第11課 安息日

目次

安息日とは?

聖書の伝統に従って、今日のイスラエルでは一日は夕方から始まります。毎日の夕方のニュースは「今晩は!新しい日を迎えました」とのアナウンサーの挨拶から始まります。

イスラエルでは、週ごとの安息日(土曜日)の到来を告げるサイレンは金曜日の夕方に鳴らされます。金曜日の夕方、全ての準備が終わった後、ユダヤ人はキッドシュと言われる「安息日の聖別の祈り」の中で、聖書の創世記に出てくる言葉を共に唱和します。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2章1-2節)

イスラエルでは、「よい一週間を」という週の始まりを告げる挨拶は、土曜日の夕方になされます。新しい一週間は安息日の終わった土曜日の夜から始まるからです。一週間は、土曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わるのです。

この一日の始まりを夕方からとする習慣、そして第7日土曜日を安息日として守る習慣は、聖書から由来しているのです。聖書の世界では「時」、そして「安息日」は重要な意味を持っています。

創世記の冒頭に出てくる天地創造の物語は、第1日についてこう述べています。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1章1-5節)

7日間という一週間のサイクルは、どのようにでき上がったのでしょうか。日、月、年などは自然界のサイクルの中で理解できます。しかし週という時間的単位は自然界には存在しません。この週の由来は、旧約聖書に記述されている創造週の中に求められます。

聖書は、安息日を大切な特別な日として扱っています。安息日は創造週と共に始まり、その起源は創世記の天地創造の時にさかのぼります。聖書はこう述べています。

「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。」(創世記2章2-4節)

さきに「十戒」のところで学びましたように、十戒の第四条は、「安息日」についてこう述べています。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

ここで、聖書の中で初めて、聖別という言葉が出てきます。

安息日とは、6日間にわたる創造の業の後の単なる休日ではありませんでした。むしろ創造の業全体が安息日の目標に向かって為されたと言って良いでしょう。創造週は、安息日をもって完成されたのです。

安息日とイエス・キリスト

「イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。」(出エジプト31章16-17節)

この聖書の言葉に従って、イスラエルの人たちは、その歴史において忠実に安息日を守ってきました。

「安息日はユダヤ人だけに与えられた制度」であると主張する人たちがいますが、聖書は、安息日は創造の記念日として天地創造の時から制定されたものであることを述べています。安息日は全人類のために定められたものです。

イスラエルの人々にとってと同様に、イエス・キリストにとっても安息日は重要な日でした。キリストがナザレの会堂において「メシア宣言」と共に、その公的活動を始められたのは、安息日でした。聖書はこう述べています。

「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

『主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである』。

イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた」(ルカ4章16-21節)。

キリストご自身は、ご在世時代、第7日安息日に「いつものように会堂に入り」礼拝されました。聖書が「いつものように」と記しているように、キリストは、ご在世当時、「いつも」安息日礼拝に出席されたのでした。

キリストは、この地上での贖いの働きを完成されたとき、安息日を休まれました。金曜日の午後、キリストは十字架上で「すべては終わった」との言葉をもって、この地上での贖いの働きを終えられました。聖書は「その日は準備の日(金曜日)であり、安息日が始まろうとしていた」(ルカ23章54節)と述べています。

「イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。」(ルカ23章55-56節)

神が創造の完成後、それを祝って第7日目に休まれたように、キリストは人類の贖いの完成後、それを祝って第7日安息日は墓の中で休まれ、日曜日に復活されたのでした。

安息日と初代教会

キリストの弟子たちもまた、安息日を尊びました。使徒言行録の至る所に、弟子たちが安息日を尊びその礼拝に出席したことが記されています。

「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。」(使徒言行録13章14節)

使徒パウロは、伝道旅行中、教会のない所では、「安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った」(使徒言行録16章13節)と報告しています。

「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。」(使徒言行録17章1-3節)

安息日は土曜日か日曜日か

ここで、「キリスト教では、礼拝日は日曜日ではないですか」との質問が出てくることでしょう。しかし、聖書の述べる安息日は「土曜日」なのです。現在多くのキリスト教会は日曜日を礼拝日としています。しかし聖書は一貫して聖日として主張しているのは第7日(現在の土曜日)なのです。

ところが、現代の多くのキリスト教会は日曜日を礼拝日としています。どうしてこうなったのでしょうか。

土曜日から日曜日へ:安息日を変える試み

2世紀以前に、初期のキリスト教会が日曜日を礼拝日としていた記録はありません。

歴史的には、安息日を日曜日とする習慣は、ローマから始まりました。ローマ帝国の首都ローマでは、反ユダヤ的感情が次第に強くなりました。ローマのクリスチャンは、ユダヤ人から自分たちを区別するために、ユダヤ人にとって重要な第7日安息日の代わりに日曜日を礼拝日として守るようになりました。しかし、2世紀から5世紀にかけて、ローマ教会の影響が次第に強くなる中で、ローマ帝国内の多くのキリスト教会は土曜安息日を守っていました。5世紀の歴史家ソクラテスは「帝国内のほとんど全ての教会は毎週安息日に聖なる奥義を祝っている。ところが、アレキサンドリアとローマのクリスチャンは、古来の慣例という理由で、これを中止してしまった」と記録しています。

