ウィクリフとフスの活躍【ボヘミアの宗教改革】

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マグナ・カルタ(大憲章)という背景

マグナ・カルタは800年前、ラニーミードで調印されました。

これには行政と宗教の両方にとって、またイングランドと全世界にとって、重要な意味があります。

このマグナ・カルタが調印された背景には、イングランドの王とローマ教皇との間の緊張関係がありました。ロンドンとカンタベリーの司教を任命する権限を巡る問題があったのです。

時のイングランド王である、ジョン王は力の弱い王でしたが、対する当時のローマ教皇、イノセント3世は強大な権力を誇った教皇の一人でした。

そのために、最終的にこの戦いは教皇の勝利で幕を閉じます。王は男爵家の支持を得ることができなかったのです。王が彼らと争っていたからです。

とうとう、ジョン王は1213年にローマ教皇庁に降伏し、王冠を足元においてまで、服従の意をあらわすことになりました。

加えて、ジョン王は年間1000マルクの支払いも承諾しました。さらには後継者がその契約を破った場合には、王国内のすべての権威を明け渡すことに同意したのです。

イングランドは屈辱を味わいました。

男爵たちは、この王を見て愕然とし、行動を起こしました。彼らは決して教皇の奴隷になるつもりはありませんでした。

国家主権の問題と精神的利益が換金される問題が生じる可能性があり、この出来事がその問題に通じる一歩になることを、彼らは心から恐れました。

ローマ教皇が自分の望む人物を王座につかせ、国家の問題にも権力を及ぼすことを恐れていたのです。

これらが主な理由となって、1215年6月15日にマグナ・カルタが署名されました。

マグナ・カルタ(大憲章)の署名の様子

マグナ・カルタの影響

さて、この憲章の第1条にはこうあります。

「イングランド教会は自由であり、その権利を完全に保持し、その自由を侵害してはならない」

この問題は以後150年にわたり、続いていくことになります。ローマに納める金銭は徐々に失効し、不定期になっていきました。

これが主な理由となって、ジョン・ウィクリフとローマとの間に不和が生じたのです。

またマグナ・カルタのもう一つの重要な側面は、それが制定された法の基礎であるということです。

つまり、王と立法者は彼ら自身が定めた法律に従うのです。また、被告人の権利が認められ、仲間の陪審員が審査に携わりました。マグナ・カルタの理念は、市民が(現代における私たち)が市民的自由を大切に守ることです。

こうした数々の法律は、現代における法律と正義の基礎を形成しています。事実、マグナ・カルタの原則の多くは、アメリカにおける憲法と権利章典の基礎となりました。

実際、記念碑はABA(アメリカ法曹協会)が費用を負担したのです。

現在、マグナ・カルタ憲章の原本は4つ残っています。

1つはリンカーン城。もう1つはソールズベリーのセント・メアリー大聖堂に、残りの2つは大英図書館にあります。

ジョン・ウィクリフ:宗教改革の開けの明星

ジョン・ウィクリフは、しばしば「宗教改革の明けの明星」と呼ばれていますが、「明けの明星」とは惑星や星を表す言葉で、日の出前に空で明るく輝く星です。

英語で「宗教改革の明けの明星、最初に聖書を英訳した人物」と書かれた石柱

宗教改革の150年ほど前に、登場したのがジョン・ウィクリフでした。マルチン・ルターやジョン・カルヴァン、ツウィングリ、また英国の改革者たちよりもさらに前の人物です。

このウィクリフの働きは、道ならしをするものでした。

彼は「改革者」という言葉が広まる前からあった、ただひとつの時代の変革の声でした。オックスフォード大学で教育を受け、学者であり、無類の論客であった彼は、聖書へ立ち帰るようにと呼びかけたのです。

学生時代には、修道士たちの怠惰な生活を糾弾したために、ローマ・カトリックの不興を買ったこともあります。彼は市民と宗教自由の擁護者として立ち上がっていったのです。

彼の時代に、ウィクリフは初めてローマを名指しして、「反キリスト」と糾弾していきました。

このために、カンタベリー大司教はローマからの勅令を受け、ジョン・ウィクリフの著作を調査に乗り出しました。しかし、オックスフォード大学での彼の地位と民衆からの好意により、この勅令が実施されることはありませんでした。

