うつ状態からの回復【心が愛で満たされるとき】#7

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目次

シャロンの回復

シャロン(仮名)は夫が亡くなった時、75歳でした。彼女は50年前、娘を出産して産後うつ病で苦しんだのですが、その時と同じ症状を夫の死後に発症しました。深い悲しみに加えて、元気も食欲もなく、熟睡もできないと、彼女は訴えました。

以前好きであった日課もできないと思うようになり、夫が責任をもってやってくれていた銀行との取引、保険、車の維持管理といったことも重荷に感じられ、打ちのめされそうでした。加えて、宗教はいつでも彼女にとって大切なものでしたが、もう祈る気持ちがわいてきません。

シャロンはうつ病の大変な苦悩を和らげるために薬が必要であることがわかっていましたし、薬を得るために医者にかかることに異存はありませんでした。

けれども彼女は、精神疾患の内服薬が彼女の問題の完全な解決にはならず、カウンセリングが必要であることもわかっていたのです。彼女が会った医師は、彼女に合った薬を探す手助けをし、幅広く年配の人たちの治療にあたってきた優秀なカウンセラーを推薦してくれました。

この中年の女性カウンセラーは温厚で同情的な人で、シャロンは毎週会うのが好きになりました。シャロンは過去と現在の生活、今まで味わったあらゆる感情について話すことができました。このセラピストは優れた聞き手であり、シャロンがもっと話をするのに励みとなる質問の仕方を心得ていました。

聞いてくれる人がシャロンのことを心配してくれ、話も内密にしてくれるという確証があったので、シャロンは話していくうちに症状が改善していきました。自信が芽生え、未亡人として必要な新しい仕事に取り組みたいという願いが起きてきました。

外出したり、人と関わったり、食事をしたりすることが再び楽しくなり、不眠症からも立ち直りました。カウンセラーが送ってくれたボランティアは、かつて夫がしていた書類事務をシャロンが理解できるように助け、規則的に訪問しては彼女がきちんと管理しているかどうか確認しました。

シャロンは症状に少し改善が見られると直ぐに、また祈りと聖書通読を始めましたが、これらも彼女の改善に大きな助けとなったのでした。

壁にもたれかかり、お祈りしている女性の画像

うつ病の割合

うつ病に陥る人の数は、第二次大戦以来、劇的に増加しています。うつ病は現在ではごく普通の精神障害です。世界保健機構は、2020年までに心臓病に次いで世界で二番目に多い病気になり、およそ1億2100万人の患者が出ると見積もっています。米国だけでも、女性の10パーセントから25パーセント、男性の5パーセントから12パーセントを占めています。①

この問題は、悩み苦しむ人の側で暮らす無数の家族や友人とともに、あらゆる年齢、階級、民族、背景の人たちに影響するのです。

深刻なうつ病の症状には、気落ちした気分、好きなものへの興味や楽しみの消失、無気力、食欲不振、睡眠障害、運動遅滞、自尊意識の低下や罪悪感、認知的限界、自殺念慮や自殺行動が含まれます(深刻なうつ病にかかっているおよそ10パーセントから15パーセントの人たちは、自分の命を絶とうとします)。2週間以上にわたり、このような症状が5つ以上続く場合、その診断は確実度が高くなります。3つか4つの症状がある場合でも、正式にうつ病とは判定されませんが、その人は憂うつな気分になります。

宗教とうつ病

かつて多くの世俗の心理療法士は、宗教はうつ病の原因だ、とよく非難したものでした。

宗教は人々が守り得ない規則を課し、人々の内にある善意を最小限に評価し、自尊意識を完全に損なってしまうから、罪悪感を覚えやすい信者がうつ病で苦しむのだと、彼らは主張したのです。

このような見方はかなり修正されてきました。過去20年間、宗教が及ぼす身体と精神(うつ病を含む)への好ましい効果についての大規模な研究がなされ、宗教がもたらす恩恵というものは今やかなり定着しています。②

例えば、内科医、老人専門医、老人看護師のための医学雑誌である『老年医学(Geriatrics)』の最新号には、「高齢者の不安とうつ病のケアを改善するための宗教と霊性の導入」という記事が含まれていました。③ 

