恐れと不安で眠れない夜に【心が愛で満たされるとき】#2

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目次

想像上の熊

我が家の子どもは20歳と17歳になりますが、二人とも海外で生まれ、人生のほとんどの時期を米国以外の地で過ごしてきました。私たち夫婦は、子どもたちが祖国の様子をざっと見ておく必要があると考え、西部のワシントン州から東部のワシントンDCまで自動車旅行をして、祖父母を訪問したり、途中いくつか探検をしたりすることにしました。

グランド・ティートン国立公園に向かっていた時のことです。その晩はそこでキャンプをする予定でしたが、日暮れ前に到着できそうにないことがわかりました。そこで代わりに、基本的施設しかないものの農務省森林局のキャンプ場を見つけ、そこに宿泊することにしました。他にキャンプしている人はいませんでしたが、その敷地にはおびただしい数の案内が表示してあって、熊を寄せつけないように残飯を残すな、という警告がなされていました。

夕食を終えると、すぐ眠る支度をしました。でも、熊が周囲にいるのではないかという思いが、心の中でふくらんできたのです。その結果、風やさまざまな音もうるさくて、長い、眠れぬ夜になりました。想像上の熊がたくさんうろついていたお陰で、誰一人ぐっすり眠れませんでした。想像上のものとはいえ、私たちの一晩を台なしにするほど現実味があったということです。

眠れない男性のイメージ画像

恐れと不安

恐れは、危険を前にして動揺を生じさせる極めて強い感情です。不安も似たような影響を与えますが、将来の不確かさに基づいているという点でかなり違います。言うなれば、不安は、人が実際に経験している燃え盛る火や地鳴りを上げる地震に対する恐れではなく、将来起こるかもしれない事柄への恐れなのです。

聖書は恐れと不安に多くの箇所で触れています。聖書中の人物の感情の状態を説明している箇所もあれば、このような感情の思わしくない結果に直面する男女に「恐れることはない」と励ましを与えている箇所もあります。

新国際訳聖書では、「恐れ、恐れる(fear)」、「こわい、恐ろしい(afraid)」、「こわがった、おびえた(frightened)」、「おびえる、大いに恐れる(terrified)」といった言葉が五九一回使用されています(これらの文には、単なる恐れとはまったく違う、「主を畏れる」という表現も含まれます)。「恐れてはならない」という言葉は、神が人々に理解してほしいと願っておられる最も重要なメッセージの一つを伝えています。神は、人を弱らせるそのような感情から御自分の子どもたちを自由にしたいと望んでおられるのです。神は私たちを愛しておられるので、私たちすべての者が神のもとへ行き、心配事を神に差し出し、平安を得るよう、招いておられます。ペトロは私たちに、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5の7)と語っています。

人間存在の一部

人間は生まれ落ちるとすぐに恐れと不安を経験します。ブダペストにあるセメルワイス医科大学とヒューストンにあるテキサス大学医学部[1]の研究者グループは、人間の赤ん坊の表情を研究しました。彼らは、生後3週間半の女児や4週間半の男児が、こわい刺激を与えられると恐れの表情を示すことを見いだしています。そしてほんの数か月後には、不安の最初の形である分離不安が現れます。それは、生後6か月から20か月の幼児に現れる発達上ふさわしい苦痛の反応です。この年齢において幼児は、自分の主たる養育者・親を見分け、周囲の環境や人間を認識し、新しい場所に連れて行かれたり、見知らぬ人に紹介されたり、あるいは自分の主たる養育者から離されると泣き出します。ここに、その後の年月に起こりうる恐れと不安の例を列挙しておきましょう。

神様から隠れているアダムとエバのイメージ画像

よちよち歩きの子どもは、動物、暗闇、見慣れない人を恐れます。

就学前の子どもは、大きな騒音、一人で寝ること、嵐、親を失うこと、彼らを傷つけるかもしれない人など、多くの物や事を恐れます。またこの時期の子どもたちは、悪夢に付き物の幽霊、怪物、魔女などをこわがる傾向もあります。

学童は学校に関連した物事、例えば、テスト、難しい宿題、成績、校内活動、自分より力が強い友だちや勉強のできる友だちなどによって、不安や脅迫観を経験します。低学年の学童によく見られることですが、彼らは死の意味をはっきり理解していないにもかかわらず、死ぬことを恐れます。

