罪悪感で苦しむあなたへ【心が愛で満たされるとき】#5

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目次

罪悪感

ヴァーノン・コールマン博士は、著書『罪悪感を持たない方法(HowtoStopFeelingGuilty)』において、居酒屋で晩の宴会を持ち、飲み過ぎてしまった若い男の話を紹介しています。①その夜、運転して帰宅する時、彼は注意力散漫の状態でした。角を曲がった時、何かにぶつかったように感じました。しかし、それが何であろうと無視して、家に帰り着いて、就寝しました。

翌日、頭がはっきりすると、昨夜感じたドシンという衝撃を思い出しました。車の前面を見るとくぼんでいるのがわかり、帰路、衝突したと思われる所がどこであったか、考えました。その日遅くなって新聞を読むと、昨夜、衝撃を感じたと思われる場所で、老婆が車にぶつかって死亡し、車は事故現場から去ったという記事が載っていました。彼は、自分がその女性を死亡させたと推断しましたが、結果を恐れ、沈黙していることにしました。

その時以来、彼は罪悪感にさいなまされました。彼は何度もその光景を思い起こしてはみじめな気持ちになり、ついには幻聴(聴覚性錯覚)が聞こえるほどになりました。何度も自白しようと思いましたが、そうしませんでした。その事件後20年ほどして、もはや罪悪感に耐えられなくなり、自殺しました。残された遺書には、20年前のその夜、女性を死亡させた無責任な運転手は自分であるという説明が記されていました。

この事件を調査した警察が、その女性の死亡を扱った新聞記事を調べてみると、記事には間違いのあることがわかりました。その老婦人は、彼が衝撃を感じた場所で殺されましたが、彼が事故を起こす前の晩に死亡していたのです。つまり、明らかに他の誰かが彼女にぶつかったということです。

ミニカーとミニカーが衝突して横転しているイメージ画像

罪悪感は、何か道徳的に間違ったことをしたという良心の呵責に堪えない気づきです。罪悪感を覚えることは、人々が堪えるのに最も気詰まりな経験の一つです。どうしようもないほど気に触り、時には何もできないような心理状態に追い込まれるばかりか、恥、悲しみ、怒り、不安、困窮、さらには器質性疾患をも引き起こしかねません。普遍的原理を真っ向から破って感じる罪悪感から神経症的罪悪感に至るまで、罪悪感にはいくつかのレベルがあります。罪悪感は、まったく根拠がなくても、誰かの精神を支配し、人生をみじめなものにするだけで、それを埋め合わせるような意図を持ちません。

道徳律を侵害すると罪悪感が生じてきます。これは良いことなのです。罪悪感というのは、神が被造物に設けられたメカニズムで、罪はいつでも自身と他者とに痛みをもたらすことを気づかせるためのものなのです。これは、父親がかんしゃくを起こして妻や子どもたちを罵倒したあとで経験するかもしれない罪悪感であるとも言えます。いくらも時間が経たないうちに、父親は嫌な気持ちになり、食欲を失い、眠れなくなり、筋肉痛を覚え、自己嫌悪に陥るかもしれません。この感情に慣れてしまうまで抵抗する人もいれば、悔い改めを迫られているように感じて、ひどい扱いをした相手や神に赦しを乞い、同じことが再び起きないように善処する人もいます。これは本当の贖罪の罪悪感というもので、好結果をもたらします。

それでは、聖書物語の登場人物の行動の背後にある主要な動機である罪悪感を、いくつか見てみましょう。

最後通告ゲーム

カリフォルニア大学ロサンゼルス校のティモシー・ケテラーと中国の香港大学のウィン・タン・オウの共同研究でも明らかなように、ほんの少しの罪悪感でも有効であることがわかります。②この研究では72人の学部生を選び、二人ずつペアに分け、「最後通告ゲーム」をしてもらいました。研究者は、次の手順でそれぞれのペアが19ドル(二千円位)を分け合うことができる、と言いました。まず、ペアの片方であるAさんが、お金の分け方を提案しなければならないのですが、その提案は一回限りで、封をした封筒の中に入れます。ペアのもう片方のBさんは、この提案を変更することも、逆提案することもできず、ただその提案を受け入れるか、あるいは拒否するかを決めなければなりません。もしBさんがその提案を受け入れるなら、お金は二人の間で分け合うことができますが、もし拒否するなら、研究者が預かることになるのです。

