
プロテスタントとは?カルヴァン派とルター派の違いは?【よくある質問】
この記事のポイント
ルターとは何をした人?95ヶ条の論題とは?
宗教改革を進めていった第一人者がルターです。宗教改革の目的は、聖書の原点への復帰でした。
罪の意識に悩み、心の平安を望んでいたルターは、アウグスティヌス派の修道院に入ります。その後、修道院での生活が認められ、1507年司祭になり、1512年神学博士の学位を受けました。
彼はヴィッテンベルグ大学で教えるようになり、1516年から『ローマの信徒への手紙』の講義を担当します。その準備をしているときに、人の救いは行いによるのではなく、ただ神の恵みによって、信仰によって救われると聖書は教えていると、ルターは確信したのです。
1517年10月31日、ヴィッテンベルグ大学の城教会の扉に『95か条の論題』をルターは貼り付けます。この目的は、贖宥状(免罪符)販売についての公開討論を求めるものでした。
プロテスタントとは?
ルターは1521年に教皇から正式に破門されました。同じ年、ヴォルムス帝国議会で著作の撤回を求められましたが、彼はこれを拒否しました。その結果、ヴォルムス勅令によって異端者とされ、命の危険にさらされました。
その後、ザクセン公フリードリヒ3世によってヴァルトブルク城内で保護されます。彼はそこで聖書のドイツ語訳を完成させていきました。
1529年、皇帝カール5世はカトリックが唯一の正統の信仰であることを決議し、ルター派への弾圧を強めます。
これに対して、ルター派の人々などが抗議(プロテスト)し、このことから改革運動のグループがプロテスタントと呼ばれるようになりました。
1555年、アウグスブルグ講和条約が結ばれ、1648年のウェストファリア条約によって、この戦いにおける一応の結論が出ました。
わかりやすい!ルターの教えとカトリックの教えの比較
- 信仰義認
- ルター:救いは信仰のみによる
- カトリック:信仰だけでなく行為も救いに影響を与える
- 万人祭司
- ルター:聖職者と信徒の間に基本的区別はない
- カトリック:教皇のみが聖書の解釈権を持ち、聖職者は世俗の人々より優れている
- 聖書のみ
- ルター:聖書のみが信仰の基準
- カトリック:聖書に加えて、聖伝(教会の教えや教会会議の決定事項など)も信仰の権威
ルターとカルヴァンの違いは?
ルターの「信仰義認」の考えは、のちにカルヴァンにも受け継がれました。カルヴァンはこれらを体系的に整理しました。その結果、ルターの流れはルーテル教会へ、カルヴァンの流れは改革派教会や長老派教会へと発展しました。
また、教会のあり方にも違いがあります。
ルターの改革では、教会は各地の領主(諸侯)の保護と統治のもとに置かれる形になりました。
一方で、カルヴァンはジュネーヴにおいて教会制度を整え、長老などの役職を持つ新しい教会の仕組みを確立しました。
なお、社会との関係についても違いがあります。ルターはドイツ農民戦争に反対し、既存の秩序を重視する立場を取りました。一方で、カルヴァンの思想は、後に近代社会の形成(特に職業観や経済倫理)に影響を与えたと評価されています。


この記事はこんな人におすすめ!
・ルターとカルヴァンの思想や違いを知りたい
・ルターやカルヴァンの生涯を知りたい
この記事は約8分で読むことができます。
マルティン・ルターの生涯
- ルターの誕生
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鉱山労働者であったハンス・ルターのもとに生まれた子供がマルティン・ルターでした。
- 大学へ進学
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ハンスは苦労の末、鉱山を開発するための組合に加入し、仲間と共に精錬所を始めることができるようになりました。そのために、ルターをエルフント大学へと進学させることができたのです。
彼は自分と同じような苦労をしないために、ルターが法律家になることを望んでいました。その期待に応え、ルターは修士を取得します。
- 死にかける経験
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ルターは大学時代、死の恐怖を強く意識する経験をいくつかしました。特に有名なのは、帰省中に雷雨に遭い、命の危険を感じて神に助けを求め、その際に修道士になることを誓った出来事です。
この誓いのために、彼は親の期待を裏切り、修道士の道へと進んだのでした。


AIによって生成されたイメージ画像です
- 修道院での生活
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ルターは熱心に修道院生活を送りましたが、平安を得ることができずに苦しみます。さらに彼は、救いは神によってすでに定められているという考え(予定論)にも苦しめられます。
1507年に、ルターは司祭になり、ミサを行いましたが、のちにこの時のことを思い起こして、「信仰がなく死人と同じだった」と述べています。
- ルターの目覚め
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カトリックの中枢であるローマにも行き、苦行を行ったルターでしたが、平安は得られず、むしろ「神に従う人は信仰によって生きる」という旧約聖書ハバクク書の言葉が心に浮かび、疑問は増すばかりでした。


