ほかに神はない【エレミヤ書、哀歌―神の計画と私たちの役割】#3

目次

中心思想

偶像崇拝とは何でしょうか。人間はなぜ偶像崇拝に心をひかれるのでしょうか。偶像崇拝が隣人に対する罪となるのはなぜでしょうか。

アウトライン

1.その理由(エレ16:10~13)

2.家庭の宗教(エレ7:18~20)

3.むなしいものに頼る(エレ10:1~16)

4.自分自身のために(エレ5:I~5)

5.いやされない傷(エレ9:1~8、30:12、13)

神は新しい心を約束される

リタ・タイソンは生きた奇跡のような人です。23時間のうちに2回も心臓移植を受けたからです。最初の移植から2時間もしないうちに、リタのからだは新しい心臓を拒絶しました。さいわい別の心臓が緊急にほかの病院から提供されました。人体から摘出された心臓は4時間以上たっと役に立たなくなります。すばやい輸送と外科技術のおかげで、第2の心臓は提供されてから3時間20分後にはうまく血液を送り始めました。リタは毎日、神に感謝しています。

創造主は多くの人にすばらしい医療技術を授けておられますが、いやすことのできない罪深い人類の心を取り換えることができるのは神だけです。ユダの民は偶像崇拝に陥っていました。彼らは公然たる背信の末期状態にありましたが、偉大なる医師の治療をかたくなに拒みました。私たちは彼らの道に歩んではなりません。主は、「わたしは新しい心をあなたがたに与える」と約束しておられます(エゼ36:26)。

その理由(エレ16:IO~13)

イスラエルはエジプトに寄留していた時からつねに異教の偶像と「浮気」をしていました(エゼ20:6~8)。そこで神は北王国に言われました。「エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ」(ホセ4:17)。同じ危機がその頃、ユダにも訪れていました。

質問1

エレミヤがユダに下ろうとしているさばきを宣告した時、人々は何と尋ねましたか。彼らの偶像崇拝は神から啓示された宗教にどんな影響を与えましたか。エレ16:10~13

「現代と同様、エレミヤの時代における重大な信仰の問題は無神論ではなく、偶像崇拝であった。エレミヤの時代における誘惑はバビロンの神々の魅力であった。これに相当する現代の誘惑は軍国主義、民族主義、自然主義、消費主義、科学技術であろう。現代の偶像崇拝の形態は結局のところ自主性、つまり自分の思いのままに生きるということである」(ワルター・ブルッゲマン『抜き、滅ぽすということ』97、101ページ)。

質問2

偶像崇拝はどんな形態であれ神の前に重大な罪であるのはなぜですか。出エ20:1~6

どんな形であっても偶像崇拝は創造主をその正当な権威の座から降ろすことになります。それは神を拒絶するまではいかなくても、神を無視することであり、神の愛のみこころの表現である律法を破ることです。偶像崇拝は人間を中心に置くことです。偽りの神々や偶像は人間そのものの延長にすぎません。それが洗練されると人本主義になり、神を不要のものと考えるようになります。自分自身が礼拝の対象となります。

「人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたげるようなものを心にいだくときに、われわれはそれを自分の神としているのである」(『人類のあけぼの』上巻356ページ)。

黙示録14:6、7は終末の世の偶像崇拝者に対する神の特別なメッセージです。

家庭の宗教(エレ7:18~20)

上げ潮が浜辺に押し寄せてくるように、偶像崇拝がユダに押し寄せてきました。エレミヤの記録を見れば、国民が偶像崇拝にいかに熱心であったかがわかります(エレ2:28、11:13)。

質問3

親はどのようにして子供たちまでも日々の偶像崇拝に参加させていましたか。エレ7:18~20

「天后(てんこう)」は一般にアッシリアとバビロンの女神、イシュタルと考えられ、ヘブル人にはアシトレトとして、またカナン人にはアシタロテとして知られていました。それは性愛、豊穣、戦いの女神として崇拝されていました。その礼拝儀式には不道徳で堕落的な行為が含まれていました。

