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目次狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
新約聖書 マタイによる福音書 7章13ー14節
なぜ、出ていってしまうのか?
毎年、台風や大雨の際に、川や田んぼ、畑の様子を見に行ったことで亡くなる人が各地で出てしまいます。なぜ、人は大雨や台風の中、出歩いてしまうのでしょうか。
その理由の一つに、「どのようなことが起こっているのか、どんな被害が発生しているのか純粋に知りたい」という「好奇心」があります。
人間には「知りたい」という知的欲求があり、大雨や台風で外がどうなっているのかを「見てみたい」のです。もちろん外は危険なので、多くの人は危機感を持って知的欲求を抑えるのですが、中にはあまり危機感を持たない人もいます。
それらの人は、3つの「考え方のクセ」にとらわれていることが多いように考えられており、心理学では人々に共通する考え方のクセを「バイアス」と呼んでいます。
その「バイアス」と呼ばれるものもいくつか種類があるようですが、その中の一つが「同調性バイアス」です。
これは、周囲の人たちの言動に自分の考えを合わせてしまう考え方のクセです。「家族も近所も災害に対して何もしていないみたいだし、まあ、取りあえず行ってみようか」と思って、考えることを止めてしまうのです。
特に、和を大切にする日本文化の中では、深く考えもしないで、他の人に合わせていることも多いのではないでしょうか。
ただ最近は、日本人にも個人主義と見られるような傾向があるとも言われていますが、コラムニストの荒川和久さんはご自身の著書、『結婚滅亡』の中で興味深い例えを紹介しています。
お昼ご飯に、全員に無償でお弁当が支給されたとします。弁当は全部で10個あり、それを10人で分け合います。しかし、10個のうち1個だけ、特上のウナギ弁当(5000円相当)があって、残り9個は普通の海苔弁当(500円相当)でした。さあ、あなたならどっちを選びますか?
もし、あなたに最初の選択権が与えられ、しかも、あなたが何を選んだか、他の人にはわからない条件下だと、50%がうなぎ弁当を選びました。しかし、ほかの全員が見ている前で選択しないといけない状況だとすると結果は、ほぼ100%が海苔弁当を選びます。
誰も見ていなければ、半数は最も自分にメリットのある選択をするのに、人の目があるとそうしない。理由は明快です。みんなが見ている前でうなぎを選んでしまうと、後でみんなからヒンシュクや妬みを買うというリスクがあるからです。立場を変えて、他の誰かがウナギ弁当を選択したとすれば自分がそう思うのでしょう。
日本人は、みんなと一緒かどうかが重要なのではなく、自分の行動が他人の目にどううつるかを気にするわけです。他人の目とは評価であり、自分の損得に直結します

日本は「恥」の文化と言われるように、誰かが見ているから、ということを気にします。自分の本意ではなくても、他人の評価を気にして、自分の損得を考える傾向があるようです。
「聖書の中に真理があります」とよく言われますし、私はその通りだと信じていますが、この日本ではクリスチャン、聖書を信じる人が圧倒的に少なく、影響力も弱いです。
そのような中で、聖書に書いてあることを信じ、そこに従おうとすると、日本では不利な状況になることが予想されます。そういった意味でも、「狭い門から入りなさい」と言われているのかもしれません。
羊の門
イエス・キリストは「門」についてこのように言われました。
はっきり言っておく。わたしは羊の門である。(新約聖書 ヨハネによる福音書 10章7節)

イエス・キリストが生きておられた当時は羊を飼う人が多かったようで、イエスがこのようにたとえを話した内容が、当時の人にはわかりやすかったようです。
羊を飼うための小屋には二種類あったようで、村が所有する共同の羊小屋には用心のために頑丈な扉がつけられていました。暖かい季節になって羊が放牧されていると、夜には村に帰る必要がなかったようで、羊は放牧先にある羊小屋に集められました。
しかし、この羊小屋は、周りを壁で囲んだだけの空間に過ぎない簡単なものでした。そこには出入り口がありましたが、扉がなかったようなので、夜には羊飼いがその入り口に寝そべったようです。
そうすると、彼の体を飛び越えない限り羊は外には出られません。ですから、文字どおりに羊飼いは門だったのです。羊飼いによる以外に羊小屋に近づく手立てはありません。
イエスがこのたとえを通して言いたかったのは、救いを得るためには自分以外に道はないということです。他の門ではなくて、この門こそ出入りする道だと。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(新約聖書 ヨハネによる福音書10章9節)
正しい情報の見分け方