思春期の若者も彼らに恐怖心をもたらす状況、例えば、友だちから拒絶されること、スポーツが上手にできないこと、身体的成熟が遅いこと(特に友だちが早熟の場合)、落第などと向き合います。

若い成人たちは、似つかわしい人生の伴侶を探せなかったり、就職の機会を失ったり、解雇されたりすることを恐れます。

成人は生活の多くの面において安定していますが、依然として恐れ、悩むことがあります。健康について、また重い病気で倒れたらどうなるだろうか、と心配します。よく目にする心配事は、家計(請求書をすべて払えなかったら、どうなるだろうか)、家庭生活(伴侶を失ったり、子どもが事故にあったりしたら、どうなるだろうか)、仕事(上司は私の言い分を聞いてくれるだろうか。次に解雇されるのは自分だろうか)に関するものです。

高齢者にも恐れはあります。収入が減ること、障害を引き起こす病気になること、伴侶を失うこと、転倒し骨折すること、暴行を受けること、死に向かい合うことなどを恐れるかもしれません。

事実上すべての人は、どこにいても、人生のどの段階にあっても、さまざまな恐れを経験しています。頭から離れない過去に根ざした恐れもあれば、今現在のことに関する恐れ、将来に関する恐れもあるでしょう。現実の恐れもあれば、想像上の恐れもあります。ある恐れはしごく重要であり、ある恐れは取るに足らないものです。罪の歴史が始まって以来、恐れはいつも存在しています。

恐れの起源

神様から隠れているアダムとエバの画像

神の御手によって創られた男女は、申し分ない存在でした。身体的欠陥もなく、精神的にもまったくバランスが取れていました。不従順になる前、人間は全能の父なる神にとても大切にされていたので、恐れとか不安を経験しませんでしたし、経験することもできませんでした。しかも、彼らは他のどんな被造物にもこの有害な感情を見いだし得なかったので、そういう恐れや不安の経験が起こりうることも知らなかったのです。一つには、恐れもなく、不安もなかったがゆえに、彼らはこの上なく幸せだったのです。彼らが知っていたことといえば、神が自分たちを見守ってくださっており、自分たちが先々においても大切にされるであろう、ということでした。

しかし、エバが禁断の木の実を食べ、それをアダムにも与えた時、事態は根本から変化しました。創世記3章の物語は、違反の直後に生じた二つの結果を伝えています。第一に、彼らの目が開かれ(7節)、彼らは初めて、善と同様、悪についても、大体のことを認識したのです。彼らの無垢、善悪の知識についての無知は、消え去りました。今や彼らは罪を知り、その結果を感じました。罪を犯す前と罪を犯した後を知ったのです。それはなんと大きな違いでしょうか。

ホワイト夫人は彼らの経験をこのように書いておられます。「これまでなごやかで一様だった気温が、罪を犯したふたりにはだ寒く感じられた。これまで彼らの心に宿っていた愛と平和はなくなり、その代わりに罪の意識と未来への恐怖と魂の空虚さとを感じた」[2]。  違反直後の結果が、稲妻や雷のとどろきなど、外見的に目に見えるものでないことに注目してください。罪の結果は、心の中の苦悩、罪の意識、恥の意識でした。

第二に、彼らは神の歩かれる足音を聞いた時、木の陰に隠れました(8節)。隠れるというのは、具体的な結果、際立った行為でした。私たちは彼らの行為の動機を知っています。神が「どこにいるのか」と呼ばれた時、アダムが「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(10節)と答えているからです。このように、見つけられることによって生じる結果への恐れ、次に起こることへの不確かさが、まぎれもない、罪の直接的な結果でした。

今やアダムとエバの目は開かれました。二人は善と悪の緊張関係に気づきました。こうして彼らは、以前、経験したことのなかった、心配、恐怖、恐れ、不安といった感情に支配されるようになりました。多くの人たちは、「情報は力である」「知識が門戸を開く」と断言しています。しかしそれは、アダムとエバが罪を犯して得た知識にはあてはまりません。「善悪の知識」を身につけなければ、人類ははるかに幸福であったことでしょう。

