【ヨシュア記】使命を伝える【22章、23章解説】#12

目次

中心思想

神はイスラエルに全面的勝利についての約束を与え、その約束が実現するための条件を明示されます。

アウトライン

1. ヨシュア、東部の部族を祝福する(ヨシ22: 1~9)

2. 反逆の疑惑(ヨシ22: 10~20)

3. あかしの祭壇一偽りの告発の処理法(ヨシ22:21~32)

4. 使命を伝える(ヨシ23: 1~13)

5. 慈愛と正義(ヨシ23:14~16)

二つの告別説教

今回は、ヨシュア記の終わりに記されている初めの二つの告別説教について学びます。7年に及ぶカナン征服の後にヨシュアが2部族半に行った最初の説教は終わり、彼らはヨルダン東岸の相続地に帰って行きました。ヨシュアが第2の説教を行ったのは、「主が……イスラエルに安息を賜わってのち、久しく」たってからのことでした(ヨシ23: 1)。ヨシュアはイスラエルの全部族を集め、背信の危険について警告し、神の約束をもって励まし、相続地を完全に自分のものとするように勧め、神と神の律法に忠実に従うように教えました。

「明白な情調量、よれば、イスラエルがカナンに入った時、ヨシュアはだいたい83歳であった。彼はカレブよりも5歳年上だったので、カナン征服が終わった時には90歳であった。ヨシュア記24:29によれば、彼は110歳の時に死んでいる。もし計算が正しく、この章〔23章〕の出来事がヨシュアの生涯の最後の年に起こったとすれば、主がイスラエルに安息を与えられてから20年がたっていたことになる。……この間にヨシュアは、イスラエルの最大の危険の一つがカナン人との親交によって堕落することにあるのを見た」( 『SDA聖書注解』第2巻291ページ)。

ヨシュア、東部の部族を祝福する(ヨシ22: 1~9)

東部の諸部族はその特別な任務を終え、ヨシュアの祝福を受けて所有地に帰って行きました。この特別な任務にはシロにイスラエルの本部を築くことが含まれていました。なぜなら、9節に彼らがシロで別れて帰って行ったとあるからです。

質問1 

東部の諸部族がヨルダン川東岸のそれぞれの所有地に帰ろうとしていた時、ヨシュアは彼らにどんな勧告を与えましたか(ヨシ22:1~5)。この勧告を、モーセのイスラエルに対する告別説教と比較してください(申命4:4,29,6:5,10:12,11:13比較)。この勧告をあなた自身の主との契約関係にあてはめてください。

この勧告には、契約に用いられる特別な用語が多く用いられています。主に「つき従い」(ヨシ22:5)という表現もその一つですが、このへブル語は契約関係の中でよく用いられるものです(創世2:24、申命10 :20,11 :22比較)。

質問2

ヨシュアは2部族半にどんな祝福を与えていますか。この祝福にはどんな聖書的な意味がありますか。創世1:28,91、12:2,民数6:23,24、申命1:11

祝福されるということはその祝福の目的を達成する力を与えられることです。「祝福するとは魔術によって能力を授けられることではないし、かといって単に敬けんな願望を語ることでもない。それは物的、霊的な、あらゆる力と繁栄の源である主のみ名によってなされている」(マーテン・H・ウッドストラ「ヨシュア記」『旧約聖書新国際注解』230ページ)。

質問3 

私たちがもっと互いに祝福し合うなら、家庭と教会にどんな変化が見られるようになりますか。イエスはどんな模範を示しておられますか。マタ19:13~15

「イエスはご自分のもとにつれてこられた子供たちのうちに、主の恵みの相続人またキリストのみ国の民となる男女をごらんになったが、その中のある者たちは、キリストのために殉教者となるのであった。イエスは、これらの子供たちが……世才がたけて強情な大人たちよりもはるかにたやすくイエスを救い主として受け入れることをご存知であった」(『各時代の希望』中巻320ページ)。

反逆の疑惑(ヨシ22:10―20)

