【ヨシュア記】勝利の叫び【5章、6章】#6

目次

アウトライン

  • 主の軍勢の将と会う(ヨシ5 :13~15)
  • 神の戦術(ヨシ6:1~7)
  • 角笛と沈黙(ヨシ6:8~15)
  • 勝ちどき(ヨシ6:1,6~20)
  • 「奉納物」、「遊女」、「英雄」(ヨシ6 :22~27)

ヨシュアは攻めた

「ヨシュアはエリコを攻めた。ヨシュアはエリコを攻めた。城壁は崩れ落ちた」。

エリコ陥落の勇ましい物語はこの黒人霊歌を生み出し、今も人々の心をとりこにしています。考古学者たちは多くの点でこの物語が事実であることを確認しています。

しかし、物語の中心は「エリコの戦い」にあるのではありません。ヨシュアが天の将軍に会うところから始まって、聖書はこの物語を霊的な観点に立って描いています。物語の主題は戦いの装備や手段にあるのではなく、むしろ人類の救いと、契約の箱、祭司、聖所で用いられる合図のラッパ、全的献身、ラハブの救いなど、イスラエルの礼拝に関する霊的象徴とに対する神の関心にあります。

従って、エリコの戦いの物語は霊的な意味を持ちます。私たちは罪との戦いにおいて、イスラエル人を導かれたのと同じ司令官、主の軍勢の将なるイエスの下で、霊的な戦いを繰り返すのです。

主の軍勢の将と会う(ヨシ5:13―15)

質問1 

ヨシュアは戦いを始める前にどんな個人的な準備をしましたか。ヨシ5:13

質問2

主の軍勢の将とはだれのことですか(ヨシ5:13,14)。ヨシュア記5:14の「軍勢」とはだれのことですか。列王上22:19、詩148:2

「軍勢の将」という言葉はほかにはダニエル書8 :11に見られるだけです〔万軍の長一新共同訳〕。ヨシュア記5章とダニエル書8章は共にイエスを将、長と呼んでいます。

「イスラエルの指導者の前に立ったのは、高められたおかた、キリストであった」(「人類のあけぼの』下巻110ページ)。

「もしヨシュアの目が、ドタンにおけるエリシヤの召使の目のように開かれていて、その光景を見るに耐えられたなら、ヨシュアは主の使いたちがイスラエルの子らの周囲に陣を張っているのを見たであろう。訓練された天の軍隊が神の民のために戦おうと来ており、主の軍勢の将が指揮をするためにそこにおられたからである。エリコが陥落した時、人間の手は全く町の城壁に触れなかった。主の使いたちが要塞を打ち壊し、敵の陣地に突入したからである」( 「SDA聖書注解』第2巻994ページ、エレン・G・ホワイト注)。

質問3 

天の司令官と会った時、ヨシュアはどんな態度を取りましたか(ヨシ5:14,15)。このことは神のみ前における私たちの態度についてどんなことを教えていますか。

「イスラエルの司令官として最高の名誉ある地位についた時、ヨシュアはあらゆる神の敵に戦いを挑んだ。彼の心は大いなる使命に対する気高い思いで満ちていた。しかし、天からの使命を受けるとすぐに、彼は子供の立場に身を置いて、導きを求めた。『わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」(ヨシ5 :14)。これが彼の応答であった」(『清められた生活』15ページ)。

エリコの戦いに対するヨシュアの準備は、どんな偉大なみ業の指導者であっても導きが必要であることを如実に教えています。また、『わが主は何をしもべに告げようとされるのですか』というヨシュアの問いかけの中に、すべての神の子らの成功の秘訣が隠されています。ヨシュアは喜んで神のみ心に従う用意ができていました。

神の戦術(ヨシ6:1~7)

質問4 

エリコに対する戦術はどんな点で異例のものでしたか(ヨシ6:1~5)。このことからどんな霊的教訓を学ぶことができますか。

エリコの住民は、紅海を二つに分けた神、40年にわたって荒野でイスラエル人を養った神、そしてたった今、洪水期にヨルダンの流れを止めた神について聞いていたので、防御を固め、戦闘の準備を整えていたはずです。彼らは町の外に陣を張って、攻撃をしかけようとしていました。

