人間関係で苦しむあなたへ【心が愛で満たされるとき】#4

記事「人間関係で苦しむあなたへ」のトップ画像

この記事は約10分で読むことができます。

目次

ストレスの主な要因

デスクの前で顔を覆う女性の画像

1990年代のこと、南アメリカ出身の伝道者カルロス・ランド牧師が、スペインのマドリッドの私の教会で連続伝道講演会を持ってくださいました。ランド先生のプログラムは「ストレス管理セミナー」とそれに続く聖書のメッセージに関する講義で構成されていました。講演シリーズの最初の方で、ランド先生は出席者全員に、これまでに受けたストレスの上位三つの原因を強かった順に紙に書いてください、とお願いし、翌日のメッセージの冒頭でその調査結果を用います、と言いました。

その回答用紙を集め、集計するお手伝いをしていた時、私は一人の執事がこう言うのを耳にしたのです。「ランド先生は、聴衆にとっていちばんのストレス要因が人間関係だ、というOHP用の透明フィルムをすでに準備しておられるんですね。でも先生、まだ集計は終わっていないじゃないですか!」

するとランド先生は答えました。「そうですねー、この調査をたくさんの場所で何度もやってきたので、結果がどうなるか、私にはわかるんですよ。人間関係、お金、健康と続くか、人間関係、健康、お金という順になります。人間関係が常にトップなんです」

人間がストレスの主要な原因になる傾向があるというのは、実に興味深いことです。しかも、しばしばそれは、伴侶、子ども、上司、近所の人、親戚、友人、同僚、取引業者、得意先など、身近な人たちなのです。心理学者、カウンセラー、ソーシャルワーカーたちは、人々が助けを求めに来る時、自分自身の問題か他者との問題を抱えている可能性が高いことを嫌というほど知っています。

人間はまた、私たちの生活に多くの喜びと満足をもたらしてくれます。他の人たちと満足できる交流を築き上げると、私たちは幸福になり、情緒的発達を経験します。しかし、時間を用い、努力し、気遣う、といった十分な投資をしないでは、支援的で良好な人間関係はできません。さらに、この投資には、親切、謙虚さ、受けたり与えたりする能力、打ち明けたり我慢したりする能力、告白し、赦す能力も含まれます。聖書は、最善の人間関係を維持するための無数の勧告を与えてくれています。この第四章では、それらの聖句の幾つかを取り上げ、そこで明らかになる人間関係の助けとなる原則を学んでいきましょう。

報い

積極的な人間関係が構築されると絶大な効果を及ぼします。(日本ではサーティーワンアイスクリームとして知られる)バスキン・ロビンズ・アイスクリーム商会の共同創設者の一人息子であるジョン・ロビンズは、『100歳まで元気に生きる!──科学的に証明された長寿の秘訣』(高橋則明訳、2006年、アスペクト発行)という題の本を書きました。①彼は長寿で知られるさまざまなグループについて大量の資料を入手し、それらの住民について調査しました。例えば、コーカサス山脈西側のグルジア自治区アブハズの住民、ペルーとの国境近くのアンデス高地に位置するエクアドルの遠隔地ビルカバンバ渓谷の人々、ロシア・中国との国境近くに位置し、6000メートル級の山々に囲まれた北パキスタンの肥沃な谷に住むフンザの人々、日本の最南端の島に点在する小さな村々に住む沖縄県の人々など。このような地域に住む人々は、他の世界に住む平均的な人々よりも健康と長寿をはるかに享受しています。

地理的な位置や文化に違いがあるにもかかわらず、これらの人々の食事とライフスタイルは著しく似ています。さらに、彼らはみな、すばらしい社会的交流を持つ機会に恵まれているのです。家族や共同体の人間関係は最善な状態にあり、親切で、誠心誠意で、愛情に満ちたメッセージが絶えずやりとりされています。競争とは無縁の生活です。人々は年配者を、その成熟ぶり、知恵、共同体への貢献などのゆえに、尊敬の念──ほとんど畏敬の念──をもって見ています。犯罪は実質的に存在しません。