ヨシュア記22:1~9において、ヨシュアはルベン族、ガド族、マナセの半部族に対して神を覚え、その戒めを守るように命じています。彼らはこの命令に従おうとする熱意から、ヨルダン側の東岸に祭壇を築きました。この祭壇はシロにある祭壇と似ていました(ヨシ22:28)。彼らがそれを築いたのは犠牲のためではなく、神を思い起こすためでした。ヨルダン川によって他の部族と切り離されると、自分たちの宗教も忘れてしまうのではないかと、彼らは考えたのです。

質問4 

イスラエルの残りの部族は何と言って、ヨルダン川東岸の2部族半を非難しましたか(ヨシ22:16)。間違っていたのはどちらの方でしたか。

カナンの地を征服する目的はほぼ達成され、イスラエル人の団結が弱まったように思われます。共通の目的が失われた時に、彼らは仲間同士で「戦い」を始めました。ひどい噂を立てられて傷ついた経験のある人なら、ルベン族、ガド族、マナセの半部族の気持ちがわかるでしょう。

質問5

 「ぺオルで犯した罪」とは何ですか(ヨシ22:17―民数記25章比較)。イスラエルがピネハスを長とする代表団を2部族半のもとに派遣したのはなぜですか。これは賢明な方法だと思いますか。

質問6 

この事件をアカンの物語(ヨシ7章)と比較してください。罪に対して過度に寛大にならず、また過度に厳格にならないためには、どんなことに留意すべきですか。ユダ22,23参照

「罪をゆるやかにあしらうことは避けねばならないが、一方、またきびしすぎる批判と、根拠のない疑いを避けることもたいせつである。

自分自身の行為についてのちょっとした非難にも敏感であるにかかわらず、まちがっていると思われる人をあつかうのにはきびしすぎる人が多い。まちがった立場から、非難や誼責によって救われた者はない。むしろそのために正しい道からいっそう遠く離れ、良心の声にさからって心をかたくなにするようになる人が多い。親切な精神、礼儀正しい、寛容な態度は、あやまっている人々を救い、多くの罪をおおうのである」(『人類のあけぼの」下巻151ページ)。

あかしの祭壇—偽りの告発の処理法(ヨシ22:21—32)

質問7

ルベン族はどのように答えましたか。彼らの返答は偽りの告発の処理法に関してどんな原則を明らかにしていますか。ヨシ22:21~32

「誤って非難された場合、もしすべての人が仕返しをやめて、代わりに優しい、和解の言葉を用いるなら、どれほど多くの悪が避けられることか。同時に、罪に強く反対するあまり不当な疑いを心に抱いている人たちも、兄弟たちを最も好意的に見るように努め、彼らに罪がないとわかったなら喜ぶべきである」(『SDA聖書注解』第2巻999ページ、エレン・G・ホワイト注)。

力ある者、神、主(ヨシ22:22)

2部族半は神の三つの御名を二度、繰り返しています—エル、エロヒム、ヤーウェ。これはまた「神々の神、エホバ」を意味します。彼らは自分たちに対する非難に非常な驚きを感じたようです。この繰り返しは彼らの熱心さと真剣さを表しています。

両者は同じ動機から行動した

ルベン、ガド、およびマナセの半部族が祭壇を築いたのは、自分たちの神を忘れないようにという願いからでした。その他の部族も同じ願いを持っていました。しかし、後者は前者の動機を悪い意味に解釈してしまいました。それでも、彼らの態度は賞賛に値します。なぜなら、彼らは自らの過ちに気づいた時、東部の諸部族の思盧のなさを責めることによって自らを弁護しなかったからです。い

質問8 

この出来事は信者のうちに一致を求める時の原則について何を教えていますか。一致の必要を強調している他の聖句を参照してください。詩133、ヨハ17:20~23、1ペテ3:8,9参照

あなたが和解する必要のある人はいませんか。どうしたらそれが可能ですか。

「民の間に一致と兄弟愛があることが神のみこころである。……真理の原則は一つでも犠牲にすべきではないが、このような一致の状態に達することがわれわれのふだんの目標でなければならない」(『人類のあけぼの」下巻152ページ)。

使命を伝える(ヨシ23: 1~13)