著者は、高齢の患者と宗教的・霊的活動について話し合うことの恩恵を示す証拠を論じるとともに、宗教・霊性を彼らの治療法に組み入れる具体的な方法──感謝の思いを促すこと、赦しを奨励すること、痛みと怒りを忘れるように患者に求めること、もしうつ病によって宗教行事への出席が中断されていたらそれを再開するように患者に勧めること──を提案しています。

この医学雑誌にはこの記事と一緒に、米国内科学会が提供する祈りと霊性に関する継続教育プログラムへの出席を医師たちに呼びかける広告まで載っているのです。

お祈りしている男性の画像

宗教はうつ病や他の問題の防止に役立ちますが、それはある条件下においてのみ有効なのかもしれません。

英国に住んでいた時、私はブリストル大学のモンターギュ・バーカー博士が行っている健康と宗教の研究について聞いたことがあります。その大学は車で2、3時間行ったところにあったので、同僚の一人と私は、彼の講義を幾つか聞くために、ある日そこへ行ってみました。

彼は、当時出ていた多くの研究の成果を報告してくれたのですが、それらの研究は、宗教的習慣と精神的・情動的・行動的健康(うつ病や不安の発生率の減少、希望に満ちた考え方、犯罪行為や物質依存の危険性が低いことなど)とのつながりだけでなく、宗教的習慣と身体的健康(より長い寿命、動脈硬化や心臓病の危険性が低いこと、病気の早期回復など)とのつながりを示すものでした。

しかし、バーカー博士の指摘によれば、このような恩恵に浴するのは宗教にしっかり関わっている人であって、名目上の信者ではないといいます。それどころか、宗教にしっかり関わっていない、時折教会へ行く人は、教会へまったく行かない人よりもわずかな恩恵しか得ていなかったのです。

聖書におけるうつ状態の人々

聖書には、聖書中の人物がうつ病に苦しんだと断定できるだけの、症状や発症に関する詳細な記述が含まれていません。しかし何人かの人物の症状は、おそらく、今日理解されているうつ病の診断基準を満たしていたであろうと推測させます。

聖書にはこのような例が残されているので、神が過去の男女になされたように、今日、失意を経験している人たちをいかに助けてくださるか、洞察を得ることができるのです。二、三、その例を考えていきましょう。

大きな聖書の中を懐中電灯を持って探検している人のイメージ画像

ハンナ

サムエル記上1章は、ハンナの感情の様子をみごとに描いています。彼女の深い失意を明白に物語る多くの事柄が示されています。

主はハンナの胎を閉ざしておられました(1の5)。その文化的文脈において、母親であることは神の祝福の明らかな象徴であり、母親でないことはのろいの象徴であったのです。ハンナは自分の身の状況から、罪悪感と劣等感を覚えていたものと思われます。この二つの感情はうつ病患者に見られる典型的な感情です。

ハンナとペニナの母親としての違いから、ハンナは悔しい思いをしましたが、なおその上にペニナは、律法によって自分の長男は二倍の財産を受ける(申命記21の15~17参照)ということを知っておりながら、あえてハンナを挑発しました。

ペニナの行為を充分理解するには、2人の妻の夫エルカナがペニナ以上にハンナを愛していた点を思い起こす必要があります。これは一夫多妻制家族における典型的でやっかいな問題です。

ハンナは不妊のことで激しく泣きました(サムエル記上1の7、10)。ハンナはペニナの挑発行為があって泣いたとも言えますが、宮で祈っていることを考え合わすと、ハンナの悲しみは他のことに端を発していたとも言えます。泣くことはうつ病の最も一般的な症状です。

ハンナは食事をしようとしませんでした(1の7)。食欲不振はうつ病によく見られる特徴であって、いらだたしさを覚えたエルカナが「なぜ食べないのか」と尋ねていることからも、ハンナは一度のみならずその兆候を示していたに違いありません。

ハンナは魂の苦渋を味わいました(1の10)。ハンナの深い悲しみは、今日、私たちが抑うつ気分と呼んでいるものであったかもしれません。エルカナが、「なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか」(1の8)と尋ねることで、ハンナの気持ちを理解してくれていないとわかった時、彼女の抑うつ気分は一層ひどくなったのかもしれません。

ハンナは「はしための苦しみ」(1の11)と語り、自分は「深い悩みを持った女」(1の15)であり、「訴えたいこと、苦しいことが多く」(1の16)あると言っています。このような表現は、臨床的うつ病を特徴づける深い悲しみを指しているようです。

