この記事は約7分で読むことができます。

行列のできる法律相談所?
「行列のできる相談所」というテレビ番組をご存知でしょうか?
もともとは、「行列のできる法律相談所」という番組名で、2002年の放送開始からしばらくは再現ドラマで日常のトラブルを提示し、「ここで損害賠償を請求できるのか?」などといった様々な法律問題の課題について、司会者やゲスト、弁護士の方々がトークを繰り広げるという法律バラエティ番組でした。
現在は企画やテーマにちなんだ出演者のエピソードについてのトークが中心になっており、番組名からも「法律」という言葉が消えています。私たちにも起こりうる問題に対して、法律はどのように適用されるのか、という点が興味深いので、私はこの番組をよく見ていました。
旧約聖書、「出エジプト記」には、「行列のできる法律相談所」のような出来事が書かれています。
翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。
旧約聖書 出エジプト記18章13節
イスラエルの民の人数は、出エジプト記12章37節によれば、「妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった」とのことなので、働き盛りの男性60万人とその妻と子供、その親など含めると、60万人の4倍5倍、それ以上の人数がいたと考えられます。
人々がそれぞれ個人的な悩みや他人との争いなどの問題を抱えて、イスラエルの指導者モーセのところに「裁きを待って並んでいた」とのことなので、一部の人たちだけであっても私たちの想像を超える人数がモーセ1人のところに押し寄せていました。それを一つひとつ、モーセ1人で対応するので、その心労はどのようなものだったでしょうか。

そのような状況を見たモーセのしゅうとのエトロは、「あなたのやり方は良くない。あなたも民も疲れ果ててしまう」と、モーセに声を掛けます。
エトロは続けて提案します。その内容は、モーセは常に神の掟と指示を聞き、それを人々に伝えることに徹する。また人々の中から神を畏れる有能な人たちを選んで、モーセが神から聞いたことを皆に伝えるような仕組みを作ろう、というものでした。
モーセのもとには、連日多くの問題が持ち込まれていました。それらをモーセが神の前に持っていきますが、モーセが神から聞いていたのは、個別の問題に対する個別の対応の仕方というよりは、神の考え方、神のやり方を聞いていたと思います。
大まかに言えば、モーセが民に伝えるのは、「○○さんはこうした方が良いですね」という細かいことではなく、神の掟と指示、すなわち神の律法でした。もっと言えば、律法とは神の言葉であり、それは神を愛し、人を愛する生き方とはどのようなものか、神と共に歩むとはどういうことなのか、ということです。
それを聞いた民は、神のやり方、考え方を知り、それに従って考え、判断するようになっていくことが狙いです。それは単なる役割分担ではなく、皆が神のやり方、考え方に沿って生きるようになる、神のやり方、考え方を具体的に表す生き方をするようになるのが目的です。
判断に困る時に
私たちも、様々な場面において判断に困ることに直面します。そのような時に、私たちの感情を優先して考え判断することが多いのですが、それでは争いや混乱が増すばかりです。しかし、私たちが神の言葉を聞き、信じ受け入れ、従っていくならば、私たちの考えではなく神の考え方によって物事に対応することができます。
それは効率重視の人間社会の方法とは異なるので、時間がかかり、時には傷つくことも多くあります。しかし、神は罪人の私たちに対して、人類の歴史という長時間をかけ、拒否されることも覚悟し、十字架の死という神の愛を表してくださったので、私たちはそのような神のやり方に倣うのが良いのです。
モーセのもとに大勢の人々が押し寄せて、それぞれ問題をモーセに告げていましたが、モーセはその様子をこのように言っています。
民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。
旧約聖書 出エジプト記18章15節
ここで、仮にあなたが何か問題を抱えたイスラエルの民の一人であると考えてみましょう。あなたは何か問題を抱えてモーセのところに行く時に、何を求めてそこに行きますか? 「神に問うために」モーセのところに行くというのは大切なことですが、本当のところはどうでしょうか。
最初にお話しした「行列のできる法律相談所」で取り上げられる事例で、人々が何を求めているかというと、特に人との争い事において、どちらが正しいのか、法律の側面から白黒はっきりさせて欲しいということであり、法律による自分の正統性の後ろ盾が欲しいのです。
つまりは、自分が正しいんだということを、誰が見てもはっきりわかるように、法律の視点から証明してくれ、ということです。そうでもしないと気が収まらないからです。
もし私たちがイスラエルの民のように問題を抱えてモーセのところに行く場合、個人的な悩み事なら神の言葉による慰めと励ましを求めると思いますが、他者との争い事となれば、「私の方が正しいんだ!」という物凄い剣幕で事情を訴えるでしょう。
いや、もしかしたら、個人的な悩み事においても、私たちは同じようになるかもしれません。「私はこれだけ頑張っているのに、神は全然報いてくれない。どうして自分だけがこんな大変な目に遭わないといけないのだ!私の何が悪いのだ!」というような叫びを誰しもが持っています。
そのような心境で、「神に問うために」神のもとに行く私たちの願いは何でしょうか。「あなたは悪くない、あなたは正しい」と言ってもらいたい、自分の正当性を認めてもらいたいところがあるのではないでしょうか。
もちろん、神は私たちを愛し、私たちの味方になってくださいます。しかし、恐らく神は私たちの頭を撫でて、「おーそうか、それはかわいそうにねぇ、よしよし、君は悪くないんだよ〜」というようなやり方はなさらないでしょう。個人的な問題や他者との争い事の解決を求めて、自分の正しさの後ろ盾を求めて神のもとに行くと、どのような現実を突きつけられるでしょうか。

