ざわざわするあなたに伝えたい7つのこと【心が愛で満たされるとき】#1

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ある歯医者で

我が家の息子エリックが19歳の時、親知らずの抜歯手術を口腔外科医にしてもらうよう、息子はかかりつけの歯科医から言われました。私が予約を取ってやり、その際に、抜歯のために準備すべきことで指示を受けました。そして手術をする前の日、準備すべきことを一つひとつ確認するために、その口腔外科医院から電話がかかってきたのです。食事、薬、水、すべてのことを指示どおりにしていましたし、手術がなされている間、私が医院にいること、また術後五時間、エリックに付き添うことにも同意しました。

手術前準備のため、口腔外科医院には早めに到着しました。受付でエリックは記入すべき用紙を渡され、私は支払いの打ち合わせをすることになりました。私の保険証を調べた受付の人が、法外と思える額を支払うように言ってきました。私は、保険証に何か問題があるのかもしれないと思って説明を求めたのですが、「まったく問題はありません。ただ当院では、手術前にほぼ全額を請求させていただきまして、保険会社から支払いがありましたら、ご返金申し上げることにしております」というのが、受付嬢の答えでした。

「そんなことは誰からも言われなかったので、用意していません。それに、私がこれまでにかかった他の歯科医院は、みんなこの保険を信用して、あとから請求してきましたよ」と私は反論しました。

「こちらは他の歯科医院さんとは違いまして、このような方法でお支払いいただいているんです」と受付嬢がそう答えました。

私は言い争いたくなかったので、小切手で支払いたかったのですが、クレジット・カードを引っ張り出して、その女の人に手渡しました。それから、待合室でエリックの脇に腰掛けて、この支払いのことでやきもきしていました。「支払い方法について一言なかったことを除けば、この医院が前もってしてくれた指示は完璧だったのに!」と私は思いました。

時計をチラッと見ると、二五分過ぎていますが、エリックはまだ呼ばれません。受付嬢に目をやると、私は一言も言っていないのに、「すみません。少し遅れています。じきにお呼びしますので」と、彼女は謝ってきました。

時計は回り続け、さらに二〇分経過しました。待っている間、エリックは雑誌を読んでいましたが、私の心の中では疑問と怒りが駆け巡っていたのです。「手術が時間どおりに始まらないなら、きっかり二時間前に薬を飲むことが、どうして大切なんだ。私が約束より一時間遅れでやって来たら、彼らは何て言うんだろうか。こんなに遅れるのは、患者を大事にしていない証拠じゃないか。文句を言ってやろうか!」と思い、私はかなり腹を立て、いらだってきました。心臓はドキドキし、口は堅く閉じられ、こぶしは握りしめられていたのです。

携帯電話が鳴った時には、どんなことを言ってやろうか、と心の準備を始めていました。職場の同僚の一人が、ごく日常的なことを相談するためにかけてきたのです。個人的なことをいくつか話し、その電話を切る頃には、私の気持ちがまったく変わっていました。「こんなことで騒ぎ立てて、一日を台なしにしてしまうのか……」と独り言を言い、それから天に向かって短くこう祈りました。「主よ、落ち着いた、折り目正しい、忍耐の心を私にお与えください」

その瞬間、「エリックさん、準備ができました。どうぞ中へお入りください」と、受付嬢に呼ばれました。手術が始まったのは予定より一時間以上もあとのことでしたが、私は四五分前よりずっと落ち着いていました。待合室はさっきよりもこぎれいに見え、雑誌も気の利いた内容のものを置いているように感じられます。受付嬢といえば、そのほほ笑みはわざとらしいと感じませんし、その声も甲高くてうるさいとも思いません。とても遅れたことを彼女が改めて謝った時、その言葉は本心からのもののようでした。不愉快な思いはいっさい消え去っていました。