AIによって生成されたイメージ画像です そんな頃、ルターは神学博士の学位を受け、ヴィッテンベルク大学の教授となります。
講義の中で『ローマの信徒への手紙』を扱うようになります。その中で、彼は「正しいものは信仰によって生きる」という言葉に行き着くのです。
この体験は、「塔の体験」とも呼ばれています。
- ルターの95か条の提題
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当時、カトリックが押し出していた贖宥状に対して、疑問を持ったルターは1517年10月31日、ヴィッテンベルクの城教会に提題を張り出します。
ルターが張り出した「95か条の提題」は、正確には「贖宥状の効力についての論争」です。


AIによって生成されたイメージ画像です 贖宥状(免罪符)とは?
当時、罪は信仰によって赦されるが、罪の結果として生じた罰は、善行によって償わなければならないと、教会は教えていました。
さらに、善行を行わなかった場合、死後は煉獄へ行き、さまざまな苦しみによって罪を償わなければならないと教えていたのです。
その罰を免除できるのが贖宥状(免罪符)でした。
- ルター破門される
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「95か条の提題」はルターが想像していたよりも大きな反響を生み、3年後の1520年ルターの手元に教会より破門勅書が届けられました。
ヴィッテンベルク大学神学部はルターを支持し、さらに選帝侯フリードリヒも庇護したため、この運動はより大きなものへと変貌していきます。
こうして、宗教改革が本格的に始まり、短期間に驚くべき規模の運動へと発展するのです。
その理由として、主に以下の3つが挙げられます。
宗教改革が大きな運動になった理由- マルティン・ルターやカルヴァンなどの優れた指導者があらわれた
- 近代的世界の台頭とともに、普遍的で世界的な権威を主張するカトリックに対して批判的な見方が増えた
- グーテンベルグによって活版印刷術が発明された
贖宥状が販売されていた時代背景
人気があった巡礼地の一つであるエルサレムが、セルジューク・トルコの手に落ち、巡礼が困難になり、加えて、セルジューク・トルコの進出に脅威を覚えた東ローマ帝国は、教皇を通じて西ヨーロッパ諸国に助けを求めていきます。
これにより、教皇ウルバヌス2世は聖戦を決議し、十字軍が結成されます。
ウルバヌス2世は「十字軍に加わる者は罪を赦され、償いも免ぜられる」(贖宥の特権)と説いていきます。これは、当時の人々にとって重要な意味を持っていました。
カトリック教会の教えでは、善行を積まなければ死後、煉獄へ行き、さまざまな苦しみを経て、天国に行くと教えていたからです。
従軍できない者は寄進を行うことで、贖宥を受けられるとして、贖宥状のシステムが誕生します。
ルターの時代では、教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のために贖宥状が発布され、財閥フッガー商会がこれに当たっていました。彼らにとっては、財政的施策であり、宗教制度ではなかったのです。
フッガー商会はもとは小さな織物工から始まった商会でした。ところが、膨らむ戦費などで財政的に困窮していた諸侯が持つ鉱産物の取引の特権に目をつけると、高利貸しを諸侯に行い、特権を独占。
巨万の富を築き、ローマ教皇にも高利貸付けを行っていたほどでした。まさに、ヨーロッパの政治を陰で操るようになったのです。
こうして、贖宥状の利益は、サン・ピエトロ大聖堂の建築だけでなく、フッガー商会にも流れていきました。
このような状況を見て、ルターは贖宥状を買うぐらいなら貧乏人に寄付した方が良いと人々に勧めたのでした。


