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使徒ヨハネは次のように述べています。「言[イエス・キリスト]は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1:11)。多くの人が彼らの救いのための神の完全な計画を受け入れなかったのは、イエスが自分たちの待ち望んでいたメシアでなかったからです。しかし、使徒ヨハネはこうも述べています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハ1:12)。多くの人はこの証しを読みますが、その真の意味を理解していません。神の小羊、イエス・キリストを通して神の完全な救いの計画を受け入れるとき、私たちはイエス・キリストを救い主として受け入れるだけではありません。イエス・キリストを主として受け入れるのです。
サウロの回心やアナニアとのやり取りを読むと(使徒9:1 ~ 19)、イエスを救い主また主として受け入れるとはどういう意味でしょうか。
復活の主にお会いしていることを悟ったサウロが最初に言ったことは、「主よ、私に何を信じろと言われるのですか」でもなければ、「主よ、私に何を話せと言われるのですか」でもありませんでした。むしろ、「主よ、私に何をせよと言われるのですか」でした。サウロがここでイエスを「主」と呼んでいるのは、イエスがどなたであるかを悟ったとき、イエスに従う必要があることを認めたことを示しています。そこで、主から「立って、行きなさい」と言われたとき、サウロは立って、行ったのです。アナニアも同じように応答しています。最初、彼は主イエス・キリストと[サウロに関する]主の判断をめぐって議論しています。しかし、主から「行け」と言われたとき、彼は出かけて行きます。ここで教えられていることは明らかです。イエス・キリストを主と告白するとき、私たちは自分の人生に対する主の絶対的な権威を認めるのです。
イエス・キリストを救い主また主として受け入れるとき、私たちはキリストに従い、その結果、私たちの生き方は根本的に変わります。私たちは行いにおいて、服従において、信仰生活において変えられます。
『ペトロの手紙Ⅱ』を読んでください。主イエス・キリストに対するさまざまな呼び方に注意してください。この手紙は初めと終わりにおいてイエス・キリストを私たちの救い主また主と呼んでいます。聖書の中には、イエス・キリストを救い主また主として受け入れることに戸惑いを感じていた人たちがいます。たとえば、次のような人たちです。
・ニコデモ(ヨハ3:1 ~21、7:50 ~53、19:39 ~42)
・金持ちの青年(マタ19:16 ~26)
・ザアカイ(ルカ19:1 ~10)
・トマス(ヨハ20:19 ~29)
これらの人たちが戸惑いを感じていたのはどんな理由からだと思われますか。各人の立場に共通した要素がありますか。
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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。