歯科治療のイメージ画像

生活のスパイス

感情は生活のスパイスであって、感情がなければ生活はまったく退屈なものになるでしょう。感情があるので、私たちは多様な人々やさまざまな場所やいろいろな経験を楽しめ、自分の信仰や信念にも熱心になれるのです。しかしまた、感情によって私たちは間違いを起こしたり、人を傷つけたり、嫌な思いをしたり、罪を犯したりします。クリスチャン生活において情動的な経験は、善と悪の大争闘を生きる一つの道です。ですから、感情の良さと弱みを知り、適切な時に、正しい思いと態度をもって、否定的な感情を排除し、肯定的な感情を促進できるように祈ることは、すべての信者にとってこの上なく大切なのです。

愛、喜び、信頼、優しさ、共感、幸福、赦しなどは肯定的な感情であり、寂しさ、怒り、恐れ、失望、後悔、嫌悪、憎しみなどは否定的な感情です。カウンセリング・ルームでなされている治療の多くは、クライアントが自分の感情を知り、それを制御し、後ろ向きの感情を一掃し、心の痛みを避けるような方法で肯定的な感情を抱く手助けをするためのものです。

人々は宗教的慣習によって感情を和らげることができます。熱心な祈りは最も直接的な方法かもしれません。聖書、特に箴言、詩編、聖書全体に与えられている約束などを読むことで、平安、落ち着き、肯定的な感情の流れが与えられます。適切に感情を用いている聖書中の人物の物語、特にイエスを描いている物語を調べていくことで、私たちの感情にどう向き合っていったら良いかを学ぶことができます。

否定的な感情についての聖書の物語

聖書には、感情の衝動に駆られて悪い結果を招いた人たちや、苦しい生活に追い込まれた人たちの物語があります。聖書に登場する二人の人物、サムソンとアムノンの物語を考えてみましょう。

縄をちぎるサムソンのイメージ画像

士師記の13章から16章に載っているサムソンの伝記は、強い感情で満ちています。サムソンはペリシテ人の若い娘を見るとぞっこんまいってしまい、名前さえ知らないのに結婚する決意を固めてしまいます(士師記14の1、2)。

サムソンは、自分が出したなぞの答えを奥さんが漏らしたと知ると、差し出すべき賭け物を得るために30人を殺し、「怒りに燃えて」父の家に帰りました(士師記14の19)。

次にサムソンは、奥さんが別の男に嫁いだということを知ると、ペリシテ人の畑の収穫物をすべて燃やし尽くしてしまいます。その結果、奥さんと彼女の父親が殺されるとともに、多くのペリシテ人がサムソンによって殺されました(士師記15の1~7)。

ユダの人々がサムソンをペリシテ人に渡そうとした時、ペリシテ人をさらに千人殺しました(士師記15の9~16)。

サムソンがデリラを好きになると、彼女は、神が明かしてはならないと禁じておられた力の秘密を知ろうとして、サムソンの情感を巧みに操りました(士師記16の15~17)。力を奪われたサムソンは敵に捕らえられ、両目と尊厳とを失います。主もサムソンからお去りになり、彼は絶望のどん底に落ち込んだことでしょう(士師記16の21)。

ペリシテ人が祝う異教の神殿に見せ物として連れてこられたサムソンは、自らの死をもって、それまでの人生で殺した数以上のペリシテ人を殺しました(士師記16の30)。

主の霊がペリシテ人に対する神の御心を成就するために、サムソンの行動の奇抜さを用いられたのは確かです。しかしサムソンの態度は、憎しみ、復讐、性的衝動、横柄さを力で示すだけのものでした。もし彼が霊的に忠実であったなら、神は敵を一掃するために別の方法を、誕生以来神のために聖別されていた人を無駄死にさせない方法を見つけられたことでしょう。ホワイト夫人はサムソンの物語の教訓として、「人間の真の偉大さは、その人が支配する感情によるのであって、彼を支配する感情によるのではない」[1]と解説しています。