良い関係があれば、良い雰囲気が周囲に伝わって、気落ちを防ぎ、いさかいや暴力を避け、連帯感を強めることができます。また、耐えられないようなストレスを避けることもできます。社会的能力は、一般的な人間関係において有用なものです。この種の能力によって、私たちは、人々の感情や動機、実りある集団行動、交渉による解決に関する深い知識を得ることができます。

他方、社会的交流が欠如するだけで問題が起きやすくなり、人間関係に亀裂ができると周囲のすべての人々に多くの不幸と悲しみをもたらすことになります。シカゴ大学のジョン・キャシャッポ教授と彼の仲間たちは、孤独と睡眠の質の相関関係という、この種の研究では初めての調査を行うために被験者を募りました。②「UCLA孤独感尺度(UCLA-RLonelinessScale)」で測定された上位と下位20パーセントの枠内の人が選抜されました。それから調査団は、二週間にわたって被験者の睡眠パターンを調べ、多くのセンサーを装着した被験者は、研究センターで二晩過ごしました。

データ分析の結果、二つのグループの間には有意な相違がありました。孤独だった被験者は、孤独でない被験者よりも入眠後に目覚めている時間が長く、低い睡眠効率を示したのです。他の研究では、孤独は中年の人たちの運動の確率を有意に減らし、二十代の人たちの生理機能の悪化率を加速させています。③

しかし人間関係の特質には、有効性とか満足といったもの以上の意味があります。披造物である人間が、愛し、愛され、助け、助けられ、関心を抱き、抱かれ、思いやり、思いやられる、そういった関係を、神は私たちにお与えになっているのです。そういうわけで、人間関係というのは聖書の中で継続的に考慮すべきテーマなのです。

謙遜と寛容

何人もの人が手を重ね合っている画像

聖書には、人間同士の交流を豊かにする価値についての訓戒が、たくさん含まれています。十戒の中で六つの戒めは、正しい社会的交流の維持に関わるものです。聖書は人々の交流を描き出すことによって価値ある教訓を私たちに教えてくれる物語で満ちています。

パウロは、キリストの弟子の特徴となるべき「キリストのような精神」の保ち方を初代教会の人たちに教えることが、自分の働きの主要な任務の一つであると考えていました。そういうわけで、パウロ書簡には、夫と妻、両親と子ども、雇い主と雇われ人、自由人と奴隷、教会の指導者と教会員、政府の指導者と市民への助言が含まれているのです。パウロは初代教会に向けて、イエスの愛のメッセージを強調しました。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ローマ13の8)、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5の14)。しかもパウロは折に触れて、愛、奉仕、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、忍耐、赦し、もてなし、真実、公正、平和、従順、励まし、助言を受け入れる姿勢、尊敬、寛容、仲裁などを奨励しました。このような特質はすべて、人間関係を築き、維持し、強めることに関係しているのです。

パウロは謙遜と従順というテーマについて何度も書きました。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」(エフェソ4の2)、「互いに仕え合いなさい」(エフェソ5の21)。パウロがこういったテーマを大切なものと見なしているのは、肯定的な人間交流を妨げる最強の障害の一つが、どこにでもある権力闘争だからです。権力闘争はパウロの時代にも存在し、今も私たちの生活の一部になっています。権力闘争は家族、友情、仕事場、教会に影響を及ぼします。どんな共同プロジェクトも、権力闘争の危険を冒しています。一つ、または複数のグループが、自分たちの必要を満足させるために他のグループより優勢になろうとするからです。興味深いことに、権力を必要としている人たちの多くは、自尊意識が低いためにそのような行動をします。例えば、虐待者や乱用者は、他のほとんどの人よりも自尊意識が低いのです。神がどんなに私たちの価値を重く見ておられるかに気づく時、私たちの自尊意識は高まります。