特徴として、Bさんたちは小額の提案を拒否する傾向がありました。言い換えると、わずかなお金をもらえる提案──Aさんはずっと多くのお金をもらう提案──を受け入れるよりは、欲張りでおいしいところを取ろうとするAさんを懲らしめるために、お金をすべて拒否しようとするのです。

時として、Bさんが小額の提案を受け入れた場合には、ペアのAさんは罪悪感を覚えました。ケテラーとオウが、この研究のAさんたち36人に「罪悪感尺度テスト」を実施して、このことがわかりました。また、一週間後にゲームを再度行ってわかったことがあります。それは、最初のゲームで罪悪感を覚えたAさんたちは、ペアのBさんが今回のゲームでも小額の提案を受け入れてくれそうなのに、提案の額をかなり引き上げたということです。罪悪感が彼らを公平へ向かわせたのです。

デスクを指差しながらあれこれと考えている人たちのイメージ画像

私たちが取るに足りないことや実在しないことに罪悪感を覚える時、その罪悪感はやっかいなものになるばかりか、心理的負担になることさえあります。過度に罪悪感を覚える人たちは、無関係なものにも罪悪感を持つ人たちです。このような人たちは罪悪感傾向と呼ばれる性格特性において高い点数がつきます。このような場合には、罪悪感は向上の手段どころか、向上の障害になってしまいます。一つの実例として、何も食べまいとしていた時にクッキーを一枚食べてしまったために、何時間も罪悪感に苦しむ女性を挙げることができます。あるいは、時間に追われていたので、立ち止まっておしゃべりすることなく、ご近所の人の傍らを通り過ごしてしまったために罪悪感を覚える男性も、そんな一例でしょう。罪悪感傾向のある人は容易に操られます。子どもたちはこのことをよく承知しています。子どもたちは、ふくれっ面をしておねだりをしたら、どちらの親が譲歩するか、すぐに見分けることができます。

罪悪感はさらに病的な形を取ることがあり、その場合、メカニズムは機能不全に陥り、責任のないことに対しても罪悪感を覚えるようになります。これは神経症的罪悪感と呼ばれます。これは必ずしも時間の経過と共に消え去るものではないので、しばしば精神衛生の専門家の助けが必要となります。この種の罪悪感の例としては、友人や家族が亡くなったのに自分は無傷だったために罪悪感を覚える災害の生存者などがあります。自殺者を出した家族は、失われた者への責任を感じます。両親が離婚した子どもたちは、自分たちが仲違いの原因になったと思い込んで罪悪感を覚えることもあります。

聖書の登場人物が罪悪感を覚えた記事を四つ、調べてみましょう。その登場人物とは、アダムとエバ、ヨセフの兄弟たち、ダビデ、そしてペトロです。この感情を活用する方法を彼らの生涯から学んでいきたいと思います。

アダムとエバ

創世記3章は、アダムとエバが不従順に陥った直後、罪悪感、悩み、また怖れといった感情に見舞われた、と伝えています。こうして、彼らの行為に重要な変化が起きたのです。二人は、自分たちが裸であると気づき、主の足音を聞いて主から身を隠しました。それから以下のような興味深い対話がなされました。

(あなたがたは)何ということをしたのか

アダム

あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました

エバ

蛇がだましたので、食べてしまいました

精神分析学の創始者ジークムント・フロイト(1856~1939)なら、これこそ人類最初の「投射」──自分が犯した誤りを誰か他の人のせいにする防衛機制の一つ──だ、と呼んだことでしょう。フロイトによると、人間は過度の罪悪感と不安から自分を守るために投射を用いるといいます。それは事実ですが、私たちの行動の責任を無実の者に負わせるのは、不道徳なことです。