ローマの教会が日曜日を礼拝日として採用したのは、ローマの反ユダヤ的感情のほかに、もう一つの理由がありました。それは、ローマにおいては太陽神の礼拝が広く行われていたことです。この太陽神の礼拝は、日曜日の礼拝と一致するものでした。

ローマ帝国のコンスタンチン大帝は、紀元321年、日曜令を発布しました。「尊ぶべき太陽の日には、行政官や町に住む人達を休息させ、すべての仕事場を閉じるべし。しかし、地方において農業に従事する人々は、今まで通り自由かつ合法的に、その仕事を続けてもよい。」

やがて、キリスト教はローマ帝国から国教として認められるようになり、ローマ・カトリック教会が形成され、政治的な理由で、日曜礼拝は帝国内に徹底されていきました。ここで政治勢力と宗教勢力が合体し、ローマ帝国の帝王は、同時に教会の長(法王)として君臨するようになりました。

16世紀に入るとマルチン・ルターによる宗教改革が起こりました。当時のローマ・カトリック教会に対して、教会の伝統よりも「聖書のみ」が、キリスト信仰の根拠であると主張したのです。聖書のみに基づいてキリスト信仰を見直そうとするこのルターの姿勢は正しかったのですが、こと日曜礼拝の根拠については、彼は聖書的根拠を持っていませんでした。ローマ・カトリック教会のジョン・エックは、ルターに対して「聖書のみというなら、日曜礼拝の根拠はどこのあるのか」と批判し、こう言ったのです。

「聖書には『安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いてあなたの全ての業をせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから・・』と書いてあります。教会はその権威によって安息日を日曜日に変えました。この点において、あなたは、何の聖書的根拠も持っていないのです。」

さすがのルターも、この安息日については反論できませんでした。

ローマ・カトリック教会は現在も同じ立場をとっています。1977年版の「改宗者のためのカトリック教理問答」の中でこう述べています。

「問い:安息日はいつですか?
答え:土曜日が安息日です。
問い:どうして土曜日の代わりに日曜日を守るのですか?
答え:私たちが、土曜日の代わりに日曜日を守るのは、カトリック教会が土曜日から日曜日に移したからです。」

実は、この安息日の変更については、すでに聖書に預言されていたのでした。聖書は予めサタンが神の律法を変えようと試みることを預言しています。旧約聖書の中で、ダニエルは「彼はいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ」(ダニエル7章25節)と書き記しました。

ここで「時と法を変えようとたくらむ」と予言されていました。時を変えたというのは、安息日を土曜日から日曜日に変えたことです。法を変えたというのは、カトリック教会が神の十戒の偶像礼拝を禁じる第2条を削除して第10条を二つに分けてしまったことでした。これにより、当時カトリック教会で行われていた聖画像や聖遺物礼拝への障壁が取除かれたのでした。

安息日の聖書的根拠

多くのプロテスタント教会(非カトリック教会)は、なぜ日曜日を礼拝日とするかについて、日曜日にキリストが復活されたからであると主張しています。しかし、キリストの復活後、日曜日を礼拝日とするようにキリストあるいは使徒たちが教えまた実行したという記録はどこにもありません。またキリストが安息日を変えられたという聖書的根拠は存在しないのです。

もし本当に安息日が日曜日に変えられたとするならば、創世記の初めから聖書が重要視している安息日の教えについて聖書が何もコメントしていないことの方が不自然なのです。

1976年、全世界を襲ったオイルショックによるエネルギー危機の時、米国の有力なプロテスタント教会の「クリスチャントゥデイ」誌は、「エネルギー危機を克服するために、週に一度、日曜日をみんなの休日として、エネルギーを節約するように」と提案しました。

日曜日を礼拝日とする多くのキリスト教会からはすんなりと受け入れられたのですが、土曜日を礼拝日とする教会からは反対されました。それを受けて同誌の編集者は、こう再提案したのです。

「それでは、土曜日をみんなの休日とするように提案します。プロテスタントとカトリックにとって神学的な問題はありません。キリストが週の初めの日(注:日曜日)に、死から甦られたという事実以外には、土曜日ではなくて日曜日を聖日として守ることを要求する箇所は、聖書のどこにもないからです。」(Christianity Today、1976年11月5日)