人間がいかに関係し合うかを研究する社会心理学者は、興味深い事実に気づいています。二人の人が話し合う時や、一人の人がもう一人のいる前で何かをする時、彼らは、トップ・ダウン(上意下達)の態度か、ボトム・アップ(下意上達)の態度か、いずれかの態度を示す傾向があります。このことは、彼らが使用する言葉の種類や彼らが示す非言語的合図を通して明らかにされます。もし二人が出会った際に双方ともトップ・ダウンの態度を示すなら、その交流は暴力的なものか、少なくとも非生産的なものになるでしょう。もし一人がボトム・アップの態度を取り、もう一人がトップ・ダウンの態度を取るなら、その交流は均衡が取れるかもしれませんが、役割が不平等なので、不快感を覚悟の上でのことになります。けれども、二人が相互に真のボトム・アップの態度で交流する時、当事者同士が互いを高め合い、相手に権限を与えようとします。この種の交流は、お互いに従順でありなさいと、パウロがクリスチャンたちに勧めた時に期待していたものに近い関係です。その結果、権力と責任を完全に分かち合う円滑な人間関係が生じます。

アビガイルの物語

サムエル記上25章にはアビガイルという一人の女性の物語が載っていますが、彼女はその並外れた社会的能力を通して、何十人もの人の命を救うことができました。アビガイルは「愚か者」という意味のナバルという人と結婚していました。ナバルはものすごい金持ちでしたが、けちで、社会的に無知で、機転が利かず、現実の生活への理解に欠けていました。さまざまな英訳聖書は、彼を描写するのに次のような異名を用いています。──「よこしまな」「けちな」「行儀の悪い」の他に、「無作法な」「がさつな」「粗野な」「乱暴な」「無礼な」など。ナバルの性質は、一家の者たちの会話に多くの材料を提供したに違いありません。ナバルの従者の一人が、「誰も話しかけられないほど、ご主人様は意地悪なんですよ」ともらす声を私は想像することができます。

無償でナバルの財産を守ってあげたダビデは、兵士たちのための食料提供を願い出るために、ねんごろ、かつ丁重に、ナバルへ使者を送りました。しかし、ナバルは兵士にいかなる物も与えるのを拒絶し、使者たちに対して無礼な扱いをしました。アビガイルは夫の無分別な行為について聞くや否や、緊急の対策を講じました。彼女の踏んだステップに注目してください。

アビガイルの緊急行動──ダビデの部下に渡すためのたくさんの食料と必需品を、従者に手配させました。

アビガイルの非言語メッセージ──アビガイルはダビデを見るとただちにろばから降り、彼の前でひれ伏して礼をしました。

アビガイルのスピーチ──神をほめ讃える言葉とともに切なる願いを言い表し、ダビデと従者への神の祝福を求めました。

ナバルの愚かさを認めるアビガアイル──ダビデに報告した時、彼女は夫を「意地悪」で「愚か者」呼ばわりしました。

アビガイルの丁重な言葉──アビガイルは常にダビデを「御主人様」と呼び、自分のことを「はしため」と呼びました。

アビガイルの請願──アビガイルは夫に代わって赦しを乞うとともに、多くの無実の人の血を流して良心を悩ますことのないよう、ダビデを促しました。

ダビデはアビガイルの懇願を聞き入れますが、ナバルは彼と彼の一家に起ころうとしていたことを聞いてショックのあまり死んでしまいました。このようにして、アビガイルは多くの犠牲者が出るのを防いだのです。このあとすぐに、ダビデはアビガイルを妻として召し入れました。

祝福をもって悪に報いる

ナバルは、彼のためになされた良いことに祝福をもって報いるように求められましたが、当然で妥当だと思われることをしませんでした。イエスは弟子たちに、「祝福をもって悪に報いよ」と、さらに一歩踏み出すことを教えられました。助けのない人間にはこのようなことはできませんが、神のご品性の一端を指し示す聖霊の賜物によって、これが可能となります。