おそらく、ジョン・ウィクリフにとって、最も大きな助けとなった出来事は1378年のローマ教皇庁分裂でした。2人の教皇が存在し、自分が正しい教皇だと主張しあったのです。

このような混乱の中にあって、ジョン・ウィクリフは、比較的平和な環境に身を置いて、自分のなすべきことを前に進めることができたのです。

ジョン・ウィクリフは説教の力を信じていました。

彼はロラード派と呼ばれる人々を訓練し、福音宣教のために国全体へと送り出していきました。

しかし、彼の最大の功績は聖書の翻訳です。

今日、わたしたちはその重要性を理解できないかもしれませんが、当時の社会では民衆の言葉で聖書を読むことは、ラテン語への反意として異端視されており、禁止され、危険視されていたのです。

ラテン語聖書の画像

ウィクリフの時代のある教会指導者は、彼の翻訳を評して次のような言葉を残しています。

福音の真珠は豚の前に投げ出され、踏みつけられてしまった。
かつては非常に崇高であったのに、聖職者の高価な宝石は一般信徒の娯楽と化してしまった。

しかし、ウィクリフはこう宣言しています。

キリストとその弟子たちは、民衆に最もよく知られている言葉で教えた。確かなことはクリスチャン信仰の真理がより明らかになり、信仰がさらに広まることである。
ゆえに教理はラテン語だけでなく、一般的な言語で書かれるべきである。

ジョン・ウィクリフは、聖書の最初の翻訳を完成させました。それは標準ラテン語共通訳から英語へ訳されたもので、けっして完璧な翻訳ではありませんでした。

しかし、この聖書は闇であったところに光をもたらしました。  

聖書がひとたび読まれると、一つのことが可能になります。その光は霊的な暗闇を突き破るのです。当時のイギリスやヨーロッパを覆っていた闇に、今や光が輝き始めました。

これは後の宗教改革へと続くものとなり、止められない流れとなりました。

御言葉が開かれると光が射し出で
無知な者にも理解を与えます(詩編119編130節)

ウィクリフの没後30年して、ドイツのコンスタンツ公会議は彼を異端者に認定し、骨を掘り起こして灰にするように命令をくだしました。

彼の灰はスウィフト川に投げ捨てられることになります。しかし、彼がキリスト教会に残した「聖書」という最大の賜物は、全世界へと影響を与えることになるのです。

ウィクリフの影響 ーフスとジェロームー

「火花が散れば火がつく」という歌がありますが、ヨーロッパの一角に落ちた火花は、またたく間に他の地域へと拡がっていきました。

ジョン・ウィクリフはイギリスだけでなく、ヨーロッパ各地、そして特にプラハとボヘミアに大きな影響を及ぼしたのです。

ジョン・フスの生まれは貧しく、生まれてすぐに父親を亡くしました。しかし、母親が教育熱心だったこともあり、彼は奨学生としてプラハ大学に入学することができました。

フスと共にプラハに着いた母親は、彼の人生に主の祝福があるようにと祈りました。その祈りは何度もかなえられることになります。フスはすぐに頭角を表し、学問にはげみ、清く正しい生活を送りました。学業を終えた彼は聖職者となり、そこでもすぐに才能を表しました。

やがて、彼は王室付きの聖職者に任命されます。わずか数年の間に、国の誇りと呼ばれるまでになり、彼の名前はヨーロッパ中に知れわたりました。その証拠に、彼を記念する像が、旧市街広場に建てられました。

広場に立つヤン・フスの像

司祭となって数年後、フスはプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者に任命されました。この礼拝堂の創設者が重きを置いていたのは、民衆の言葉で聖書を説くことでした。当時、ほとんどの民衆は聖書を理解していなかったからです。

フス自身も、民衆の言葉で聖書を教えることが、極めて重要であると考えていました。この頃フスは、ジェロームと出会います。生涯彼の右腕となった人物です。

ジェロームはプラハの市民で、イギリスを旅行したときにジョン・ウィクリフの著書を持ち帰っていました。

当時のイギリス女王もジョン・ウィクリフによって改宗していました。ボヘミア王女でもあった彼女の影響により、ウィクリフの著作はボヘミア中で読まれるようになりました。フスもそれを読み、ウィクリフは誠実なキリスト教徒であり、その著作が真理であることを認めたのです。