手書きの文字が判読しにくかった中国の首相についての物語があります。ある時、彼は書くことに専心したいという素晴らしい考えを持ったのです。筆を握り、彼の格言を不朽のものとすべく用紙に書きました。それから、甥を呼んで美しい字体で書写するように言いました。その甥が優れた書道家だったからです。若者はその文を書き始めましたが、解読困難な漢字が出てきたので、確認するためにおじのところにその紙を持って行きました。首相はその漢字を注意深く見ましたが、自分の手書きの字が解読できません。そこで甥をじっと見つめて、こう言ったのです。「どうしてこの文が記憶に鮮明だった時に聞いてこなかったのか」

誰かが他の誰かを非難するという、この世で最初の出来事に戻ってみると、アダムは自分の罪悪感をエバに押し付けようとしています。エバも責任を取りたくなかったので、それを蛇に押し付けようとしています。しかし、他人を非難することは問題解決になりませんし、対人関係に深刻な悪影響を及ぼしかねません。しかも、それは神の赦しを阻む障壁をもたらします。自分自身の行動の全責任を負い、罪悪感からの自由を与えてくださる唯一のお方を求めるほうがまさっているのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8の1)。

ヨセフの兄弟たち

昔のエジプト人の様子のイメージ画像

ヤコブがエジプトで穀物を買うように息子たちを送った時、彼らは弟を奴隷商人に売り飛ばしたことを思い出しました。彼らはヨセフの近くに立っている時にそのことを話しましたが、この「エジプトの支配者」には自分たちの言葉はわかるわけがない、とどうやら思っていたようです。その会話は、彼らがなおも罪悪感の重荷を負っていて、彼らの悪い行為が何十年もの間、繰り返し語られた話題であったということを明らかにしています。この場では、次のように言い合っていました。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」(創世記42の21)。そのことに対して長男のルベンは、こう言いました。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ」(創世記42の22)。

強い罪悪感を持っているのに打つ手のない人たちは、罪悪感を生じさせる出来事を繰り返し経験するかもしれません。罪悪感は、心に充満する侵入思考(瞬間的に頭をよぎる考え)や突如思い出されるイメージとなって再現したり、夢や悪夢の中に現れたりします。気が動転し、憐れみを乞う若き日のヨセフのイメージが、兄たちの心の中で何度も再現されたことは十分に考えられるでしょう。ヨセフは兄たちの感情的問題の原因を他の誰よりもわかっていました。そこで、気高い態度で彼らを招き入れました。「『どうか、もっと近寄ってください。』兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。『わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです』」(創世記45の4、5)。

神は、この兄弟たちが罪悪感から解放されるように備えておられました。20年もの良心の呵責のあと、ふさわしい時と条件によって彼らは罪の束縛から解放されたのです。ヨセフは彼らを赦し、もはや自責の念に駆られることのないよう、無条件で励ましています。

罪悪感の有益さ

罪悪感は、もう少しささいなことにおいてかなり有益な場合があります。フィンランドのヘルシンキ大学における研究によると、被験者が恥を感じる時よりも罪悪感を覚える時のほうが、より多くの補償行動や和解行動をすることができると報告されています。③ 研究者のシルヴェルは97人の大学生を選抜し、一人ひとりに以下の質問に基づく物語を一つから三つ提供するように頼みました。(a)あなたが罪悪感、恥、あるいは両方を体験した状況はどのようなものでしたか。(b)罪悪感や恥を和らげるのに、あなたはどのように思考し、行動しましたか。(c)あなたはこういった感情を和らげるのに成功しましたか。あるいは、罪悪感や恥で今もなお苦しんでいますか。データが内容分析され、回答が感情の意味毎に分類され、以下の結果が出てきました。

物語の大部分(62パーセント)は、対人状況──例えば、被験者が良い友人、良い親、良い伴侶、良い親戚ではなかったことなど──を罪悪感や恥の原因として記述していました。他の被験者は、助けを必要としている人(泥酔者、貧者など)を助けなかったことに対して罪悪感を覚えていました。