正しい者はいない、一人もいない
それは、「正しい者はいない、一人もいない」ということであり、あなたを傷つけたあの人も罪人だが、あなたも同様に罪人だ、ということです。出21章以降には、何か問題が起きた時、特に相手に損害を与えた場合の償いについて事細かに書かれています。大まかに言えば、損害を与えた側はきちんと償いをするように求められ、それは現代でも同じです。
では、特に他者との争いにおいて、自分が悪い場合はきちんと償いをするとして、相手が悪い場合、自分は悪くないと、自分の正しさの後ろ盾を得ればそれで良いでしょうか。モーセは自分が民に対して行っているのは、「神の掟と指示を知らせる」ことだと言いました。他者との争いがモーセのもとに持ち込まれた時に、どちらが悪いかということがある程度はっきりすると、悪い方は相手に償うようにと指示が与えられます。
一方、やられた側にモーセは何と言ったでしょうか。聖書に記録されていないので想像するしかありませんが、「神の掟と指示を知らせる」のだから、やられた側にモーセは、神の掟と指示に基づいてこう言ったでしょう。
「赦してやりなさい」、と。
なぜなら、それが神のやり方であり、律法の精神だからです。断罪するよりも、相手を赦し、相手との関係を回復させることを神は望んでおられます。悪い方はもちろんですが、やられた側にも自分の罪の問題が突きつけられます。それは、相手を赦すということにおいてです。
罪があるから、私たちは人を赦せないし、赦せないことに苦しみます。何か争いが起きた時に、自分の正しさの後ろ盾を得られたとしても、心から相手を赦して解放してあげることができるほど、私たちは清い人間ではありません。心のどこかでやられたことを覚えていて、なかなか忘れることができないので苦しいのです。

