打ちのめされた弟子たち
エルサレムの城壁の外、ゴルゴタと呼ばれる丘の上には、3本の十字架が立てられていました。その中央に立つイエス・キリストの十字架の周りには、人々の深い悲しみがうずまいていました。
イエスの優しさに満ちあふれていた瞳は今閉ざされ、人々のために伸ばされていたその手は、粗く削った十字架にむごたらしく打ちつけられていました。イエスの死に、弟子たちは恐れと絶望のただ中に投げ込まれ、なすすべもなく立ち尽くすだけでした。
多くのユダヤ人は、旧約聖書に預言されている救い主とは国々を打ち破って大ユダヤ帝国を築き上げる王だと、勝手に思い込んでいたようです。ですから紀元1世紀前後のユダヤの歴史を見ると、自称、他称の救世主が雨後の筍のように現れています。弟子たちもイエスをそうした救国の英雄とみなしていました。だからこそ、戦いも始まらぬ先の総大将の死に打ちのめされてしまったのです。
でも、弟子たちの絶望は3日後、イエス復活の知らせを受けて驚きと喜びに変わります。復活されたイエスは、40日間にわたってたびたび彼らに現れて、神の国について話されました。そして、再び来るとの約束のうちに天に昇られたのでした。
そのとき、初めて弟子たちはイエスが地上の王としてではなく、全世界の人々に神の愛と赦しを伝え、神の国へと招くために来られた方であることを理解しました。それからのち弟子たちは、残る生涯を命をかけてイエス・キリストを伝えていくことになるのです。
立ち直った弟子たち
イエスの復活と昇天は、多くの人に疑問を持たせ、嘲るきっかけを与えました。常識では理解できない事件だったからです。
でも、イエスの弟子たちの行動を見るとき、復活の事実なしには説明できません。十字架前、弟子たちは人間的な弱さをたくさん持っていました。イエスが捕らわれた時、弟子たちは皆逃げてしまいましたし、ペトロなどは、イエスを知らないと3度にわたって否定しています。
その弟子たちが十字架の後、すっかり変わってしまいました。彼らはもうひるみませんでした。待ち受けているであろう迫害と死の危険の中を、最後までイエスを伝えきって殉教していったのです。弟子たちを変えたのは、イエスの復活に対する強い確信でした。希望的な憶測や風聞などではなく、彼らが見た否定しようのない事実でした。彼らはそれに自分の生涯のすべてをかけたのです。
パウロはキリストの復活がなかったならば、それを伝えている「わたしたちはすべての人の中でもっとも惨めな者です」(コリントの信徒への手紙1・15章19節)と言っています。弟子たちはそのために家を捨てました。国を捨てました。そして最後には命までも捨てているのです。
さらに、パウロは次の20節に「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(口語訳)と書いています。「しかし事実」とは、力強い言葉です。例えば私が気象予報士で、さまざまなデータに照らして今日は雨が降らないと予報したとします。でも誰かに、「しかし事実、今降っているよ」と言われたらすべてが覆ってしまいます。その強い言葉をパウロはここで使っているのです。
今日、この世界にたくさんの教会や多くのクリスチャンが存在するのは、この復活という事実があるからです。つまり、キリスト教会は、弟子たちの復活の事実に対する強い確信の上に成り立っているのです。
確信を伝えていく弟子たち
イエスの復活への弟子たちの確信の深さは、彼らがその信仰を他に伝えていったところにも現れます。
初期のキリスト教会には、すぐ迫害の火の手が挙がります。紀元64年のローマの大火のあと、クリスチャンであるというだけで多くの人が殺されていきました。自分たちの伝えたことを信じたために殺されていく人々を、弟子たちはどう思ったのでしょうか。もし弟子たちの確信に少しでもあやふやなところがあったならば、彼らは「信仰を捨てて生き延びてくれ」と叫んだに違いありません。
けれども、弟子たちはそうは叫びませんでした。信じたならばこの人もまた殺されると知りながら、伝え続けたのです。私はそこに、すさまじいとしか言いようのない彼らの確信を見るのです。弟子ヨハネはこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア(救い主)であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネによる福音書20章31節)
弟子たちは、地上の命と、もう1つの神から受ける永遠の命があるのを知りました。そして、この永遠の命こそなにものにも勝ると信じて、死を恐れず語り続けていったのでした。
現代の弟子たち
迫害の中を、死をも恐れなかった初期のクリスチャンと同じように、現代もまた、死を恐れないたくさんのクリスチャンがいます。
Kさんは末期がんを患っている初老の夫人でした。ある日、高熱を出した彼女は、もうろうとした意識の中で、親族への遠慮から口に出さないでいた望み――クリスチャンになりたいという希望を言ってしまったのです。ご主人は快く同意されました。クリスチャンになった彼女は、幸福に輝いているように見えました。死を恐れて眠られぬ夜を過ごしたことも多かったその心に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)という聖書の言葉が染み込んでいったのです。
「こんなに幸せで良いのでしょうか」。彼女の病床に伺うたびに、必ず何度も繰り返し語られるのです。病状が次第に進んでいっているというのに。
Kさんの最後の言葉は、イエスが再び来られるのを待つ言葉でした。あの初代のクリスチャンと同じように――。
聖書の言葉
神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。
イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。使徒言行録2章24節
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