フスの影響は拡がり続け、彼の故郷だけでなく、やがて隣国ドイツにまで及んでいったのです。プラハでのフスの働きの知らせはローマ教皇庁にも届き、ついに彼はローマ教皇の前に召喚されることになります。

命に関わる事態でした。

ボヘミアの王や王妃、貴族や政府は、地元ボヘミアでの裁判を要請しましたが、彼らの訴えは退けられました。

フスの裁判は、彼不在のまま進められ、ローマ教皇の勅令によって、プラハの街は封鎖されてしまったのです。

この出来事は市民の心に恐怖を植えつけました。教会での礼拝が禁止されただけでなく、バプテスマや葬儀、結婚式といった市民生活にとって重要な儀式までもが、禁止されてしまったのです。

民衆はローマの圧政下に置かれることになりました。フスは都市の混乱を避けるために、生まれ故郷の村に隠れ住みました。しかし、困難の中でもフスは周辺の農村にでかけ、熱心な人々に聖書を伝え続けたのです。

危険と混乱が収束すると、ようやくフスはプラハに戻ることができ、再びジェロームと働くことができるようになりました。

フスの時代、ヨーロッパには三人のローマ教皇が存在しており自分こそキリストの代理人だと主張しました。

教会におけるこのような権力の乱用に、大勢が非難の声を上げていました。フスもその中の一人でした。

時の皇帝ジギスムントは、この争いに決着をつけるために、ドイツのコンスタンツに公会議を招集しました。これは新たな異端に対処するためでもあり、ヤン・フスのような赦されざる異端者を処分するためでもありました。公会議に招集されたフスには、安全な航路の確保が皇帝から保証されました。

フスの殉教

1415年、ドイツでコンスタンツ公会議が行われました。そこでは三つの重要事項が討議されました。

一番目は、ローマ教皇の分裂に関する討議です。

当時、教皇は三人も存在し、それぞれが自分こそ真の教皇だと主張している状況がありました。この公会議で議論された結果、最終的に分裂は解決し、三人の教皇の後任が任命されました。

同じ公会議で、ジョン・ウィクリフの著作が異端であるという宣言がなされ、埋葬されたジョン・ウィクリフの骨を掘り返し、完全に焼却するようにとの命令がくだされています。

またこのとき、フスも公会議に召喚されました。彼は自分の信念を貫くために召喚に応じました。

コンスタンツに出発するとき、皇帝や教皇から安全な航海が保証されていましたが、フスは二度と友人たちに再会することはないと、彼らに惜別の言葉を残しました。

コンスタンツに到着して間もなく、フスは教皇と枢機卿の命により投獄されてしまうのでした。

有刺鉄線のフェンスの画像

当時、フスがコンスタンツにいるあいだに投獄されていた建物の一つは、現在、立派なホテルになっています。

フスの裁判はミュンヘンのコンスタンツで行われ、彼は24番通路に座っていました。

彼は信条を撤回するかと尋問されましたが、撤回するよりは死を選ぶほうがいいと答えたのです。彼は投獄され、ふたたび裁判に引き出されます。最後の裁判のとき、フスは皇帝を見つめながら宣言しました。

わたしは自らの意志でここに旅をし、皇帝の保証のもとでここに座ったのだと。

会衆の視線が皇帝ジギスムントに集まると、彼の顔は恥で真っ赤に染まりました。

ジェロームの葛藤

フスがコンスタンツに旅立つとき、ジェロームはフスの手を取って言いました。

「君に何かあれば、僕はすぐに君を助けに行く」と。

フスの投獄を聞いた彼は、安全な航路がなかったにも関わらず、急いでコンスタンツに向けて出発しました。しかし、到着してすぐ、自分にできることは何もないと悟ったジェロームはプラハに引き返すことになるのです。

しかし、その道中、彼もまた捕らえられてコンスタンツに連れ戻されてしまいます。すぐに彼を殺そうという人もいましたが、ジェロームは牢獄に入れられました。

そこで彼は深刻な飢餓に悩まされることになりました。彼らはフスの死だけでは不十分だと考え、ジェロームを生かしておきたかったのです。そこでジェロームにも信条を撤回を迫りました。