ジョン・セルウィン(1844~1898)は30歳の時、南太平洋メラネシア・ミッションの主教になりましたが、イートン校やケンブリッジ大学の学生だった頃、ボクシングの腕前で知られていました。ある日、彼はかんしゃく持ちの一人の島民を叱らねばなりませんでした。セルウィンの言ったことに納得できないその島民は、こぶしを固めてセルウィンの顔に一撃を与えました。相変わらず強かった主教は、その島民を殴り倒すこともできましたが、仕返しをしませんでした。代わりに、攻撃してきた男の顔を落ち着き払って見つめ続けたのです。殴りかかったその男は自らを恥じて、ジャングルの中に走り去ってしまいました。

この出来事はさほど注目されることなく終わりましたが、数年後、セルウィンが英国に帰ったあとに、彼を殴った男が、セルウィンの後任の主教のところに来て信仰を告白し、洗礼を受けたのです。洗礼名は何が良いか、と尋ねられた時、この男は、「ジョン・セルウィンに……。イエスがどのようなお方かを教えてくれたから」と答えたのでした。

洞窟の中から外(海辺)が見える画像

自分を何度も殺そうとしたサウル王に対するダビデの関わり方から、悪や侮辱に祝福をもって報いる原則をさらに学ぶことができます。ある時、サウル王は用を足すために洞穴に入って行きましたが、まさにその洞穴にはダビデとその部下が隠れていたのです。ダビデの部下たちは、サウルを殺したい、と思いましたが、ダビデは、彼に手をかけてはいけない、と命じます。少したって、サウルとダビデは洞穴の外で会い、お互いの溝を埋める理解に至り、癒されることになりました。ダビデが自分の動機をサウルに説明すると、サウルは自分の誤りを認め、声をあげて泣いたのでした。

残念ながら、この和解は長く続きませんでした。まもなくして、サウルと3,000人の部下は、またもやダビデを探し回りました。ある晩、ダビデと指揮官の一人アビシャイは、眠っているサウルの軍隊に潜入し、サウルの枕元まで近づきます。彼らはサウルを殺せたのですが、ダビデはアビシャイにこう言い聞かせました。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない」(サムエル記上26の10、11)。

自分を殺そうとしている男に対してダビデが示した態度は、なんと立派なものであったことでしょう!必要かもしれないいかなる報復も神の手に委ね、その一方で、ダビデのように平和的解決を図り続けていくなら、私たちの人間関係の質は、どんなに違ってくることでしょう。

赦し

赦しは、神の子たちがより良い人間関係を築けるよう、神が彼らにお与えになる神の御性質のもう一つの側面です。赦しは、祈ること、聖句を読むこと、歌うこと、礼拝すること、日誌記録をつけることなどとともに、霊的・宗教的カウンセリングにおいて現在推奨されている方法の一つです。これまで心理学の領域においては、必ずしも癒しの補助として赦しを含めることはありませんでした。しかしながら、宗教に関係するカウンセラー同様、宗教に関係しないカウンセラーたちも、現在では赦しを正当な方法だと考えています。専門書にも赦しについての論議がよく見られます。

赦しは、肯定的な感情を強め、問題や悩み事を脇に置く助けを与え、失われた人間関係の回復を促進し、敵意という心理的な重荷を取り除く助けをしてくれます。(しかし世俗の心理学者たちは、「罪」という言葉を注意深く避けます。世俗の心理学は依然としてこの言葉を締め出しているからです!)今や赦しは、配偶者が捨てられる時、従業員が不当に解雇される時、ゴシップによって人の評判が傷つけられる時、あるいは誰かが詐欺の犠牲者になる時、妥当な選択肢として考慮されています。それは道理にかなっています。恨みをいだいたり、反撃したりするのは、精神的健康や幸福の観点から見ると極めて高くつくことであり、たいてい何も解決せず、対等になるという疑わしい利益以外の利益をもたらすことはないと、人々は気づいているからです。