時として神は、人間を憐れみ、あまりにも多くの痛みをもたらすがゆえに情報を人間から隠してくださるかもしれません。そういうわけで、神は私たちに多くのものを開示してこられた一方、ある事柄は秘密のままにしておられます。「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」(申命記29の28)。

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動物は、最も聡明なものであっても、過度の恐れと不安から守られています。恐れを与える刺激を受ける時にのみ、動物はそういった気持ちを抱くのです。スペインで家内と私がアドベンチストの学校での職に就いてまもなく、野良犬を引き取りました。その犬は教員の一人を追って、駅から学校の近くの彼女の家までずっとついてきたのです。彼女に説得されて、私たちはその犬をペットとして我が家で飼うことになりました。彼は長年にわたって、私たち家族の忠実な友だちでした。

ベニーと名付けたその犬は聡明で元気な犬でしたが、一つのおかしな癖を持っていました。我が家の誰かが車のエンジンをかけると、目に見えて悲しい顔つきをするのです。そして、ひっきりなしにほえて、車に乗り込もうとします。車に乗せてもらえない場合には、車が走り去るまで、そのあとを追いかけたものです。初めてこのことが起きた時、速度を上げれば、追いかけるのをやめて家に戻ると私は思い、運転し続けました。ところがベニーは、追いつくことに命を賭けているかのように全速力で走り続けたのです。ですから、私は車を止めて乗せてやらなければなりませんでした。妻と私は、きっと誰かがベニーを捨ててから車で走り去ったに違いないという結論に達しました。その時以来、誰かが車で出かける時は、ベニーを家の中において家の鍵をかけることにしました。それでも、車の音が聞こえなくなるまでベニーは吠え続けたものです。しかしその刺激がやむと、我に返り、また幼い娘と遊び始めるのでした。

ベニーの、捨てられることへの束の間の恐れは、私たち人間がそのような恐れを感じる時の仕方とは著しい対照をなしています。私たち人間は、これから起こる恐ろしい出来事を心配し、その出来事を恐れつつ耐え忍び、その出来事が過ぎたあとも長い間、再びその出来事が起きるのを恐れ、不安に思いながら生きていくのです。

聖書の例

心配、恐れ、不安を経験した人々に関する話が、聖書にはたくさん載っています。その中の三つの話を見てみましょう。

アブラハム

この聖書中の人物は模範的な人生を送りました。彼は喜んで神の召しを受け、ハランを出て、カナンへ向かいました。彼は神への変わらない従順と信頼の人生を生きると同様、他の人たちにも大いなる信仰と寛容を示しました。しかし、目まぐるしく活動したあとで(創世記12~14章参照)、アブラハムは今後どうなるのか心配になったのです。

「もし息子が与えられなければ、所詮、しもべに過ぎず、家族の一員でもないエリエゼルが、私の遺産相続人になるだろう」という結論に至った時、まだ与えられていなかった約束の子について、「もしそうなったら何としよう」式に考えていたに違いありません。

しかし、「主の言葉が幻の中でアブラムに望んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」(創世記15の1)という約束が与えられていました。それから神はアブラムに、「あなたから生まれる者」(15の4)、彼の実子が跡を継ぐ、とじかに言われました。加えて、神は将来を幻で見せ、彼の子孫が住み着く土地を明示し、契約を結ばれたのです。

アブラハムの疑いと恐れは、小さくなったに違いありません。しかし彼の安堵は、長く続きませんでした。イサクが生まれるまでに、アブラハムとサラによる約束の子をもうけようとする画策など、多くのことが起きたからです。これらはすべて、アブラハムの疑い、恐れ、不安の結果であると言ってよいでしょう。しかし結局、サラは「身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」(創世記21の2)のです。

ダビデ

このエッサイの子は、最も多く恐れの感情を抱いた聖書中の人物かもしれません。彼の一生の大半において、敵が彼を殺そうとしていたことを思い出すなら、このことが理解できます。ダビデが若者であった時、前任者であるサウル王は容赦なく彼を追跡しました。そして熟年の頃には、息子のアブサロムがダビデの打倒と殺害を図りました。また、ダビデの成年期を通して、ペリシテ人は彼と闘い続けました。