これは他者との争いについての話ですが、個人的な悩みにおいても同じだと思います。「どうして自分だけがこんな大変な目に遭わないといけないのだ!私の何が悪いのだ!」と、自分の正しさの後ろ盾を求めている時というのは、アダムの息子カインが自分の捧げ物が受け入れられなかった時の態度と同じです。
そのような時の私たちは、神がカインに言われたように、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」という状態にあるのでしょう(創世記4章7節)。ですから、自分がやられた側になったとしても、自分の罪の問題によって、相手を赦すことができない、神の御心を行うことができない自分が嫌になり、苦しむのです。
このような話題になると、「まぁ、自分には無理だ」と諦めて、開き直って生きるしかないと思ってしまいますが、もしそれで終わるならいつまでも争いは終わらず、個人的な悩みを抱えた時にも出口は見えてこないし、いつまで経っても何か起こる度に自分の正しさの後ろ盾を求めて神のもとに行くでしょう。
どのような問題であれ、神のもとに行けば、そこで慰めと励ましを得られますが、同時に自分の罪の問題に向き合わされるということを覚悟しておかなければなりません。そうでなければ、神を恨み、人を憎み、いつまでも人を赦せないばかりか、自分の罪の赦しを得ることもできません。
自分は悪くないと頑なに思っている、自分の正しさの後ろ盾を得ることばかり追い求めて、人を赦そうとしない私たちの態度が、神の目からすれば「罪あり」なのです。
だから聖書は、「正しい者はいない、一人もいない」と言います。神のもとに行って、神の掟と指示を求める時に示されることはそのようなことです。
しかし、「罪あり」とされた私たちが「罪なし」とされる方法、赦しに導かれる方法も同時に示されます。その唯一の方法こそ、イエス・キリストです。聖書は、私たちが「罪なし」とされるのは、私たちが正しいからではなく、キリストの義、キリストが正しいお方であることによってであると教えています。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章18−19節
イエス・キリストが唯一正しいお方であり、そのキリストを信仰によって受け入れるのです。私たちは、自分の救いのために、罪の解決のために、自分でできることは何一つありません。しかしイエス・キリストは、私たちの罪の責任を取り、罪の赦しと救いのために命を捧げてくださいました。私たちが自分の力で罪を克服して罪に勝利したら罪なしとされるのではなく、キリストが私たちのために罪を克服して罪に勝利されたことを信じ受け入れるなら、「罪なし」とされます。
私たちは、何か良い結果を出せば認められ、そうでなければ認められないという社会で生きているので、罪の赦しに関しても同じように理解してしまいます。罪を犯さなくなれば救われる、もっと頑張らなければ神に受け入れてもらえないと考えてしまいますし、正直その方がわかりやすいです。
しかし神は、イエスが私たちのために罪に勝利してくださり、私たちが罪深くてもその勝利を信じ受け入れるなら、イエスの勝利を私たちのものとしてくださいます。そのことを、信仰をもって受け入れるとは、神の業に同意して、信頼することです。ですから、自分の罪を告白し、悔い改めて神の前に出て行くことが大切なのです。

苦しく辛い自分の問題、他者との争い事などを抱えて神の前に出た私たちを、神は喜んで迎え、じっくりと話を聞いてくださるでしょう。それと同時に、自分の正しさの後ろ盾を得ることばかり考えている私たちに、神は「神の掟と指示を知らせる」、つまり私たちの罪を示して、悔い改めを促します。そして、イエスの十字架によって私たちの罪を赦し、新しく造り変えてくださる神の業に同意して信頼せよと言われます。
私たちが覚えておかねばならないのは、神のやり方はどのようなものか、ということです。それは、自分の正しさの後ろ盾を得ることでもなければ、速やかな問題の解決でもありません。神はむしろ私たちの問題の解決よりも、問題を通して私たちが神と歩み、神との人格的な交わりに入ること。
神を愛せない、人を愛せない、人を赦せない罪に向き合わされることによって失望し、諦め、開き直るのではなく、神を愛し人を愛する生き方を身に付けるためにはイエスが常に必要なのだと、私たちが心の底からイエスを必要とするようになるために、時間をかけて導いていくのが神のやり方です。
そんな時間がかかる上に苦しい思いをしなければならないなんてまっぴらごめんだ、と思うでしょう。しかし神があえてそのような方法を取るのは、神は愛だからあり、神は愛をもって私たちを導き、造り変えようとなさいます。自分の罪の問題を知り、努力して乗り越えようとしても、自分の力で罪に勝利しようとしても無理だと知ります。
そのような時に、イエスの勝利を私たちのものとして与えてくださり、私たちを造り変え成長させてくださる神の業に頼り続けるなら、私たちに寄り添い、罪を示して悔い改めに導き、時間をかけて導いてくださる神の愛に触れることができるでしょう。