しかし、精神的健康を保つこと以上に素晴らしいことがあります。赦しは私たちをイエスのようにしてくれるので赦しを実践しなさいと、聖書は勧めているのです。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4の32)。

鎖から解放されて鳩が飛び立っているイメージ画像

赦しについての美しい実話として、ジョー・ベリーの話があります。彼女の父親アンソニー・ベリー卿は英国議会の議員でしたが、1984年にアイルランド共和軍(IRA)の爆弾によって他の四人と一緒に亡くなりました。その爆破の首謀者であるパトリック・マギーは、「1998年の聖金曜日の和平合意」に従って1999年に釈放されるまで、14年間刑務所で服役していました。

ジョーはパトリックと2000年に会いました。二人が三時間話したあと、パトリックがこう言いました。「今まであなたのような人に会ったことがありません。何と言ったらよいのかわかりませんが、あなたの心の痛みをお聞きしたいのです」と。二人は他でも会う機会があり、友情を深めていきました。パトリックは自分の暴挙の結果、命を落とした罪のない人たちに対する良心の呵責を言い表しました。そしてジョーは、パトリックが送ってきた人生と、いかにして事件を起こすに至ったのかを、一層理解するようになったのです。彼らの友情はお互いを癒し続けてきただけでなく、二人は平和行動の推進者として働いています。これまでに二人は、オーストリア、イスラエル、南アフリカ、スペインの若者に、平和と赦しについて語ってきました。2009年10月には、英国議会において、赦しに関するプログラムの一部として証しをしたのです。

イエスの生涯の最後の瞬間は、彼の赦しの最高の模範となっています。イエスはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23の34)。エレン・ホワイトはこう書いています。「恐ろしい苦難のさなかに、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』とのキリストの祈りがささげられたとき、全天は驚嘆の思いに満たされた」④

時々、赦すということは事実上不可能だと考える人がいますが、実際、そうなってしまうのは、人間の心があまりにもわがままだからです。しかし、聖霊が私たちから石の心を取り除き、肉の心を与えてくださる時(エゼキエル36の26)、人々が犯したいまわしい悪事さえ赦すことが可能になります。

告白と教会の支援

人に罪を告白している様子の画像

私はカトリック教徒として成長し、カトリックの学校に通っていましたので、告解は成長期に欠かせない習慣となっていました。ヤコブの手紙5章16節の「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」という言葉の曲解に基づく告解の教義に従うよりも、神に直接告白する方がはるかに単純だったことでしょう。けれども、当時の私は告解しか知らなかったのです。そこで週に一度、私たち男子生徒は告解のためにチャペルに連れていかれました。最初の数回は気まずい感じがしましたが、告解というのはだんだん慣れていくものです。

やがて、司祭が私たちの告白した罪を何であれ校長先生に伝えている、といううわさが広まりました。校長先生がそのうわさを聞いて憤慨し、告解の秘跡を保証するために、告解の日にさらに二人の司祭を呼ぶことにしました。最初、生徒の多くは新しい司祭たちのところに行きましたが、その選択はじきに人気がなくなりました。というのは、新しい司祭たちが時間のかかる罪の償いを課したからです。数週間以内に、前から学校にいた司祭のところへ生徒たちは戻ってきました。なぜなら彼は、私たちが犯すどんな罪に対しても、償いとして「アヴェ・マリヤの祝祷文」を五回、一律に課すだけだった(唱えるのに文字通り45秒しかかからなかった)からです。