ハンナの問題に解決が見え始めたのは、エリの慰めに満ちた言葉によってでした。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」(1の17)。悩み抜いた表情に変化が表れ、彼女は食事をしたと、聖書は伝えています。要求がかなう前にハンナの精神的癒しが与えられたことに注目してください。最終的に、彼女の深い思いがこめられた祈りは答えられ、彼女は最も偉大な預言者の一人の母親となる特権を与えられたのです。その後さらに、三人の息子と2人の娘も与えられました(2の21)。

エリヤ

神の介入により、逆境のただ中に起きた大きな奇跡を通して、エリヤは素晴らしい一連の勝利を経験しました(列王記上16~18章)。ところがその後、預言者の感情は沈んでいきます(19章)。

バアルとの厳しい戦いに勝利し、エリヤはさらに最終の戦いに臨むことができるはずでした。しかしその代わりに、彼は激しい恐れを経験し(19の3)、逃げ出したのです。悪との長い戦いのあとに、神がエリヤに対する死刑執行令状をお許しになった時、神は自分を公正に扱っておられないと、彼は思ったのかもしれません。

エリヤは、命を取ってほしい、と神に祈りました(19の4)。死への思いはうつ病の人にとってごく普通のことです。ある人たちは自分の命を取ろうとし、実行してうまくいく人もいます。エリヤは自殺を試みませんでしたが、自分を悩まし続ける苦悩よりは死の方が望ましい、と考えたのでした。

エリヤは、イスラエルの人々が神の契約を退け、神の祭壇を壊し、神の預言者たちを殺したために、どれほど自分が落胆したかを2度語りました(19の10、14)。カルメル山での経験のあとにエリヤが抑うつ感を抱いたのは、このことが重要な原因であったに違いありません。

エリヤの症状に対する天来の治療は、天使が彼のために食事を調理し、さらにエリヤを身体が消耗するほどの旅路へと導いた時に始まりました。エリヤは、「静かにささやく声」で終わる神との遭遇を通して癒されることができました。イスラエルにはバアルにひざまずかなかった者が七千人いる、という神の確証(列王記上19の18)も、残っている忠実な者は自分一人だと思っていたエリヤにとって、治療効果があったに違いありません。

ダビデ

イスラエルの羊飼いであり、王であったダビデは、70歳で亡くなりました。今日の標準から見たら、彼の寿命は特別に長いというわけではありませんが、波乱と興奮に満ちた生涯でした。

幼い頃からダビデは家族の中で最年少であり、のちにはサウル王の強迫観念による迫害の的であったので、大きな情緒不安に直面しました。ユダの王になってからも多くの精神的苦悩を経験し続けましたが、その頃の原因は、彼自身の誤りや敵の脅かし、家庭内の問題などでした。

詩編には失意の人にとって貴重な宝石である多くの詩が含まれています。一つには、そういった詩は豊かな言葉のゆえに人を引きつけますが、より大きな理由はそこに作者の心痛む経験があるからです。これらの詩において、ダビデは苦しむ者が必要とする慰めである愛の神について書きました。

ダビデ自身が、自分の人生経験や神との経験が他の罪人にとって役に立つであろう、と考えていたのです。

バト・シェバとの姦淫のあと、ナタンが彼のところにやって来た時、ダビデは詩を書いて自分の罪を充分認め、神に赦しを乞いました。彼は、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ」と祈り、「わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように」(詩編51の14、15)と言いました。

詩編42編に表されたダビデの精神状態を二、三考察しましょう。

ダビデの涙はおびただしいものでした。彼は、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」(42の4)であったと伝えています。文脈上、これらが悲しみの涙であったのは明らかです。過去の出来事がダビデを悩ませました(42の5)。当時、ダビデはおそらく亡命中で、宮での礼拝を懐かしく思っていたのです。

過去の追憶は、うつ病で苦しんでいる人たちをさまざまに悩ます傾向があります。ダビデは内なる苦悶を経験していました(42の6)。魂が「うなだれ」、「呻く」と言って、肉体の苦しみに匹敵する霊的な痛みを明らかにしています。