しかし、神の計画は「典型的な」戦略とは異なっていました。一人の人が責任を負うことのないためでした。エリコの城壁はイスラエルの力によってではなく、神の行為によって崩壊するのでした。ここに示されているのは戦争の方法ではなく、信仰の方法でした(ゼカ4:6,Ⅱコリ10:4参照)。

質問5 

ヨシュアは神の命令にどのように答えましたか(ヨシ6:6,7)。イスラエルはこのような奇妙な計画についてどのように感じたと思いますか。

ヨシュアは真の礼拝が服従を要求することを知っていました。彼の行動には信者の生活に必要な要素、つまり(1)礼拝すること、(2)聞くこと、(3)服従することが示されています。神が民全体にではなく、ヨシュアだけに語られたことに注意してください。民はヨシュアの言葉を信じて、彼の命令に従う必要がありました(「教会へのあかし』第4巻162ページ参照)。A

「今日、神の民を自認する者たちも、同じような状況において、このように行動するであろうか。多くの者たちは明らかに自分自身の計画に従い、自らの方法・手段によって望んだ目的を達成しようとすることであろう。彼らは単純な方法、自分の名誉にならない方法に従うことを嫌い、服従の美徳を生かそうとしない。彼らはまた同じ方法で強固な町を征服する可能性を疑う。しかし、義務の律法は最重要である。それは人間の理性を支配する。信仰は生きた力であって、すべての障壁を取り除き、すべての障害を克服し、敵陣の中心に旗をうち立てる」( 「SDA聖書注解」第2巻995ページ、エレン・G・ホワイト注)。

角笛と沈黙(ヨシ6:8—15)

質問6 

イスラエルがエリコの周りを行進した時、何の音が響きわたりましたか(ヨシ6:8~10)。神が民に沈黙を守るように言われたのはなぜですか(出エ14:13,詩46:8~10比較)。

質問7 

聖書では角笛(雄羊の角)は何を象徴していますか。次の聖句の象徴的な意味の中で、エリコの周囲を回ることと関係があるのはどれですか。レビ23:23~25,25:9、士師7:22、詩47:5、イザ27:13、詩98:6,9、ヨエ2:12~17

エリコの周囲を7回まわるようにという神の命令は、明らかにイスラエル人とエリコの住民の双方に影響を及ぼしました。「城壁が最終的に崩れ落ちる前に長期間にわたってこの儀式を続けるという計画そのものが、イスラエル人のうちに信仰を増し加える機会を与えた。彼らは自分たちの力が人間の知恵や力にではなく、彼らの救いの神にのみあるということを徹底的に印象づけられる必要があった。自分自身を全く度外視して、天の指導者に全的に信頼することに慣れる必要があった」(『教会へのあかし』第4巻163ページ)。

このような光景はエリコの住民を恐怖で満たしたことでしょう。彼らはイスラエル人が繰り返し「奇怪な」行進をするのを見て、うろたえたことでしょう。これは何を意味するのだろうか。いつになったら終わるのだろうか。この民はまず乾いた地を通って紅海を渡った。次に、洪水の時期にヨルダン川を渡った。そして今、毎日、沈黙したまま、ラッパを吹き鳴らしながら町の周囲を回っている。

「一つの民として見れば、私たちは信仰がない。今日、エリコを攻略した時のイスラエルの軍隊のように従順に、神の選ばれたしもべを通して与えられた命令に従う者は少ない」(「教会へのあかし』第4巻162ページ)。

勝ちどき(ヨシ6:1、6—20)

質問8 

イスラエル人が勝ちどきを上げた時、どんな奇跡が起こりましたか。エリコの陥落は考古学上のどんな発見によって確認されていますか。ヨシ6:16~20

ブライアント・ウッド博士(後期カナン青銅器時代陶器の権威)は最近、エリコで発見された考古学的資料を分析した結果、聖書の記録と考古学的資料との間に目立った相互関係があることに気づきました。第1に、四つの領域(陶器の年代測定、層位学的研究、エジプト王族のコガネムシ装飾品、放射性炭素年代測定)における証拠に基づいて、エリコ滅亡の年代が聖書に示されているのと全く同じ紀元前1410年頃であることがわかりました。第2に、激しい地震によって城壁が「くずれ落ち」(ヨシ6:20)、町中に傾斜路ができ、イスラエル人は「すぐ、に上って町にはい」ることができました(ヨシ6:20)。第3に、ラハブの家のような家がたくさんあり、それらは下部の擁壁(胸壁)と上部の泥のれんがの壁との間に、つまり「城壁の内側」(ヨシ2 :15、新共同訳)にあったことがわかりました。第4に、ヨシュア記6:24に記されているように、町は火災によって完全に破壊されたことがわかりました。