このような文脈において、主が恐れから解き放ってくださったことをダビデが歌う詩編二七編のような宝石を私たちは見いだすのです。「主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦わたしは誰の前におののくことがあろう。……彼らがわたしに対して陣を敷いてもわたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来てもわたしには確信がある」(詩編27の1、3)。

恐れに対処するダビデの主要な方法は、神に信頼することでした。次のような詩編の中に、それを見ることができます。

・「わたしの口に新しい歌をわたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見主を畏れ敬い、主に依り頼む」(詩編40の4)。
・「彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している」(詩編112の7)。
・「恐れをいだくときわたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう」(詩編56の4、5)。

これまでに多くの人々が、ダビデの言葉に示唆されている素晴らしい約束の実現を求めてきました。覚えておいた詩編のいくつかを危機の時に口ずさむことで、恐れを抱いた人々は天来の慰めを得てきたのです。ジェームズ・バッシュフォード主教は、中国への旅行の途上、ある晩遅く到着した宿屋に泊まる部屋がないため、野宿せざるを得なかったといわれています。夜盗が夜中に徘徊しているぞと警告を受けた彼は、祈ったあとでも眠りにつくのは困難だとわかりました。でも彼の心には、「恐れをいだくときわたしはあなたに依り頼みます」という言葉がひっきりなしに湧き上がってくるのです。最終的に彼は、「あなたと私が、二人で警戒していても仕方ありませんね」と主に祈ってから、すぐにまどろみ、一晩ぐっすり眠ったのでした。

初代教会のクリスチャンたち

キリスト教へ改宗した第一世代の人たちは、お互いに持ち物を分かち合いました。分かち合ったものは、食料、道具、家庭用品、物品、金銭に限らず、不動産も含まれていました。使徒言行録四章によると、土地や家屋を所有していた者は売りに出し、その売上金を使徒のところに持ってきました。そして使徒たちが、必要としている人々に順番に分配したのです。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒言行録4の34)と言われているように、この制度はうまく機能していました。

聖書は何人かの寄贈者の名前を挙げているのですが、まずは心からの寛大さの模範となった人の名前、さらには、神が貪欲と虚偽をお受け入れにならないことを示す例となった人の名前が挙げられています。キプロス島生まれのレビ族のヨハネは、土地を売り、使徒の足下にその代金を置きました。アナニアとサフィラの夫婦は、所有している土地を売却してその代金を使徒のところに持ってくると誓っていたのですが、密かに代金の一部を自分たちのために取っておくことにしました。寄付金について尋ねられた時、彼らは偽って、すべての代金を寄付したと言い、その言葉が口から出るや否や、息絶えたのです(使徒言行録5章参照)。

この共同体制度は強制に基づくものではないことに注目すべきです。ペトロによれば、アナニアとサフィラは土地を売らずにおくことも、売った代金の一部または全部を自分のものにすることもできました。しかし彼らは、すべての代金を一般基金に寄付すると約束してあったのです。それゆえ、すべて寄付したと言い張った時、彼らは人々と神に対して嘘をつくことになったのでした。

アナニアとサフィラが亡くなった結果、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」(5の11)と聖書は告げています。この恐れの性格を知るのは困難です。神に対する畏怖の念が増大したかもしれませんし、教会員が自分たちに起きるかもしれないことを思って恐れた、ということかもしれません。アナニアとサフィラのように、土地を売却して代金の一部を自分たちのために隠し持ち、残りを使徒のところに持ってきて尊敬を得ようとした人もいたかもしれません。アナニアとサフィラに起きたことで、確かに彼らの考えが変わっていきました。

時には、恐れは肯定的な結果をもたらします。賢明な量の恐れは命を救うこともありますし、悪を行うことへの恐れは有益なものになります。アナニアとサフィラに起きたことは、初代教会の信徒が正しい生き方をするために必要であったに違いありません。

神がお与えになる確証

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不安障害にはさまざまな種類の恐怖症──パニック発作、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害、全般性不安障害など──が含まれます。これらはいずれも、恐れ、心配、情動不安と関係していますが、その原因は明らかな場合もあれば、明らかでない場合もあります。パニック発作のようなものは、短時間ではあるものの非常に激しく、以下のようなつらい生理的症状を伴います。──動悸、発汗、震え、息苦しさ、窒息感、胸の痛み、むかつき、めまい、現実感の喪失、自制できなくなることへの恐怖、死ぬことへの恐怖、しびれ感、悪寒、のぼせなど。また、全般性不安障害のようなものの場合は、何か月もの間、落ち着きのなさ、疲労感、イライラ感、緊張感、睡眠障害などが続きます。