質問9 

イスラエルに対するヨシュアの最初の告別説教を調べてみてください(ヨシ23:1~13)。これらの言葉をカナン征服の初めにおいて神が語られた言葉と比較してください。ヨシ1:2~9

ヨシュア記23:6において、ヨシュアはモーセから指導権を受け継いだ時に与えられた内容と同様の励ましの言葉を語っています。「あなたがたは堅く立って、モーセの律法の害にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない」。これは事実上、ヨシュア記1:7を言い換えたものです。

質問10 

ヨシュアはどのような二つの言葉によってイスラエルと主との親密な個人的関係を描写していますか。ヨシ23:8,11

ヨシュアの勧告は偶像崇拝者と交わり、結婚することへの警告の一部となっています(ヨシ23:6―8、12、13参照)。このような警告は現代にも当てはまります(2コリ6:14,15、1コリ5:9―11、エペ5:7,11参照)

「イスラエル人が偶像崇拝者との交わりによって経験した危険とよって経験した危険と同程度に、私たちも背信行為との接触による大きな危険の中にいる。天才や才能の生み出す作品の中には、しばしば致命的な害毒が隠れている。魅力的な装いの下で、理性と精神を魅了し、そそり、堕落させる主題が提示され、思想が表現されている。このようにして、キリスト教国において信仰心が衰え、懐疑論と不信仰が広がっている。……

今日の神の民を悩ます最大の危険の一つは、不信仰者と交わること、特に結婚によって未信者と結ばれることである。……私たちは悔い改めていない人々の救いに対して深い関心を抱き、彼らに親切で礼儀正しい精神を表すべきであるが、神を友とする者たちだけを友とする方が安全である」( 『SDA聖書注解』第2巻999,1000ページ、エレン・G・ホワイト注)。

慈愛と正義(ヨシ23:14~16)

質問11

14節で、ヨシュアはイスラエル人に主の約束されたすべての良いことがみな実現したことを思い出すように言っています。ヨシュア記を振り返り、主がどれほど忠実に契約の約束を実行してくださったか考えてください。

その後ヨシュアは、主の約束された良いことが確実に成就したように、もし神から離れるなら、同様に確実に悪いことが起こるであろうと言っています。

もしその契約を犯し(ヨシ23:16)神は親切にも、イスラエルが忠実であると想定しておられます。それゆえ、イスラエルの忠実さがまだ証明されないうちから、神は彼らを祝福されるのです。

質問12 

ヨシュア記(23:15,16)やその他の聖書の箇所(たとえば、民数11:33、歴代下36:16、黙示14:10,19,15:1)に描かれている神の怒りと報復的正義は文字通りに理解すべきものですか。

「神が、神の民を愛される愛は非常に大きいから、民の罪をお許しになるというもっともらしい説を唱えて、サタンは多くの人々を欺くのである。神の脅迫の言葉は、神の道徳的政府のなかで、ある種の役割を果たしはするが、それは文字通り成就するものではないと、サタンは言うのである。しかし、神は、その被造物に対するすべての扱いにおいて、罪の本性を明らかにあらわし、その確実な結果は、悲惨と死であることを実証して、義の原則を維持なさった。

罪を無条件で許すことは、これまでになかったし、これからもないのである。そのような許しは神の政府の基礎そのものである義の原則を廃棄することになる。それは、堕落しない宇宙を驚嘆させることであろう。神は、忠実に罪の結果を指摘なさった。ところが、もしその警告が真実でないとすれば、どうして、神の約束が成就することを確かめることができようか。正義を廃棄するようないわゆる慈愛は、慈愛ではなくて弱さである」(「人類のあけぼの」下巻154,155ページ)。

強制する意図のない警告は偽りであって、神の品性と全く相いれないものです。それは残酷であって、憐れみ深い神のなさることではありません。

まとめ

臨終に際して、ヨシュアは次の世代に使命を託しています。彼の命令は終末の時代に住む私たちにとって特別な重みを持っています。

*本記事は、安息日学校ガイド1995年2期『神の安息に入る ヨシュア記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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