「ラザロ、出てきなさい」【イエスの奇跡と大争闘】#45

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兄弟ラザロの病状が悪化すると、マリアとマルタはイエスに助けを求めます。彼らはイエスの奇跡について聞いていたかもしれません。あるいは、イエスの奇跡を実際に見ていたかもしれません。3 節には、イエスとラザロが特に親しい関係にあったことが暗示されています。ここで「愛しておられる」と訳されている語は、「評価する」「尊敬する」「重んじる」という意味です。

「ラザロを死人の中からよみがえらせることによって、頑固で不信な民に、ご自分がほんとうに『よみがえりであり、命である』という別な証拠をお与えになるために、キリストは出かけるのを延ばされたのであった(ヨハネ11:25)。主は、イスラエルの家の迷えるあわれな羊である民について、望みをまったく放棄することを好まれなかった」(『各時代の希望』中巻343 ページ)。

「もしキリストが病室におられたら、サタンはラザロに権力をふるうことができないので、ラザロは死ななかったであろう。生命を与えるおかたであるイエスのおられるところでは、死は、ラザロをめがけて矢を放つことができなかったであろう。そこでキリストは離れておられた。主は敵に権力をふるわせておかれたが、それはご自分が敵を征服して撃退されるためであった」(同342ページ)。

サタンの両極端―人々を両極端の考えに走らせるのはサタンのいつものやり方です。だれもが関心を抱いている死の問題についてもそうです。

 極端1―死は無に帰することであるから、生きている間人生を愉快に過ごすのが一番よい。

 極端2―人間は生まれながらにして永遠の要素を持っており、たとえ死んで肉体が朽ち果てようとも、この永遠の要素は存在し続ける。したがって、この世でどんな人生を送ろうとも、人間は永遠に生き続ける。

どちらを信じようとも、その人にとってイエスは必要でありません。真理とは対照的に、偽りはさまざまな側面を持っています。

神は全能の方です。神の全能が奇跡を可能にしました。しかし、利己的な人間は自分の思い通りに神の全能を用いたいと願うのです。そのような意味で、奇跡がいつも神の御心に沿って起きるのは幸いなことです。奇跡が神の恵みとして感謝されず、あたり前になってしまう危険性があるためです。神にいつも大きな期待を寄せることは大切です。しかし時に、その期待がその通りにかなわなくても、神の私に対する恵みはいつも充分であることを覚えたいものです。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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