超えることのできない障壁がダビデを取り囲みます(42の7、8)。ダビデは騒がしい状況を表す隠喩として滝の激流を用いています。このような水は単に騒音をもたらすものではなく、乗り越えられない力を持つもの──彼を超えていく大波──なのです。

ダビデは、神が自分をお見捨てになったのではないかという印象を持っていました(42の10)。内なる緊張と敵の外圧により、ダビデは嘆き悲しみます。この試練は、うつ状態の多くの人たちがそうするように、神はどこにおられるのか、といぶかるような緊張なのです。

ダビデの感情的な苦痛は、身体的な症状を生み出しています。「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う」(42の11)。

ダビデは、必要としている社会的支援を受けませんでした(42の4、11)。人々を愛することは、失意を経験している人への癒しの供給源です。しかし、ダビデを取り囲む人々は彼を支援しないどころか、「お前の神はどこにいるのか」と問い続けるほど、まったく悪意に満ちていました。

ダビデの問題解決は神からのものですが、ダビデは率先して動く必要がありました。ダビデは、遠く離れた土地においてさえ神を覚え、神に希望を託し、悩みの時にも神を讃美する決心をします。その結果、主は、昼にはその愛をダビデに向け、夜には彼の心を歌でお満たしになったのです。そしてそれに応えて、ダビデは命の神へ祈りをささげています(42の9)。

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ヒゼキヤ

ヒゼキヤ王は多くのすばらしい出来事と神にのみ帰せられる勝利を目撃しました。その後、彼は死に至る病にかかり、イザヤの恐ろしい言葉によって運命が確定しました。「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい」(イザヤ38の1)。

しかし、ヒゼキヤは奇跡を求めて祈り、神はその祈りにお答えになられ、彼の寿命をさらに一五年間延長なさったのです。のちにヒゼキヤは、死を間近に感じた時に経験した感情の遍歴について書きました。その絶望の言葉はイザヤ書38章に記録されていますが、彼の断末魔の苦しみは声にならないかすかなものではありませんでした。

ヒゼキヤは涙を流して大いに泣き(38の3)、その痛みを獅子が自分の骨を砕く痛みにたとえています(38の13)。ヒゼキヤはつばめや鶴のようにすすり泣きの声をあげ、鳩のように呻き、その目は弱り果てます。

しかし、その苦悶の中で彼は神に立ち返り、祈ったのです。「わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください」(38の14)と。ついに神は、彼の祈りにお答えになったのでした。

エレミヤ

この預言者は、ネブカドネツァルがエルサレムを荒廃させた時に、同胞が経験した混乱を目撃しました。エレミヤがほんの「若者」にすぎなかった時(エレミヤ1の7)、神は彼を預言者としてお召しになりました。

しかし、同胞市民への彼の訴えは、価値のないもののように見えました。誰一人として神のご命令に従うことを望まなかったからです。それゆえにエレミヤは、イスラエルが勝利を勝ち得るのではなく、道徳的に崩壊し、物理的な破壊に苦しむのを目撃することになりました。

彼は、ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、町を略奪し、市民をバビロンに捕囚として連れ去るのを目の当たりにしたのです。エルサレムに残った人たちは、一緒にエジプトへ逃れるよう、エレミヤに強く促しました。エレミヤの哀歌は彼の苦悩を生き生きと描いています。

 精神的苦痛は外的なものと内的なものがあります(哀歌1の20)。エレミヤは自分の状況を「苦しみ」「裂けんばかり」「乱れ」といった言葉で表現しています。苦悩は外的な原因(「外では剣が子らを奪い」)のみならず、内的な原因(「内には死が待っています」)によっても生じてきます。

エレミヤは闇を経験しています(哀歌3の2、6)。自分の状況を説明する際に、頻繁にうつ病で苦しんでいる人たちは、光よりも闇の中にいる自分を思い描きます。エレミヤの感情的な苦痛は激しく、彼の身体的存在に影響しているほどです(哀歌3の4、16)。彼は老い行く皮膚と肉に気づくとともに、自分の骨と歯があたかも砕かれるかのように感じています。

エレミヤは苦悩から抜け出せないように感じています(哀歌3の5、7)。エレミヤは、「包囲して」「柵を巡らして」「重い鎖で……縛りつけ」「疲労と欠乏に陥れる」状態について語っていますが、これらの語句はうつ病の共通した特徴である望みのなさを伝えています。