現在の私は、ヤコブの手紙5章16節についてはるかに深い理解をしています。もし私が隣人に対して罪を犯すなら、赦しを得、関係を修復するために隣人に告白する必要があると、この聖句は私に告げているのです。隣人に対する罪を明らかにすることで、私たちの人間関係は成熟したものになります。人間の最大の必要の一つは、思いやる人と話をすることです。思いやりのある聞き手には、共感し、支援するという、すばらしい特権が与えられています。告白し合い、赦し合うことで、感情の重荷から解放され、関係をより深く、永続的で、揺るぎないものにする、より深いレベルでの相互の関わり合いを築くことができるのです。

しかし、すべての人が守秘義務の倫理に従って生きているわけではありません。残念なことに、人々が打ち明けられた秘密を友だちや仲間の教会員に漏らしてしまうことは珍しくありません。こうして多くの痛みがもたらされます。ですから、紛れもなく思慮分別に富んだ人だけを信用する必要があります。いずれにせよ、熱心な祈りこそ、守秘義務の絆を破る危険を伴うことなく、魂に休息を与えるものです。

もう一度黄金律を見てみましょう。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7の12)。この原則は社会的関係のための比類なき宝石です。黄金律は、肯定的で、普遍的で、愛を基としており、人間の法律よりも広範囲に及ぶものです。黄金律は、最善の交流を保証します。しかし私たちは、この天来の原則を実践するのに神の助けを必要としています。

静かな夕べ、焚き火の側に座っていた二人のアメリカ・インディアンの話です。デラウェア族の酋長ティーディウスクング(Teedyuscung1700~1763)と彼の無名の親友は、しばしの間多くを語らず、めいめい自分の関心事に思いを馳せながら座っていました。その親友は対人関係の問題について考え、かつて耳にしたクリスチャンの黄金律を思い返していたのです。彼はティーディウスクングに向き直って、こう言いました。「お頭、私はかつて、極めて有益で優れた原則を聞いたことがあります」

ティーディウスクングは広げた手を差し出し、親友が語り続けるのを止めて言いました。「優れているところや美点は言わなくていい。ただその原則とやらを教えなさい。そうしたら、信頼に足るものかどうか、私の意見を言おう」

そこでごく手短に、親友は黄金律をティーディウスクングに説明しました。すると酋長は即座に、「そんなことはあり得ない!」と叫び、それから数分間、二人は座ったまま口を開きませんでした。

しかし最後に、今度はティーディウスクングが沈黙を破って言いました。「その黄金律について考えてみたが、人間を創った大いなる霊が人に新しい心を与えるなら、あり得ることだ!」

あなたが誰かとの問題を抱え、どうしてよいかわからないなら、黄金律の単純なテストを通してあなたの疑問を吟味してみてください。もし私が彼や彼女の立場なら、何をしてもらいたいと思うでしょうか。何をしてほしくないと思うでしょうか。それから、力と知恵と、なすべきことについて、神の導きを求めてください。

参考文献

①           John Robbins, Healthy at 100: The Scientifically Proven Secrets of the World’s Healthiest and Longest-Lived Peoples (New York: Random House, 2006).

②           Robert T. Cacioppo et al, “Do Lonely Days Invade the Nights?” Psychological Science 13 (2002): 384–387.

③           Louise C. Hawkley et al, “Loneliness Predicts Reduced Physical Activity: Cross-Sectional and Longitudinal Analyses,” Health Psychology 28 (2009): 354–363; Louise C. Hawkley and John T. Cacioppo, “Aging and Loneliness,” Current Directions in Psychological Science 16 (2007): 187–191.

④           エレン・G・ホワイト『各時代の希望』下巻285頁(昭和40年)。

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

当サイトの活動はすべて無料で行われており、皆様の寄付金によって支えられております。今後とも、皆様からの温かいご支援をよろしくお願いいたします。
ご協力いただける方は、ゆうちょ銀行の下記口座へご送金いただければ幸いです。 

口座番号 00220ー1ー73287
加入者名 アドベンチスト・メディアセンター

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次