感情を誤って扱ったもう一つの物語は、アムノンとタマルの物語です(サムエル記下13章参照)。そこには、異母妹タマルに恋い焦がれ、欲求不満に陥ったダビデの息子アムノンが登場します。アムノンの満たされない思いは強く、身体を患うほどでした。

アムノンは友人のヨナダブが提案する計画を受け入れ、激情に駆られてタマルを襲い、犯してしまいます。しかし、事を成し遂げたアムノンは、彼女に熱をあげていた以上に彼女を激しく憎むようになるのです。事態の解決を願うタマルの訴えにも耳を貸さず、従者を呼び、宮殿から彼女を力づくで追い出してから戸に錠をおろします。

アムノンはタマルに対して憎しみを覚えただけでなく、自分のしたことを後悔し、自分の身に起こるかもしれぬことのゆえに恐れを抱いたかもしれません。もちろん彼の行為は、この物語でのまったく罪のない犠牲者タマルに大きな情動的な痛みをもたらすとともに、ほかの家族を悲嘆と憎悪の念で満たしました。二年後、アブサロムは復讐計画を立て、アムノンを殺させました。このあさましい事件全体を通じて苦しんでいたダビデですが、アムノンを裁きにかけることはしませんでした。そして今や、長男を他の息子たちの手で失う悲しみに耐えなければならなくなったのです。

アブサロムによって殺されるアムノンのイメージ画像

聖書の肯定的な感情

聖書には、感情や情感の高揚を経験した人たちの例もたくさん含まれています。イエスの弟子たちが、エマオへの途上で示されたことについて話し合っていると、主が現れて彼らに挨拶なさいました。最初、弟子たちはこわがりましたが、すぐにイエスがおられることで喜びと驚きを経験したのです。

最初のクリスチャンたちの生活もまた、多くの困難にもかかわらず、肯定的な感情であふれていました。使徒言行録2章46、47節は、このように伝えています。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」

アドベンチストの使命を最近受け入れた50代のあるご婦人が、スペインのある小さな教会に加わりました。ある日、祈りの組に参加していた時、彼女は自分の回心の経験を語ったのです。話半ばで、彼女は感動のあまり泣き出し、話せない状態になりました。その時、グループの中の一人が彼女にこう言いました。「心配しないでね。しばらく教会にいれば、こういう感情は消えてしまうから」

いいえ、必ずしもそうではありません!回心している人たちも、イエスにときめきを感じつつ成長していくことができます。主は私たちに、最高のレベルの肯定的な感情を経験してほしいと望んでおられます。憎しみ、不一致、嫉妬、怒り、自分勝手、軋轢、羨望などがもたらす不愉快な結果を抱えながら生きてほしくないと、主は思っておられます。主は私たちに、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制をくださるのです(ガラテヤ5の19~23参照)。

感情は、すごく良いものにもなれば、ひどく悪いものにもなります。感情は精神的健康や身体的健康と密接に関わっています。心身症というのは、情動過程に起源を持つ検証可能な器質性の疾患ですが、さまざまな種類があります。心身症は、事実上すべての組織に影響を及ぼすのですが、特に消化器系、循環器系、呼吸器系、神経系統に最も多く影響が現れます。憐れみ、親切、謙遜、寛容、忍耐といった肯定的な感情の状態は、幸福感、前向きな見通し、神と隣人との最も望ましい関係をもたらしてくれます。

様々な肯定的な感情を表現している女性の画像

イエスの情感

福音書は私たちに、イエスがご生涯の中で情感をあらわにされた時を垣間見せてくれます。これらの箇所を読む時、私たちはイエスと心を一つにし、萎えた気持ちに耐え、肯定的な感情を最大限に引き出すことを学べるのです。

