礼拝の心【礼拝の主】#53

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「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(29 節)とはどんな意味でしょう。(参考:ヨハネ4:23、24)

歴代誌上16:8 ~ 36

聖書における聖とは、「聖なる目的のために何かを聖別する」ことで、時間と自分自身を神との特別な交わりのために聖別することです。それは、「神が偉大であり、私たちが取るに足らない者である」ことを認め、救いがただキリストの義に依存していることを認めることです。すべての労働、娯楽をやめて、すべてのものの源であるお方に心からの賛美と崇敬をささげることです。主は十字架によって、天国の門を開いてくださいました。

しかし、まことの礼拝は単なる形式や賛美、儀式以上のものです。真の意味でそれは、慈愛に満ちた神と、神がイエスによって成し遂げてくださった偉大な御業とに対する私たちの感謝の表現です。ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(I ヨハ5:3)と言っていますが、神を礼拝することによって神に対する愛を表すのです。神を礼拝することは、神の掟を守ることとは異なった方法ではありますが、愛の表現にほかなりません。私たちが「霊と真理をもって」主を礼拝する時が来るとイエスが言われたのは、このような意味においてでした。

上記のことを念頭において、イエスが神殿で商人を追い出された動機について考えてください。

ヨハ2:13 ~ 16

定期的に行われることは何でもそうですが、礼拝も機械的で、型にはまったものになる危険性があります。ひとたび霊と真理をもって、つまり神と神の御業に対する心からの愛と感謝をもって神を礼拝するのをやめると、私たちの礼拝は不健全な方向に向かう可能性があります。イエスの時代における神殿の儀式が冷たい、形式的で事務的なものとなっていたように、私たちの礼拝も単なる娯楽と社交の場になりかねません。主はそのような民について次のように言われます。「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ」(イザ29:13)。

◆ 心を喜びで満たし、信仰を強めてくれる礼拝の経験もあれば、逆にみじめで、失望する礼拝の経験もあります。この違いはどこから来るのでしょう。

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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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