こういった問題は珍しいものではありません。総人口の9パーセントから11.3パーセントの人々が恐怖症を経験しています[3]。全般性不安障害に一年間かかる人は3パーセント、一生治らない人は5パーセントもいます[4]。これらは臨床データに過ぎません。その他に、診断を受けていない多くの人々が、あまり頻繁でなく、それほどひどくない症状に苦しんでいるのです。しかしこういう人たちも、自分自身の失業や愛する人の失業、家庭危機、あるいは重い病気のために大きな痛みを経験しています。

神は人間がこのように苦しむのを望んでおられません。神が私たちに望んでおられるのは、神の約束にしがみつき、恐れや不安に直面しながらも神に信頼することです。身体的疾患に治療が必要であるように、時には、専門家による心理学的、医学的治療が必要かもしれません。しかし病的であろうとなかろうと、あらゆる場合において、このような有害な症状の予防と治癒のためには、熱心で誠実な祈りをささげ、主と交わり、正しいことを考え行うと決意することが必要になってきます。

イエスは何度か、思い煩いを捨て、父なる神に信頼する必要を弟子たちに思い起こさせねばなりませんでした。例えば、このように語っておられます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(ヨハネ14の1、2)。

イエスがこれらの言葉をお語りになったのは、御自身を裏切る者を予告し、地上における残りの日々と天国へお戻りになることを説明されたあとであることに注目してください。これらの意味についてはっきり理解していなかったにしろ、使徒たちは戸惑いを感じたに違いありません。そういうわけでイエスは、「心を騒がせるな」とおっしゃったのです。父なる神とイエス御自身を信頼することで心の恐れを取り除くよう、イエスは使徒たちを招いておられました。そのあとでイエスは、彼らの注意を天国へ、父なる神の御臨在へ、痛みも悲しみも心配もない将来の時へ向けられました。なんと素晴らしい癒しの業ではないでしょうか。イエスは目前に迫った天への出発というつらい事実をお語りになったものの、すぐに弟子たちの思いをイエスと永遠に過ごす究極の経験へと振り向けておられます。

終わりに臨んで、イエスのもう一つの訓戒を思い出します。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6の34)。人々がこの助言に従っているなら、どんなに精神的また身体的な不快を感じることが少なくなることでしょう。

私と私の家族は八年以上にわたり、フィリピンで宣教師として奉仕する特権を与えられました。私たちの個人的な成長とともに異文化についての知識と理解の多くは、そこでの驚くべき体験によるものです。

フィリピン人は「明日は今日より良くなる」という信念を持っている事実を、私たちはしょっちゅう目撃しました。雨期の台風や激しい雷雨は当たり前のことで、毎年9月、10月は特に激しさを増し、さまざまな被害を引き起こし、時には人命を奪うこともあります。しかし風雨が止むと、家を失った人々がにっこり笑いながら、「明日は今日より良くなる」と言っているのを目撃したのです。文化の一部であるこのような態度は、不安に対する素晴らしい安全装置です。フィリピン人はこの態度を小さなことにも大きなことにも適用します。こういう態度で過ごす時に、今日の苦痛を耐え、現実となって現れないかもしれない明日の苦痛について心配するのを避けることができます。

もしあなたの基本的必要が満たされ、あなたが苦痛を経験することもなく安全に過ごしているなら、現在の祝福をぜひ神に感謝していただきたいと思います。もしあなたが過去の出来事に感謝しているなら、そのことも含めて神を賛美してください。明日が何をもたらすかわからないのですから、その時起きるかもしれないことへの心配は、イエスに面倒を見ていただきましょう。

参考文献

[1] E. Nagy, et al. “Different Emergence of Fear Expressions in Infant Boys and Girls.” Infant Behavior and Development 24 (2001): 189–194.

[2] エレン・G・ホワイト『人類のあけぼの 』上巻4章45頁(昭和46年)

[3] American Psychiatric Association, Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, fourth edition (American Psychiatric Association, 1994). 

[4] Ibid., 408.

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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