イエスのご生涯の物語において私たちが最も多く見いだす情感は、たぶん憐れみでしょう。例えば、一人のハンセン病の人がイエスに近寄り、ひざまずき、清めてください、と請い求める場面があります。その箇所には、イエスが「深くあわれんで」、手を差し伸べてその人にお触れになった(マルコ1の41)と書かれています。そして、「よろしい。清くなれ」というお言葉を主が口にされるや否や、病気はきれいに癒されたのでした。

イエスのお言葉を聞きに来た四千人以上の人たちが、ほとんど食べずに三日間を過ごした時にも、主は憐れみの心を動かされました(マルコ8章)。イエスは皆の必要に気づいておられ、空腹のまま遠くの家まで帰らせるなら途中で倒れてしまうだろう、と思われたのです。そこで、奇跡を用いて彼らに食物を分け与えられました。

また、イエスは愛も示されましたが、愛は最高に肯定的な感情であり、福音の中心的なテーマです。イエスはあらゆる機会を通じて、人々に神の愛をお示しになりました。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15の17)と、弟子たちが目指すべき指標として、御自分の愛を設定さえなさったのです。主は、マルタ、妹のマリヤ、ラザロを愛され、お疲れになった時には、ベタニアの彼らの家で慰めを見いだされました。しかしイエスの愛は、従ってくる者たちだけに限定されていたのではありません。イエスと富める青年との出会いから教えられるように、イエスはご自分の子どもたちが従わない時でさえ、愛しておられます。この青年がイエスのもとを去っていく時にも、イエスは「彼を見つめ、慈し」(マルコ10の21)まれたのです。要求に応じてくれない人々を軽視し、憎む人たちにとって、なんと素晴らしい教訓でしょう。

イエスは身体に触れることで、人々への愛情をお示しになることがよくありました。イエスは幼な子を抱きかかえ、(ハンセン病を含めて)病める人たちを癒すために、彼らの身体に触れられました。イエスの弟子たちは、イエスがハンセン病の人におさわりにならないようにした、とホワイト夫人は書いていますが、それは「らい病人にさわるとその人もけがれた者となるから」[2]でした。しかし、健康の源であられるイエスが汚れることはありません。イエスはハンセン病の人にさわるという行為によって、最悪の疾患を持つ人でさえ、病人は愛と愛情を受けるに値するというメッセージをお伝えになったのです。

肯定的な感情を喜び楽しむとともに、主なるイエスは否定的な感情の痛みに耐える経験もなさいました。預言者イザヤは、イエスが経験された身体的、情動的苦しみを明らかにするために強い言葉を用いています。イエスは、「われわれのとがのために傷つけられ」、「われわれの不義のために砕かれ」、「侮られ」、尊ばれず、「たたかれ」、「苦しめられ」、「病を知っていた」「悲しみの人」でした(口語訳、イザヤ53章参照)。

人々は自分自身の喪失のために泣きますが、イエスは他者の喪失のために涙を流されました。イエスは苦しむ者に心からの同情と共感を覚えられます。福音書は、イエスが彼の訴えを拒絶した人々のために嘆き悲しまれた、と記しているのです。ルカによる福音書を読むと、イエスがエルサレムの町のために実際にお泣きになった(ルカ19の41)とあります。イエスは、エルサレムがやがて滅びることを十分承知しておられ、住民の苦しみのゆえに泣かれたのです。これは、イエスがお泣きになったと聖書が記録している二箇所のうちの一つにあたります。イエスの伝道におけるこの点を瞑想することで、私たちの感じる痛みはより少なくなるでしょう。

イエスが泣かれたと聖書が明記している二番目の事例は、ラザロの死と復活の物語の中に見られます。この物語からイエスの情感の深さについてさらに知ることができます。ヨハネによる福音書11章33節には、イエスは「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(新改訳・欽定訳)た、あるいは別訳で、「激しく感動し、また心を騒がせ」(口語訳・新国際訳)たとあります。38節にも再び出てくるギリシア語「エンブリマオマイ」は、「憤りを覚える」(欽定訳)、または「激しく感動する」(新国際訳)と訳されます。イエスが罪の結果をお感じになった時の情感を表現している、聖書資料の最も生き生きとした描写の一つです。イエスの呻き声は、おそらく耳に聞こえるようなものだったのでしょう。この言葉は確かに、イエスが感じておられた深い心理的動揺を表していました。