ルターの思想(万人祭司・信仰義認・聖書のみ)
宗教改革の起点を何年とするかについては諸説ありますが、一般的には宗教改革の三大文書(『キリスト者貴族へ』『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』)の発表とともに、始まったと考えられています。
『キリスト教の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書』(キリスト者貴族へ)は、ローマ・カトリックが堕落し、国民生活を圧迫させている根本原因であるとして、教会の改革を行うことを促す、宗教改革の檄文とも言える本です。
- 聖職者が世俗の諸身分を優越するのではなく、すべての信者が祭司である(万人祭司)。
- 聖書は教会の独占ではなく、信者が直接読むべきである
また『キリスト者の自由』では、信仰による義(信仰のみによって救われること)について述べています。
- 信仰によって義とされ、この信仰こそがキリスト者に自由を与える(信仰義認)
- 信仰によって変えられた者は、善い行い(他者への奉仕と愛)を行う
『教会のバビロン捕囚』の中で、ルターは聖餐式(パンとぶどう酒を飲む儀式)についても論じます。カトリックの権威は、この説に紐づいている部分もあったため、この主張はカトリックの権威を否定するものでもありました。
当時、カトリックは聖餐式のパンとぶどう酒がそれぞれキリストの血と肉に変化する(化体説)とし、これを含む聖礼典によってのみ救われると教えていました。
- カトリックのミサのあり方への批判
主に、教会の聖餐式は以下の3つの立場で捉えられています。
- 化体説(カトリック)
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聖餐式のパンとぶどう酒は、それぞれキリストの血と肉に変化するという考え
- 共在説(ルター)
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聖餐式のパンとぶどう酒の中に、キリストが宿るという考え
- 象徴説
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聖餐式のパンとぶどう酒は、象徴と記念であるという考え


ルターとドイツ農民戦争
ルターの著作はドイツ各地で広く読まれ、教会改革を求める声も強まりました。また、社会改革を求める人々にも影響を与え、農民たちの中には、ルターを自分たちを支えてくれる存在として期待する者も現れました。
しかし、1521年のヴォルムス勅令によって、ルターは異端者とされ、その著作の販売・印刷・所有なども禁止されました。
このような状況の中で、世俗の権力が信仰や神の言葉にどこまで介入できるのかが、切実な問題となります。これについてルターが述べたのが、1523年の『この世の権威について』です。
- 国家権力は神によって建てられたものであるがゆえに、服従すべきである
- 権力が神の言葉と相反するならば、確固として反対すべきである。しかし、その際にも武力行使ではなく、その土地を去るか、あるいは殉教という形において反抗すべきである。
このルターの主張が大きく問われることになったのが、ドイツ農民戦争です。
農民による反乱は、ドイツ農民戦争以前にも各地でたびたび起こっていました。
その原因の一つは領主たちが農民たちの自治生活を奪おうとした時(共有地や自治権の侵害、増税)であり、そのようなときに農民たちは反抗しました。
契機となったドイツ農民戦争は、ルターの宗教改革に刺激されて、1524年に勃発します。この運動は短期間で各地へ広がり、農民たちは要求を掲げる一方で、一部では武装化し、城や修道院への攻撃も起こりました。
その中で、テューリンゲン地方において大きな影響を持った過激的な急進派の一人が、トマス・ミュンツァーでした。
彼は、神の国をこの世に実現することを目的とし、社会的・法的な身分差のない神の支配をこの世に実現しようとしました。後世には、この思想を共産主義の先駆けと見る解釈もあります。また、ミュンツァーはその実現のために、神に敵対する勢力と戦う必要を説きました。
さらにミュンツァーは、聖書の外的な文字だけに頼る信仰を批判し、聖霊による神の直接的な啓示を重視する神秘主義的傾向を強めていきます。
これに対して、ルターは『農民の殺人・強盗団に抗して』という文書を書き、農民たちが略奪や殺害を行い、世俗権力に武力で反抗しているとして、極めて厳しく非難します。
ルターは、神の言葉に基づいて教会を改革することを重視していました。
そんなルターから見たときに、過激的な急進派のトマス・ミュンツァーは偽預言者であり、福音の純粋性を損なうように思えたのです
このルターの行為によって、農民たちはルターに失望します。
その後、宗教改革の急進的な流れの中から、幼児洗礼や聖画・聖像を否定する再洗礼派などの運動も現れました。これらの運動は、一部の地域では農民層に受け入れられました。
また、同時期にはスイスでツウィングリによって、別の改革運動が進められていきます。その思想は、後にカルヴァンによって体系化され、改革派として確立されました。


著者|高橋 徹
1996年、横浜生まれ。三育学院カレッジ神学科卒業後、セブンスデー・アドベンチスト教団メディアセンターに勤務、現在はセブンスデー・アドベンチスト教団牧師。
- セブンスデー・アドベンチスト教団牧師
- 光風台三育小学校チャプレン・聖書科講師、三育学院中等教育学校聖書科講師
- 著書『天界のリベリオン』
参考文献
青山四郎『マルティン・ルター』つのぶえ文庫
小牧治・泉谷周三郎『人と思想 ルター』清水書院
冨本健輔『人と歴史・西洋8 ルターとカルヴァン』清水書院
A.E.マクグラス(佐藤文男・訳)『プロテスタント思想文化史』教文館