現代は勉強や趣味など、あらゆる分野の情報に溢れています。どの情報が正確で役に立つのか分からないほどです。
それはまた、宗教の世界、キリスト教でも様々な情報が飛び交い、聖書についての解説も山のようにあります。
そのような中、聖書の正しい情報はどのように見つけたら良いのでしょうか。大勢の人が「これが正しい」と言っているものが正しいのでしょうか。
自分は納得がいかなくても、他の人の目を気にして物事を選んでおけば安全なのでしょうか。人の罪の問題を解決し、人を本当に救うのは、どの方法なのでしょうか。
はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。(同 10章1節)
私が高校生の頃に、生活ぶりが荒れに荒れて学校を退学になってしまった先輩が、学校の寮に遊びに来ました。遠方からはるばるやってきたその先輩ですが、後で聞いたところによると、交通費は数百円だったそうで、どうやら改札を飛び越えてきたようです。もちろんこれは違法行為ですが、イエスも同じようなことを言いました。イエスという門を通らないで来る者は、盗人であり強盗であると。
門を通らないで、門を飛び越えて来るような盗人、強盗にはどういった特徴があるでしょうか。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。(同 10章10節)
門を通らないで他のところから来るような者は、囲いの中にいる羊に対して、危害を加える以上に、命を奪うようなことをするという特徴があります。
すべて、イエス・キリストを通らないものは偽物で、人を幸せにするどころか、生活や人間関係を破綻させ、命をも脅かします。
最近はそういった宗教などが多いので、本当に何が正しいのかが分かりません。
しかし、そういったものを見分けるポイントは、イエス・キリストという門を通っているかどうか、という点です。
あなたがたはその実で彼らを見分ける。……すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(新約聖書 マタイによる福音書7章16ー17節)
また、本物か偽物かどうかを見分けることができる人の特徴についても、イエスは説明をしています。
羊はその(羊飼いの)声を聞き分ける。(新約聖書 ヨハネによる福音書 10章3節)
羊はその(羊飼いの)声を知っているので、ついて行く。(同 10章4節)
しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。(同 10章5節)
しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。(同 10章8節)
囲いの中にいる羊は、イエス・キリストという門を通ってその囲いの中にいます。だから、羊飼いであるイエス・キリストの声を知っているし、羊飼い以外の声を聞こうとはしません。
(ヨハネによる福音書10章2節には「門から入る者が羊飼いである」とあるので、この羊飼いもイエス・キリストという門を通って入っているようですが、10章11節には「わたしは良い羊飼いである」というイエスの言葉があるので、羊飼いはイエスであるとも理解されます)。
羊飼いであるイエスの言葉を聞き、イエスの言葉を知っている人は、盗人には騙されないし、ついて行くこともないし、むしろ盗人から逃げます。
盗人たちは、自分たちがどんなに神の権威によって語っていると主張するでしょう。
しかし、本物の羊飼いの声を知っている羊が見知らぬ人が呼んでもついていかないように、決して彼らのいうことに聞き従いません。偽物の目的は、ただ盗んだり殺したり滅ぼしたりするだけであることを知っているからです。
人々をキリストから離れさせる者はだれでも彼らを真の向上のみなもとから離れさせているのであって、人生の希望と目的と栄光とを彼らからだましとっているのである。彼は盗人であり、強盗である。
エレン・G・ホワイト『各時代の希望』中巻 文庫版 353頁
本物の特徴

ここで、本物の羊飼いの特徴を見てみましょう。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(新約聖書 ヨハネによる福音書 10章3節)
囲いを乗り越えてくるような盗人は、羊の名前など知るはずもありません。本物の羊飼いは、羊の名前をちゃんと呼んで連れ出してくれます。そして、この本物の羊飼いはイエス・キリストです。
イエス・キリストこそ、数多くある門の中で唯一、人の罪を赦し、人を救う門です。
世間一般では、大多数が支持しているから正しいとか、人の目を気にして物事を選ぶのが無難だと思われているので、イエス・キリストという唯一の門を見つけるのが難しく、「狭い門」と言われるのでしょう。
しかし、この「VOPオンライン」のサイトを通して聖書の学びをしておられるあなたは、その「狭い門」と言われるイエス・キリストの存在を発見することができます。
どうか、引き続き、このサイトを通して、聖書を通して、イエス・キリストを発見して、罪の赦しと救いを受け取ってください。