エレミヤには支援してくれる社会的ネットワークがありません(哀歌3の14)。彼は自分の民の冷笑の的になっていますが、これは抑うつ状態の人たちが経験する最悪の結果の一つです。

彼の思いと記憶は否定的なものに向けられています(哀歌4の17~20)。エレミヤは、うつ病に陥りやすい人たちに共通して見られるもの、すなわち過去の陰うつな側面に焦点を合わせた記憶だけを伝えているようです。

これらの聖句は、エレミヤが神の素晴らしさへの意識とともに、神にある希望を失っていることを示しています。代わりに、エレミヤは自分の「苦汁」「欠乏」「さすら(い)」を思い出し、その結果、魂は沈み込んでいきます。

エレミヤが転換点に達した時(3の21)、彼は希望を抱き、神の慈しみと深い真実を認め、神を待ち望む決心をしました。なぜなら、「主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3の25、26)からです。

うつ病に対してどうすべきか

深刻なうつ病は、医学や心理学の専門家の助けを得て治療されるべき疾患です。自助手段は、この問題を防止するためにも、また、どのような治療法であれ、用いられる治療法を支援するためにも、極めて重要なものです。

完全に回復するには、うつ状態にある人と、時にはその人の家族の協力が必要になります。以下において、幾つかの自助手段と、聖書に見いだされるその背後の原則について、手短にご紹介しましょう。

話すこと 

落ちついた場所で心から関心を寄せてくれる人に話すことは、他の精神障害と同様、うつ病の治療においても、最も有効な方法の一つです。自分の感情を思い起こし、言い表す作業は、心の整理と安堵感をもたらします。

自由に話す治療時間を経ると、肉体的には何ら変化がなく、カウンセラーも直接的なアドバイスを与えていないにもかかわらず、うつ病に苦しんでいる人たちの考え方が改善します。自分の状況や気持ちを話し合うことで、脅迫観念ははるかに少なくなり、気持ちがはるかに和らいでいく傾向があります。

文章を書くエネルギーのある人たちは、書くことが極めて有益であることに気づきます。あるクライアントが、かつて私にこう言いました。「私が病と戦う苦しみの年月を乗り越えられたのは、経験している苦闘を日記に書き続けたおかげだと思うのです」。今日、多くの人たちはブログの治癒効果に気づいています。ブログは、人々が重荷を降ろせる場を提供し、関心を払ってくれる聞き手──アクセス可能な信頼できる友人──を与えてくれるのです。

祈り──神に信頼して語ること──も癒しをもたらします。信仰の人にとって、祈りは失望を逃れる道です。しかも、祈りに耳を傾けてくださるそのお方は、守秘義務を保証でき、細心の注意を払ってくださり、永遠に聞き手になってくださるお方なのです。

詩編39編においてダビデは、自分の思いを主に隠すこととの対比で、主に語ることで与えられる成果を述べています。「わたしは口を閉ざして沈黙し」ている時には「苦しみがつのり」(三節)、理解を祈り求めたあとでは、「わたしはあなたを待ち望みます」(八節)と、彼は神に語っています。

椅子に座って三人で話し合っている画像

社会的支援を探し求めること 

うつ状態の人々は孤立したままでいる傾向があります。そういうわけで治療計画には、彼らの必要と力に応じた活動プログラムがたいてい含まれます。専門家の論文には、うつ状態にある人たちを家から社会的状況に連れ出し、(理にかなった範囲において)活性化させる手助けをする人がいると彼らは回復する、という充分な証拠が記録されています。

このことが特にあてはまるのは、他の人たちを直接的あるいは間接的に助ける活動が含まれる時です。そのような活動は、たびたび心に思い浮かぶ思いや無力感を防いでくれるばかりか、他の人たちを助けることで得られる満足感や幸福感を増し加えてくれるのです。

こうしてうつ病を実際的に大いに防ぎ、パウロが与えた「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6の2)という道徳的要請を満たすことができるのです。

告白すること、赦すこと 

『暴露させる心臓』の中でエドガー・アラン・ポーは、ある人が一緒に生活している老人の殺害を計画し、実行する話を書いています。暗殺者は注意深く計画を実行したので、その犯罪の痕跡をたどることができる者はいないと思っています。彼は老人を殺すと、自宅の床下にその死体の各部を注意深く隠すのです。