質問4

この時期、ユダにはどんな恐ろしい習慣が広まっていましたか。エレ7:31~34、19:5、32:35(詩106:37、38比較)

偶像崇拝は結局のところ、それに帰依する者たちの品位を落とし、堕落させるものです。親が子供を殺して感情のない偶像に犠牲としてささげていたとは、考えただけでもぞっとします。しかし、幼児虐待などに見られるように、現代人もこれに劣らず残忍です。

質問5

神は家庭の宗教としてつねにどんな理想を掲げておられますか。申命6:6、7、詩78:5~7(マタ19:14、ヨハ21:15比較)

多くの国々では、生計を立てるために両親とも家の外で働く必要があります。このことはつまり、自分の小さい子供を他人の手に預けることを意味します。そうしなければならないクリスチャンの両親は、子供たちが最も感受性の農かな時期に自分たちの信仰を伝える方法を工夫すべきです。

「あなたがたが神の力によって親としての責任をとりあげ子供たちを神の望みたもう者にするために努力の手を決してゆるめず、自分の責任の地位を離れないと固く決心するとき、神は満足をもってあなたがたをごらんになる」(『アドベンチスト・ホーム』223ページ)。

むなしいものに頼る(エレ10:1~16)

自分を超越したお方(創造主)を礼拝することを忘れるとき、私たちは必然的に自分以下のもの(被造物、ロマ1:25)を礼拝することになります。しかし、自分の心から真の神を追い出しても私たちの「神」に対する必要感がなくなるわけではありません。そこで自分自身の神をつくり出そうとします。

質問6

異教の偶像崇拝に従った結果、ユダヤ人の心にどんな変化が生じましたか(エレ10:1、2、5)。偶像には善も悪もなす力がないのはなぜですか。エレ10:3~5、8、9、14、15(イザ44:9~20、使徒17:24、27~29比較)

自然の力や来世は生命そのものに強い影響力を及ぼすと考える人々が必ずいます。これらの力と協力することによって現世の、また死後の生活は物質的に、霊的に豊かなものになると、彼らは信じています。こうして、富める者も貧しい者も、教養のある者もない者もみな、さまざまな偶像崇拝、オカルト、心霊術、神秘主義にひかれていくのです。

預言者たちは人間の作った物を通して自然の力を崇拝することの愚かさについて教えています。彼らは偶像崇拝の背後にサタンのカが働いていることを認めています(詩106:36~38、Iコリ10:20、2l)。

質問7

エレミヤは真の神を偽りの神々と比較して何と断言していますか。エレ10:10、エレ10:12、16

イスラエルの神はまことの神であって、信頼し、頼ることのできるお方です。生きた神であって、信頼する者たちにとっては肉体的、霊的生命の源です。永遠の主であって、その目的を達成するために地上の諸国を支配されます。万軍の主として、広範囲に及ぶ天使の働きを指揮しておられます。神はまた万物の造り主です。

現代の人本主義者たちも古代の偶像崇拝者たちと変わりありません。彼らはむなしいものに頼り、聖書の神である創造主を離れて真の安全と平和を追い求めています。

自分自身のために(エレ5:I~5)

質問8

エレミヤにユダの根深い堕落を示すために、神はどんな約束をされましたか(エレ5:1~3)。エルサレムの一般市民の中に真に正しい人を見つけることのできなかったエレミヤは、次にだれの所に行きますか。その結果はどうでしたか。エレ5:4~6

聖書の教えは、神に対する最高の愛と人に対する公平な愛という二つの要素からなり立っています(マタ22:36~40–『福祉伝道』48ページ比較)。神に対する私たちの愛が偶像崇拝によって追い出されるとき、隣人に対する愛もまた追い出されます。