1年間投獄され、ひどい目に遭った彼は、疑心暗鬼に陥り、ついにはウィクリフの教えを捨て、フスの教えすらも捨ててしまいました。そして、カトリックの信仰を守ることを誓ったのです。

彼を処刑するのか、それとも公に忠誠を宣言させるのか、その論争が渦巻く中、ジェロームはふたたび裁判の場に呼び出されました。

しかし、ここでジェロームは前言を撤回するのです。彼は議会での演説の許可を求めましたが、拒否されてしまいました。ジェロームは立ちあがり、フスを支持することを再び誓いました。

そして彼はこう言ったのです。

「わたしの師であり、友人であり、聖なる殉教者であるウィクリフやフスにくだされた不条理な判決を認めたとき、この致命的な場所で私が犯した罪ほど、心に重くのしかかり、痛烈な自責の念を抱かせるものはありませんでした。心から告白します。死の恐怖に怯えた私は、彼らの教義を否定しました。今、ここに悔い改めの祈りをささげます。全能の神よ、私の罪をお赦しください。この罪はすべての罪の中で最も重いものです」

フス戦争

フスとジェロームの処刑はボヘミアでも国家的な騒動になりました。フスは忠実な教師として尊敬されていました。フスの死後、彼の著作は多くの人々の関心を集め、フス戦争がはじまります。フスとジェロームの死から4年後の1419年のことです。

教皇と皇帝が団結してフス派の運動を鎮圧する中で神は1人の救世者を起こされます。ツィスカはこの時代の最も有能な将軍のひとりで、ボヘミア軍の指揮官でした。1410年の戦いで片目を失望し、後年、もう片方の目も失明してしまいます。しかし、彼は勇敢に軍隊を率いて勝ち続けます。彼は戦争で一度も負けたことのない数少ない軍人のひとりです。天才的な軍人で戦車の原型を発明した人物です。

農民が中心の軍隊だったにも関わらず巧みな戦術を駆使しました。そして、神が彼らの味方でした。フス軍は、数でまさり、よく訓練された教皇軍を撃退しました。ツィスカは生涯で250以上の戦いを戦い、2度にわたる十字軍の攻撃に耐えました。ツィスカは戦場で最後を迎えたのではありません。黒死病を患ってしまったのです。彼は死ぬ間際も部下に指令を出し、自分も戦場に戻りたいと切望していました。彼は部下に自分の皮膚を使って太鼓を作るように命令し、彼らはその太鼓を手に持ち、たたきながら戦場に赴いたのです。

彼の後任にはプロコピウスが就任しました。彼も勇敢な指導者でした。ある面ではツィスカよりも有能でした。ボヘミアの敵は盲目の将軍が死んだことで、ついにフス軍に勝利できると考え、教皇派は別の十字軍を送り1427年にボヘミアに挑みますが、敗れます。その後、再び十字軍を送りますが、敗北しました。1431年、新教皇のもとで第5次十字軍がおくられました。教皇軍はまたしてもフス軍に大敗するのです。

教皇庁の偽り

教皇庁は武力制圧を諦め、外交に打ってでます。妥協案を成立させるため、良心の自由を提供するように見せかけて、実際にはローマの権力に覆る方法を考えていました。ボヘミア側は和平の条件として4箇条を明記しました。それらは

1.聖書から自由に説教できること
2.教会全体が聖餐のパンとぶどう酒を受けること、母国語で礼拝を行うこと 
3.すべての世俗的な役割や権限から聖職者を排除する事でした。
4.犯罪をおかしたなら聖職者でも民事裁判を受けなければならないと規定しました。

ローマ教皇庁はフス派の4箇条を受け入れましたが、それらを説明する権利、すなわちその正確な意味を決定する権利は皇帝と教皇側にあるとしました。この条件に基づいて条約が結ばれ、教皇庁は争いでは得られなかったものを偽りによって得たのでした。同時の解釈を条文に加える事で、ちょうど聖書にしたのと同じように真理をねじ曲げることに成功したのです。

これは歴史上、そして聖書の中でサタンが繰り返し行ってきたことです。彼は公然と正義に対抗する事が困難なときに妥協という戦術を試みます。私たちは注意深く賢く見極めなければなりません。サタンがどんな戦術を使おうと私たちは神の側に立つべきです。戦いの中にあっても、妥協を求められても、常に神の側に立つことができますように。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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