忠実に十分の一を返す【財産の主】#37

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主は御自分の僕モーセを通して次のようにお命じになりました。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」(レビ27:30)。「聖なるもので主に属す」という表現は、聖という思想が「聖なる目的のために区別する」という意味であることを理解するときにさらに明らかになります。それは、十分の一がほかの目的のためではなく、主のために聖別される、つまり特に主と主の目的のために用いられることを意味します。それは特別なもの、「穀物であれ、果物であれ」、ほかのものとは異なるものです。

マラキ書3:8 ~ 10 を読んでください。神が十分の一を払わないことを偽り[口語訳では盗み]と呼ばれるのはなぜですか。このことは十分の一の所有者に関して何を教えていますか。

聖書の中に、十分の一の原則のさまざまな側面を見ることができます。アブラハムはいと高き神の祭司メルキゼデクに十分の一をささげました(創14:20 参照)。このことは新約聖書の『ヘブライ人への手紙』でも強調されています(7:2 参照)。ヤコブも十分の一の思想を理解していました(創28:22 参照)。さらに、出エジプト後、神は十分の一の律法を聖なる制度として再確認しておられます(レビ27:30 ~ 32、民18:24、26、28、申12:6、11、17 参照)。

「アブラハムはすべての信じる者の父であるゆえに、クリスチャンにとって十分の一をささげることの模範である。アブラハムがいと高き神の祭司メルキゼデクに十分の一をささげたのと同じように、新約時代の信者はメルキゼデクと同じような私たちの大祭司キリスト(ヘブ5:9、10、7:1 ~22)に十分の一をささげるのである」(『アドベンチストの信仰』469 ページ、改訳)。

コリントI の9:11 ~ 14 を読んでください。パウロのこれらの言葉は、教会に十分の一をささげることの背後にある重要な原則を理解する上でどんな助けになりますか。

◆ 十分の一をささげることはどんな意味で、私たちのすべての持ち物が神から来ることを認めていることの目に見えるしるしですか。それはどんな意味で重要な信仰の行為と言えますか。

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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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