アブラハムはさばき主なる神に、「10人のために」ソドムを滅ぼさないで下さいと嘆願しました(創世18:22~33)。ところが、主はエレミヤに対して、もし隣人と公平に、また真理に従って生活している者がひとりでもいたなら、ユダの恩恵期間を延長すると約束されました。貧しい人々の中にも偉い人々の中にも、そのような人はひとりも見当たりませんでした。

質問9

どんな罪がユダの国中に広がっていましたか。エレ5:23~29、6:6、7、13、7:5~10

人間関係について規定した十戒の後半の6条を公然と犯すことは、前半の4条を犯すことの直接的な結果でした。そのため偶像崇拝が国中に広がりました。国民は利己心のために貧しい人々の権利を無視し、不幸な人々を心にとめなくなっていました。神の律法の二つの部分は互いに不可分の関係にあります。信者同士の兄弟愛(横の関係)は神の弟子であること(縦の関係)の証拠であると、イエスは言われました(ヨハ13:34、35)。

「人に対する愛は、神の愛がこの地上にあらわされたものである。栄光の王キリストがわれわれと一つになられたのは、この愛を植えつけ、われわれを一つの家族の子らにするためであった。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』とのキリストの別れのことばが成就されるとき、またキリストが世の人々を愛されたようにわれわれも彼らを愛するとき、その時われわれにとってキリストの使命は達成されるのである(ヨハネ15:12)。われわれは天国にふさわしい者となる。なぜならわれわれの心のうちには天国があるからである」(『各時代の希望』下巻114ページ)。

いやされない傷(エレ9:1~8、30:12、13)

質問10

神はユダの霊的状態を何にたとえて描写しておられますか(エレ30:12、13)。エレミヤが民を離れて「荒野の掘っ立て小屋」(リビングバイブル)に住みたいと願ったのはなぜですか。エレ9:1~8

病気は一般的に、早期に診断されれば完全に治りますが、そのまま放っておくと致命的になります。預言者たちは長いあいだユダに警告してきました。しかし、最後の数十年を前に、ユダの霊的心臓病は回復不能のように思われました。

「ユダの民がいやされなかったのは有効な治療法がなかったためではなく、大医師イエスのもとに来ることを拒んだためであった。恐らく民は自らの必要に無感覚になっていたのであろう。恐らく民の高慢さがいやしを受け入れさせなかったのであろう。……恐らく彼らは病を愛するようになっていたのであろう。いずれにしても、彼らはいやし主に目を向けて生きようとはしなかった」(『SDA聖書注解』第4巻394ページ)。

人間社会はお互いの信頼関係の上に成り立っています。ところがユダにおいては、道徳機構そのものが回復できないところまで乱れていました。人々は互いに奪い合っていました。あらゆる階層の人々に貪欲と詐欺と利己心が行きわたっていました。

質問11

ユダの恐るべき霊的状態がどんな二つのたとえによって示されていますか。エレ17:1、9、10

ヘブル語からすれば、彫刻者の鉄箪につけられた鋭い石は恐らくダイヤモンドではなく、金剛砂や火打石、あるいはこれと同じ程度の硬さを持った石と思われます。神の律法が民の心に記される代わりに(詩37:31、イザ5I:7)、彼らの罪がそこに刻まれていました。これが偶像崇拝を追い求めることの悲しむべき結果でした。今日も同じです。「はなはだしく悪に染まっている」の文字通りの意味は「いやすことができない」です。肉の心はそれ自体ではいやしの力を持っていません。

「たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいれば、終りには福音のすべての力を無にしてしまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります」(『キリストヘの道』40ページ)。

まとめ

偶像崇拝は十戒の最初の4条を犯すことであり、信者の心から神への愛と忠誠を捨てることです。それは神のみこころと同胞に対する正当な義務を軽んじる態度につながります。エレミヤの時代のユダヤ人社会における道徳的堕落は、国民が神の権威を否定したことが原因でした。このような道徳的堕落は、人間が創造主から独立しようとするときに必ず起こるものです。

*本記事は、安息日学校ガイド1994年2期『エレミヤ書、哀歌 神の計画と私たちの役割』からの抜粋です。

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