき人間関係について何を意味しますか。

自分の体を憎む者は一人もいません(エフェ5:29、30)。体の各部分は効果的に機能するために相互に作用しています。もし体の一部に問題が生じるなら、全体の働きが影響を受けます。互いに人々と親しい関係にあればあるほど、私たちは彼らの問題から生じる衝撃を敏感に、強く感じます。

互いに交わり、助け合うことは私たちの健康を増進します。276 名の健康なボランティアを感冒(風邪)ウイルスにさらし、各種の対人関係が及ぼす効果について調べたことがあります。その結果、対人関係の種類が最も少なかった人たちは多かった人たちよりも4 倍以上、風邪を発症するリスクが高いことがわかりました。これらの違いは、免疫力やタバコ、運動、睡眠、アルコールといった要因によっては説明できないものでした。明らかになったことは、多様な人間関係が交わった人の総数よりも重要であることでした。この調査からも、互いに助け合う、多様な人間関係が感染に対する抵抗力を高めることがわかります。

以上のことは、私たちがここまで学んできたことを裏づけるものです。私たちの感情的、精神的、霊的健康は肉体の健康に大きな影響を及ぼします。私たちの感情的、霊的健康に重要な役割を果たすのは対人関係の種類です。

確かに、だれでも一人になりたいときはあるものです。しかし、そのようなときでも、必要に応じて、支援団体として行動する大きな共同体の一員として行動することは可能です。

互いに支え合う

互いに仕えることの素晴らしい恵みを認めるなら、エレン・ホワイトが次のように述べている理由がよくわかります。「クリスチャンの親切と心からの献身は、つねに生活の中に表されるべきです」(『医療伝道』204 ページ、英文)。人が世界中の神学的知識を手に入れたとしても、もし親切で、愛に満ち、人を思いやることがないなら、その知識はどんな役に立つというのでしょうか。これこそ、パウロがコリントIの13 章で述べていることのテーマであるように思われます。ときどきこの章を読み返し、自分がパウロの言葉に従っているかどうか自問してみることはよいことです。

問5
次の聖句は私たちのあるべき人間関係について何と教えていますか。

・ヨハ13:35
・ロマ15:7
・エフェ4:32
・コロ3:13
・Iテサ4:18
・ヤコ5:16
・Iペト3:8
・Iペト4:9
・Iヨハ1:7

クリスチャンのすぐれた美徳の一つは、イエスの模範に従って、弱さの中にある人々を愛することです。イエスは多くの欠点と失敗だらけの弟子たちを愛されました。拒絶され、裏切られたときでさえ、イエスは思いやりと寛大さに満ちていました。私たちも同じように振る舞うように求められています。これは、キリストが私たちのうちに働いてくださることによって、しかも私たちがキリストに献身する程度に比例してなされます。私たちが神によって与えられた恵みと憐れみの豊かさを理解するときに初めて、人にも同じようにすることができます。私たちを愛し、親切にしてくれる人を愛することは比較的容易です。たいていの人がそうしています。愛することのできない人、つまりつき合いにくい人や、意地悪で不公平な人を愛するように求められるとき、神の恵みの力が必要なのはそのようなときです。

互いに仕える

地上におけるイエスの生涯は奉仕の生涯でした。公生涯の初めから終わりまで、イエスは人々に奉仕されました。事実、聖書によれば、イエスは今日も私たちに奉仕しておられます(ヘブ2:17、18)。

イエス様に足を洗ってもらう人のイメージ画像

問6
各人は奉仕のための特別な霊的賜物を持って生まれています。次の聖句は種々の霊的賜物と奉仕について何と教えていますか。

・ロマ12:4 〜8
・Iコリ12:1 〜5
・エフェ4:8 〜11

すでに学んだように、イエスと同様、私たち人間は人を愛するように創造されています。私たちが人を愛するのは人のためだけではありません。それは私たち自身のためでもあるのです。

人に助けの手を差し伸べ、何の見返りも期待しないで、無我の精神をもって奉仕するとき、あなたはどんな気持ちになりますか。琴線に触れるものがあります。一種の幸福感、何ものにもまさる満足感があります。それは、自分自身をささげることによって、人間本来の生き方をしているからです。私たちは初めから、そのような者として造られているのです。

すでに見てきたように、人生に対する積極的な考え方は肉体的にもよい影響を及ぼします。積極性、幸福感、満足感といった感情は、私たちの身体によい反応をもたらします。とするなら、人のために善をなすことから来る医学的な効果が科学的な研究によって証明されたとしても、何ら不思議ではありません。人を助ければ、充実感があります。充実感があれば、健康が増進します。全く理にかなったことです。

今回の記事のメッセージ

「多くの人は、この地上でキリストが生活なさった場所を訪問し、キリストが歩まれた道を歩み、キリストがそのほとりでお教えになった湖をながめ、キリストが見慣れた丘や谷をながめることができたら、大きな特権だろうと思う。しかしわたしたちは、イエスのみ足の跡をたどるために、ナザレやカファルナウムやベタニアに行く必要はない。病床のそばに、貧しいあばらやに、あるいは、大都市の雑踏した狭い裏通りに、そして人の心が慰めを必要としているどこにでも、イエスのみ足跡を見いだすのである。

わたしたちは飢えた者に食を与え、裸の者に着せ、苦しみ悩む者を慰めなければならない。気落ちした者に仕え、望みなき者に希望をおこさせなければならない。

無我の奉仕に表されるキリストの愛は、悪人を改めさせるのに剣や法廷よりも力がある。これらのものは、犯罪者を恐れさせるには必要だが、愛のある伝道者は、これ以上のことができるのである。しかられて頑固になった心も、キリストの愛には溶けることが多い」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』88 ページ)。

*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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