救い主の必要【主また救い主キリスト】#1

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救い主また主―今日の多くのクリスチャンは「付帯条件なしの」救い主を求めています。彼らは義務の伴わない救いを望んでいます。彼らはクリスチャンの名を口にするかもしれませんが、結局のところ、その救い主は自分で作り出したものです。天使は確かにヨセフに次のように言いました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタ1:21)。しかし、天使はまたベツレヘムの丘の上で羊飼いたちに次のようにも言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)。

ほかにも多くの新約聖書の聖句がイエスを救い主としてよりも主として言及しています。救い主としてのイエスを受け入れながら、主としてのイエスを否定することはできません。使徒ペトロはイエスを、「わたしたちの主、救い主イエス・キリスト」(Ⅱペト1:11)と呼び、使徒パウロは私たちに、「主イエス・キリストが救い主として来られる」(フィリ3:20)のを待つように勧めています。

今週(テーマ「主また救い主キリスト」)は、イエスを救い主また主として受け入れることの重要性と意義について考えます。

使徒パウロはローマの信徒に対して次のように警告しています。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(ロマ1:18)。神の御心と神の御言葉に対する反逆には、必然的な結果が伴います。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)。

問1 ローマ3:9 ~ 26 を読んでください。パウロはどんな重要な点を強調していますか。

人間はみな自分を他人と比較して優越感にひたる傾向を持っています。私たちは、自分自身も同じ罪人であることを忘れて、自分よりも悪い罪人に目を向けます。自分を正当化する行為も、自分が堕落していることを示す証拠です。使徒パウロの言葉は一切の弁解を許しません。すべての人が罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっています。私たちは皆、聖なる神の前に罪ある者です。周囲の世界を見回してみれば、私たちがいかに罪深い者であるかがわかります。

問2 人間が罪深い存在であることを示す証拠をあげてください。どこまで行けば、それを見つけることができますか。

罪と罪の結果は私たちの周囲にあふれています。私たち自身のうちにもあります。わざわざそれを他人のうちに求める必要はありません。罪のあらゆる証拠は自分自身のうちにあります。これがパウロの議論にほかなりません。自分自身のを含めて、すべての人の口が神の前にふさがれています。

◆ あなたの生き方に目を向けてください。あなたのうちに、神にほめられるものがありますか。恵みと赦しに満ちた神から望みを得ない限り、自分をながめることが希望がないことを悟る一番の方法であるのはなぜですか。

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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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