最後に、穀物の入った多くのつぼが見つかりましたが、それは次のことを示しています。(1)攻撃は(ヨシュア記2:6,3 :15,A5 :10に示されているように)春の収穫直後にあった。(2)包囲攻撃は長くはなかった(ヨシュア記6:12~20によれば、わずか7日間)。(3)古代近東の常識に反して、焼き打ち前の略奪はなかった(ヨシ6:17,18参照)。(ブライアント・ウッド「イスラエル人はエリコを征服したか—最近の考古学研究」『聖書考古学研究161 1990年3月~4月、45~57ページ参照)

質問9 

エリコの陥落から、神が私たちのためにしようとしておられる大いなるみ業について、どんな霊的教訓を学ぶことができますか。

「神は、彼に信頼する者のために、大きなことをなさる。神を信じると言っている人々に、もっと力がないのは、彼らが自分たち自身の知恵に頼りすぎ、主が、彼らのためにみ力をあらわす機会を主に与えないからである。しかし、彼らが、全く主に信頼し、忠実に彼に従うならば、どのような事態が起こっても、主は、主を信じる子供たちをお助けになる」(「人類のあけぼの」下巻115,116ページ)。

「奉納物」、「遊女」、「英雄」(ヨシ6:22—27)

質問10

 神がイスラエルに略奪を禁じられたのはなぜですか。ヨシ6:17,18

質問11 

神がラハブとその家族以外の者をみな殺すように命じられたのはなぜですか。ヨシ6:17,21,24(創世15:16~21比較)

神はエリコの町を「奉納物」と宣言されました(ヨシ6 :17̅19)。そのヘブル語には、破壊のためであれ聖なる使用のためであれ、絶対的かつ最終的に「ささげられたもの」という意味があります。ここでは、次の二点が暗示されています。すなわち、火は町を焼き滅ぼし、滅びない金属は神の倉に納められました。

「奉納物として滅ぼされるもの」とは、完全に神に反逆していた民をさしています。彼らは恩恵期間の終わりに達していました。

エリコが陥落する400年も前に、神はアブラハムに「アモリぴとの悪がまだ満ちない」ゆえにカナンを受け継ぐ、ことはできないと言っておられました(創世15 : 16)。彼らの恩恵がまだ続いているうちは、カナン人に神をあかしする者たちがいたようです(メルキゼデクー創世14: 18~24、バラムー民数22~24章)。

しかし、カナン人は堕落して、最悪の不道徳行為を行っていました。今世紀におけるヨシュアの時代からの発掘物やウガリトの刻銘板を見ると、カナン人が繁殖宗教の中心儀式として(表現をはばかる)ひどい性的乱交を行っていたことがわかります。彼らはまたカナン人の神々の特徴である血なまく、さい行為や暴力を行っていました。人間は自分の信じる神と宗教以上のものになることはできません。カナン人の宗教はこのような堕落した性と暴力から成り立っていたので、それから数世紀後に、一つの文明全体が聖霊の導きに従う能力を失ったとしても不思議ではありません。彼らが滅びることは正義であるのと同じほどに、憐れみでもありました。

ヨシュア記6:26には、エリコを再建する者はその長子と末の子を失うと書かれています。この預言は、ベテルぴとヒエルが「その〔エリコ〕基をすえ」「その門を立て」ることによって、彼の長子と末の子を失った時に成就しました(列王上16 : 34)。

まとめ

エリコの戦いは私たちの霊的戦いに関して重要な教訓を教えています。(1)神にとって克服できない障害はない。(2)準備は私たちの指揮官であるイエスと共に祈ることから始まる。(3)神はしばしば最も単純で見込みのない方法によって、罪に勝利させてくださる。私たちが自分自身の知恵にではなく、イエスに全的に信頼するためである。(4)たとえすべての理由を理解できなくても、私たちは神のあらゆる命令に従うことによって神に協力すべきである。(5)戦いは主のものである。条件さえ満たされるなら、主は私たちに勝利を約束してくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1995年2期『神の安息に入る ヨシュア記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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