回答の14パーセントは、個人や社会の規範を犯した──例えば、試験でのカンニング、万引き、不純異性交遊など──ゆえに罪悪感や恥の意識を持ったと報告しています。

物語の13パーセントは、個人の義務に関連した罪悪感や恥を報告していました。例えば、家の整理整頓をしていなかったこと、仕事や勉強に充分時間を取らなかったこと、過食などで罪悪感や恥の意識を持っていました。

物語の11パーセントは、被害者であること──例えば、言い寄られたこと、セクハラにあったこと、虐待されたことなど──と関連した罪悪感や恥を含んでいました。

罪悪感によって被験者は、罪悪感をもたらした行為を避け、和解するなどの補償行動を始め、それをやり遂げるように動機付けられることがわかりました。研究者はまた、被害者となった人たちは、基準を犯した人たちより、その出来事を繰り返し思い返す傾向があることも発見しました。そのわけは、被害者は補償行動をする必要がなく、彼らの罪悪感には概して根拠がないからです。こういった場合は専門家の治療を必要とします。

ダビデの衰えた力

ダビデは罪悪感から逃れる方法を示す際にも、罪悪感の結果を示す際にも、非常に創造的な描き方をしています。「わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重くわたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました」(詩編32の3、四)。罪悪感の結果を示す際に、詩編38編では以下のような表現が使用されています。「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり」、「耐え難い重荷となっています」、「一日中、嘆きつつ歩きます」、「腰はただれにおおわれています」、「もう立てないほど打ち砕かれ」、「心は呻き、うなり声をあげるだけです」、「心は動転し」、「目の光もまた、去りました」、「愛する者も友も避けて立ち」……。これらの言葉は、罪が生み出す苦悶のみならず、罪がもたらす身体の虚弱や痛みをも描いています。罪悪感は身体にも魂にも影響を与えます。絶え間ない罪悪感のような情緒不安によって生じる精神状態は、さまざまな心身相関の反応を引き起こす可能性があるのです。

ニコラス・ホールが率いる研究者チームは、精神神経免疫学の分野において重要な発見をしました。彼らは以下の病気において、心と身体の緊密な関係を発見しました。その病気とは、エイズ、乳癌、慢性疲労症候群、感冒、黒色腫、多発性硬化症、結核などです。④心理療法士は、クライアントが自分の気持ちを共感的な聞き手に伝える機会を与えられることで、癒しの道へ進めることを知っています。詩編32編でダビデは、主こそいちばん理解してくださるお方、完全な赦しを与える力を持っておられるお方だ、と言っています。また、告白するとただちに安心できると言っています。「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(詩編32の5)。

罪悪感の重荷が生み出した歴史的例として、フランス王シャルル九世の経験があります。王は、1572年8月24日の聖バルテルミー祭の日に、ユグノー(フランスのプロテスタント)の大虐殺を命じました。数千人ものプロテスタントの男、女、子どもたちが、パリと地方の町で虐殺されました。その後、王は侍医に不平を漏らしました。「何が朕を苦しめているのかわからんぞよ。体全体が熱に冒されているようだ。血だらけの恐ろしい顔以外、周りには何も見えん。夜は、あの虐殺の夜に聞こえたような叫び声、うめき声、わめき声、怒り狂った声、脅迫する声、神を汚す声に、目を覚ましてしまうのじゃ」⑤

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ペトロの激しい涙

神は、神の子たちが正式に献身の約束や贈り物の約束をしたのに、あとからその約束を破ることを断固としてお認めになりません。衝動的なペトロは是が非でも主に忠誠を尽くすと断言しました。まず彼は、自分と他の弟子たちを対比します。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26の33)。次には、「三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスに反駁します。いえ、それどころか、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ二6の35)とペトロは宣言したのです。ところが数時間後、ペトロはイエスを否定しました。ペトロがそうしたのは、屈強な兵士とか権威当局に強制されたからではなく、二人の女と大祭司の召し使いが彼に、イエスの弟子かどうかを尋ねたからだったのです。ペトロは、繰り返しイエスを知らないと言い、最終的には誓うことさえしました。「その人を知らない」という言葉を口にした直後、鶏が鳴きました。即座にペトロは、「三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃった主人の言葉を思い出すのです。そして、自分が言ってきたことを認めて、激しく泣いたのでした。