翌日、三人の警察官が敷地を調べにやってきます。徹底的に調べますが、殺害の痕跡は見当たりません。警察官がその家を出る前に何気なく話していると、その殺人者はだんだん激しくなっていく心臓の鼓動を耳にします。

殺害された人の心臓の鼓動が床下から聞こえてくるのだ、警察官にもそれは聞こえているはずだ、と思い込んだその殺人者は、犯罪を告白してしまいます。しかし、殺人者が聞いていたその鼓動は、実際には自分の心臓の鼓動であり、恐れのあまり激しく鼓動していたのです。

(当然の報いとして)罪悪感を覚えているためにうつ状態にある人もいれば、他方では、他人の罪過を赦そうとしないために憂うつに感じている人もいます。告白すること、赦すこと、赦されることは、密接に関係しています。他の人たちを進んで赦そうとしない時、私たちは神の赦しを受けることができません。

このことは、少なくともイエスが私たちに教えてくださった祈りの中の一行、「負い目ある者を赦しますから、私たちの負い目をもお赦しください」を支持しています。詩編32編においてダビデは、赦しの重要性について書いています。

「御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(4、5節)。

適切に考える 

エール大学で訓練を受けた精神科医アーロン・T・ベック氏は、先の章でご説明した認知行動アプローチの基礎を築きました。

彼は臨床経験を通して、うつ状態のほとんどの人が自分自身に対して(「私はだめだ」)、世間に対して(「あらゆることが私の足を引っ張っている」)、あるいは将来に対して(「状況は決して改善しないだろう」)良く思っていない、と考えるようになりました。ベックはこのような態度を「破局的思考」と呼んでいます。

聖書はより良い考え方──より良い見通し、自分自身へのより肯定的な見方──を私たちに提供しています。人間は被造物への権限を持つとともに、神のみ姿にかたどって造られました。

罪によって損なわれているとはいえ、私たちの中には神の特徴が残っています。イエスが御自身を犠牲としてささげられたゆえに、私たちは新しい命と永遠の救いを得ることができます。神の恵みによって、他者に仕え、神の栄光のために偉大なことを達成する潜在的可能性が与えられているのです。

私たちは世界をどのように見るべきでしょうか。世界が悪く、堕落しているのは本当ですが、心に留めるべき良いこと、気高いこと、賞賛に値することが、まだたくさんあります(フィリピ4の8)。

さらに、悪の存在は認めても、最終的に悪は根絶されることを私たちは知っているので、失望することはありません。

私たちは未来をどのように見るでしょうか。私たちは将来多くの素晴らしい経験が与えられると信じることができます。聖書は、神が御自分の子どもたちを見守っておられるという約束に満ちており、救いの現実──「悩みの時の避け所」(詩編37の39 、口語訳)を強調しているからです。

たくさんの紙が貼られた壁の前で呆然と立っている男性の画像

望みを捨てないこと 

待ち伏せていたベトナム人に捕まった一人のアメリカ兵が、さまざまな方法で拷問を受けました。難儀を経た彼の状況は嘆かわしいものでした。いつ死んでもおかしくないほどでしたが、何とか生き延びていました。

すると、彼を捕らえた人たちが、ある指定された日に彼を自由にしてやる、と彼に言ったのです。その日が近づくにつれ、彼は元気になり、嬉しくなりました。しかし、解放されるはずだったその日、彼らは彼に、やはり自由にしない、と言ったのです。

彼らは意図的にアメリカ兵をだまし、決して自由にしませんでした。数日の内に、その若い囚人は亡くなりました。希望があったので彼は生き、希望がなくなったので彼は死んだのです。

ミカ書の最後の章で、預言者ミカはイスラエルの歴史の中で完全な混乱期の特徴──飢饉、暴力、欺き、腐敗、憎悪、虐待、家族の恥辱、隣人の不信──を描いています。

しかし、こういったあらゆる逆境の最中に、ミカは希望に満ちてこう書いています。「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(ミカ7の7)。

もしあなたが失望していたら、聖書の約束に希望を置いてください。社会のあらゆるレベルの災難の時──ミカが経験したような時──にも、あなたは「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」(詩編34の19)という確証にすがることができるのです。

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