救い主が経験された情感をいくつか挙げてみます。

悲嘆(マルコ3の5)

ある時、イエスは手の萎えた人をお癒しになり、安息日であっても罪の支配から解放されうることをお示しになりました。ファリサイ派の人々は怒り、イエスを悲しませた、と聖書は伝えています。彼らが、痛みを取り去るためにできることを安息日にするよりも、耐えがたい痛みの中にその人を放置したほうが良いと考えたがために、イエスはこのような情感をお持ちになったのでした。

嘆息(マルコ8の12)

ファリサイ人はすでに多くのしるしを見ていたにもかかわらず、天からのしるしを見せてほしい、とイエスのもとにやって来ました。このような状況は名状しがたい一連の感情を引き起こしました。欽定訳聖書ではイエスの反応を、「主は御自分の霊において深く嘆息された」と訳しています。イエスが何を感じられたかは計り知れませんが、それは、怒り、嘆息、不憫さ、悲しみなどの入り混じった感情であったかもしれません。

義憤(マルコ11の15~17)

イエスは世の罪のために犠牲になるというはっきりした目的をもって地上に来られたのであり、神殿での動物の犠牲には、贖罪主としてのイエスを指し示す意味がありました。しかし、礼拝者たちも神殿で奉仕する者たちも、この大切な点がわからなくなっていたのです。過越祭は何千もの動物の犠牲を必要とするので、多くの人にとって、救世主とは無関係の大きな商売になっていました。ですから、宮清めにおけるイエスの力ずくの行為を理解しない人たちもいましたが、その不法行為の深刻さは、明快で強力な介入を必要としていたのです。

苦悶(マタイ26の37、38)

ゲッセマネにおいて人の子イエスは、他のいかなる人間が経験した以上の不安を経験なさいました。この強烈な精神的苦しみの証拠には、次のようなものがあります。(a)過去、現在、未来の人類のあらゆる罪をこれから我が身に引き受けるのだと、イエスが感じておられること、(b)イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの支えを必要としておられること、(c)イエスが、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言って、御自身の苦悩を弟子たちにお語りになったという事実、(d)「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、イエスが父なる神に願われたこと──言い換えれば、神の御計画が変えられ、これから経験することが免除されるように、と願われたこと。

イエスが味わわれた激しい情感的な経験を理解する時、私たちを襲う精神的な、また情感的な苦しみにより良く耐えることができます。また、イエスの過去の感情だけでなく、現在の感情をも、私たちは理解し始めるかもしれません。私たちがイエスの子どもらしくふるまっているので、イエスはほほ笑んでおられるでしょうか。あるいは、私たちが十分にイエスを受け入れていないので、イエスは悲しんだり、はたまた、エルサレムを思って泣かれたように、私たちのことで泣いたりしておられるのでしょうか。

「Love you, I Love you」という文字が書かれた画像

ざわざわするあなたに伝えたい7つのこと(後ろ向きの感情に関する約束)

心の知能という概念が、1995年、ダニエル・ゴールマンの著書『心の知能(EmotionalIntelligence)』が出版されたことで、脚光を浴びました。ゴールマンは知能指数(IntelligenceQuotient)に対する伝統的な理解に反駁し、これに置き換わる、能力に関するもっとグローバルな概念、すなわち、心理学の分野で今や広く受け入れられている概念を提示しました。心の知能というのは、単に標準化された項目に答えたり、時間的制限の中で高度に複雑な問題をたくさん解いたりする能力のことではありません。これは、私たちが目標を達成し、人間関係を構築できるように、感情をコントロールする能力なのです。心の知能の最も望ましい特性の一つは、否定的な感情を肯定的な感情に変えていく能力であり、もう一つの有用な特性が、遅かれ早かれ、すべての人が直面せざるをえない痛ましい感情的経験を克服する能力です。