1870年代、ホワイト夫人は、心霊術に関わって激しい試練に遭っている一人の男性の相談を受けました。ホワイト夫人は、他者に充分な奉仕ができるようになるために、あなたはしばらくの間苦しむ必要があるのです、とその人に説明しました。救い主を否定することでペトロは非常に苦い経験をしましたが、こういった痛ましい時を経ることは、彼の改心と将来の伝道の備えのために不可欠だったのです、とも彼女は言いました。夫人は次のように書いています。

ペトロはあとで悔い改め、再度回心した。魂の真の痛みを味わい、自分を救い主に改めてささげた。涙で目を曇らせ、ペトロはゲッセマネの園のさびしい場所へ行き、うつぶせに倒れた。そこは、救い主がうつぶせになって大きな苦悩の中で血の汗を流しておられるのを見た場所であった。イエスがその恐るべき時間に祈っていた時、ペトロは眠っていたことを後悔しながら思い出していた。ペトロの誇り高い心はしおれ、神の御子の血の汗が滴り落ちた芝土を悔い改めの涙で濡らした。ペトロは回心をして、その園を出て行った。⑥

罪悪感の問題を解決する

パウロはローマの信徒への手紙7章において、罪との闘いと律法についてさまざまな方法で描き出しています。そして次の8章1節で、人間に大いなる希望を与える断定的な発言をしているのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8の1)。

神あるいは人間同胞への罪から生じる罪悪感の解決は、イエスによってしか与えられません。イエスの恵みによって私たちは悔い改め、兄弟姉妹と和解することができます(ヤコブ5の16)。イエスの犠牲によって私たちは神の赦しにあずかることができます(1ヨハネ1の9)。すでに述べた病的罪悪感は別として、罪悪感という重荷を背負っている人は誰でも、悔い改め、傷つけた人に自分の悪事を告白し、赦しを得る必要があります。これは罪人が神と和解しようとする前にすべきことです(マタイ5の23)。それから、その人は神に告白しなければなりません。結果として、充分な赦しが与えられます。

いずれにせよ、もし罪悪感があなたを悩ましているなら、その悩みの出所を調べ、誰かが関わっているかどうかを考えてください。もし関わっているのであれば、責任を認めて悔い改め、赦しと和解を得るために全力を傾け、それからイエスが約束されている赦しを得るように神のもとに向かわなければなりません。神は赦しを与えたいと望んでおられることを覚えていてください。神は誰の死をもお喜びになりません。あなたが「立ち帰って、生き」(エゼキエル18の32)るよう、神は願っておられるのです。

参考文献

①           Vernon Coleman, How to Stop Feeling Guilty (Sheldon Press, 1987). 

②           Timothy Ketelaar and Wing Tung Au, “The Effects of Feelings of Guilt on the Behaviour of Uncooperative Individuals in Repeated Social Bargaining Games: An Effect-as-Information Interpretation of the Role of Emotion in Social Interaction,” Cognition and Emotion 17 (2003): 429–453.

③           Mia Silfver, “Coping With Guilt and Shame: A Narrative Approach,” Journal of Moral Education 36 (2007): 169–183.

④           Nicholas Hall, et al, “Mind-Body Interactions and Disease and Psychoneuroimmunological Aspects of Health and Disease,” Proceedings of a Conference on Stress, Immunity and Health Sponsored by the National Institutes of Health (Health Dateline Press, 1996).

⑤           Paul Lee Tan, Encyclopedia of 15,000 Illustrations. Digital edition, entry 1733. 

⑥           Ellen G. White, Testimonies for the Church (Mountain View, Calif.: Pacific Press®, 1948), 3:416.

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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