痛ましい感情が癒される必要のある時、キリスト教は多くのものを私たちに提供してくれます。最上の助けの一つは、キリストが十字架と死に直面しておられた時に弟子たちにお与えになった指示に従うことです。その場面が記されているヨハネによる福音書16章20節から24節の物語は、希望に満ちています。私たちが悩む時、イエスが語られた言葉を読み、以下のことに気づくことで、多くの慰め、力、希望を得ることができます。

1. 人生は必ずしも公平ではないが、喜びはじきにやって来る。

救い主を拒絶する多くの人々が幸福そうで、人生を楽しんでいるように見えるのに、イエスに従う多くの人たちは涙を流し、悲しみに沈んでいます。いつも健康のメッセージに従おうとしてきた人が癌に襲われることも、事故で若い生命が消え去り、両親や兄弟姉妹が悲しみのどん底に突き落とされることも、公平ではありません。しかしイエスは、悲しみは喜びに変わる、と約束しておられます。

2. 悲しみが喜びに変わるのに長くはかからない。

主は、私たちが耐えられないような苦しみにあわないようにしてくださいます。そう約束しておられるのです。かわいい新生児を見て母親が産みの苦しみを忘れるように、感情的に打ちひしがれている人々は、すぐに苦しみを忘れられるでしょう。

3. いやな過去の思い出はすっかり忘れることができる。

私たちを悩ませる感情的動揺の多くは、過去の出来事に由来します。そういうわけで伝統的に心理療法家は、今なお不幸の原因となっている過去の経験にクライアントが対処できるよう、治療に取り組んでいます。しかしキリストは、あたかも何もなかったかのように、過去のいやな思い出を一掃する、と約束しておられるのです。

4. 私たちは皆、ある程度の悲しみを経験する。

イエスは、「今はあなたがたも、悲しんでいる」(ヨハネ16の22)と指摘なさいました。罪はすべての人に触れ、苦しみと死はあらゆる人生に必ずやって来ます。私たちが経験する艱難の理由を知ることは、ほとんど不可能です。しかし、イエスが、「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(同)と付け加えられたことを知るだけで、十分でしょう。

5. イエスのお与えになる喜びは永遠に続く。

イエスは御再臨の時に、誰も取り去ることのできない、永遠に続く喜びを、ご自分の子どもたちにお与えになります。私たちが理解している喜びは一過性のものなので、それは理解し難い喜びです。しかし私たちは、イエスの言われたことを信仰によって受け入れることができます。

6. 何か他の物をイエスに求める必要がなくなる。

イエスはこう断言しておられます。弟子たちはさまざまな祝福を求めているが、主を愛する者たちが何も欲しがらなくなる時がやって来るだろう、と。なぜなら、彼らの必要がことごとく満たされるからです。

7. 当面の間、私たちはイエスの名によって祈らなければならない。

主は従う者たちに、約束の他は何も残されませんでした。今日、主はご自分の子どもたちが精神的に苦しみ、感情的に傷つけられる時、支えの御手を伸ばしてくださいます。「願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16の24)。

怒り、憎しみ、妬み、不安に苦しめられ、イライラしたり、罪意識を感じたり、劣等感にさいなまされたり、ストレスを感じたりする時は、イエスの招きを受け入れてください。イエスの御名によって求めるなら、再臨の時ではなく、今この時に、父なる神の助けを与えよう、とイエスは約束しておられます。

参考文献

[1] エレン・G・ホワイト『人類のあけぼの』下巻208頁、『明日への希望』296頁。

[2] エレン・G・ホワイト『各時代の希望』上巻335頁。

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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