聖書を私たちの信仰の土台とする限り、この編集者の言うように、第7日が聖書の主張する安息日であることは明白なのです。

1997年1月、ニュージャージー州のデイヴィット・ヒル牧師は、彼の教会の信徒から「日曜を礼拝日とする聖書の根拠はどこにありますか」と質問されました。彼は「では次の日曜日に、その問題について説教しましょう」と約束しました。彼はその週は日曜礼拝を支持するとされている聖書の箇所を一生懸命研究しました。驚いたことに、彼は日曜日を支持する聖句を見出すことはできませんでした。次の日曜日、彼は教会員に向かって、このことについて説教するにはもう少し時間が必要であると述べました。

3ヶ月間彼は熱心に聖書を調べました。彼は、図書館や書店に出かけて、いかに安息日が土曜日から日曜日に変わったかを研究しました。3ヶ月の熱心な聖書研究と歴史的文献を調べた後、ついに彼は日曜日の聖書的根拠について説教しました。教会員が驚いたことには、彼は日曜礼拝について聖書的根拠はないしそれを正当化できないと結論しました。彼は教会員に向かって、聖書原理にたちかえり彼と共に土曜日を安息日として守るべきであると促しました。ほとんどの教会員は彼の提案に従い、彼らはその教会の礼拝日を日曜日から土曜日に変えてしまったのでした。

安息日の意義

1.創造の記念日

安息日は、神がその創造の業を記念して制定されました。「安息日を覚えて、これを聖とする」ということは、どういうことでしょうか。それは、神を私たちの創造主として認め、告白することなのです。ではそうすることはどのような意味を持つでしょうか。

第一に、それは神が私たちの創造主であり、私たちは偶然に存在するものではないこと、故に私たちの人生にははっきりした目的があることを意味します。

安息日を守るということは、私たちの日々の生活の活動を究極的に支えているものは、人間自身の業ではなく、神の一方的恵みによるものである、ということを告白し実践していることなのです。創造主なる神を拝む安息日は、私たちのあらゆる礼拝の基礎となるものです。

第二に、それは、神を第一として神以外のものを神とすることを拒否することを意味します。何が被造物である人間にとって最も重要なものかが、安息日において、はっきり自覚されます。世界の背後にあって、厳然として働きたもう神のご支配を自覚するのです。この宇宙空間と時間の究極の支配者である神を礼拝するために、6日間の働きの後に、私たちは安息に入ります。それにより私たちは自らの労働から解放され、自由になるのです。

私たちが、創造の神を信じることは、現代的問題の一つである、環境問題にも関わってきます。この地球は神の創造による産物であり、あくまでも神に属するものです。地球は人間の所有物ではなく、神から管理を委託されているものです。安息日を尊重すると言うことは、神の創造された自然界の秩序を尊重することです。もっと積極的に表現するならば、その自然の秩序を守っていかねばならない責任が負わされているのです。

2.休息(安息)の日

その言葉が示しているように、安息日は休息の日を意味します。ストレスに満ちた情報化社会の中にあって、ますます人類は安息日の休息を必要としています。

安息日に私たちは日常の仕事の労苦から解放されて自由にされます。トーマス・アクイナスの言葉を借りれば安息日の休みは「神と共に休日をとるために、人生のある時間をとっておく」ことなのです。

安息日において、私たちは神を礼拝する自由へと導かれていきます。安息日の礼拝において私たちは神の安息を受け取り、魂の休みを体験するのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11章28-29節)とのキリストの招きに私たちはあずかるのです。神学者ヘッシェルは、安息日とは「時間と労苦という嵐の海で、港に入り人間の尊厳を取り戻すことのできる静かな島」であると表現しました。

3.贖いのシンボル

神がイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放された時、安息日は、解放の記念日ともなりました。

「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5章15節)

安息日は、救いと自由を意味します。私たちが創造の記念日である安息日を覚えてこれを守るということは、創造主なる神は私たちの救い主であること、そして創造主なる神のみが、罪のために失われた人類を再創造なさることができるという信仰を言い表しています。

安息日は、神様からの一方的な招きと恵みによるものでした。創造当初、アダムとエバが安息日の祝福を手にしたのは、彼らがなした行為の故ではなく、ただ神の招きによるものでした。人類の歴史は安息日から始まりました。人類にとって第7日安息日は、人類が創造された第6日の後の最初の日でした。神にとっては6日間の創造働きの後に安息日があったのですが、人類にとっては、安息日が最初の日であり、その後に6日間の働きがあったのです。

カール・バルトという神学者はこう書いています。「ここで人間は、神が6日間の働きの後に休みたもうたように自分の働きの後に休みのではない。人間はただ神の休み、神ご自身の働きによる休みに、この神の祝いに参与させられるのである。創世記2章3節の安息日は、神のわざの完成の日であるが、人間の歴史に対しては一番最初の始まりの日である。人間は自分のわざや働きによるのではなく、この祝福に参与することを命じられている。そこから人間の歴史は始まるのである。・・・私たちは神の恵みに向かって登っていくのではなくて、そこから降りてくることによって自分のわざを行う日々を歩むのである。人間の実存の始まりに、このように主の日が約束に満ちて存在するのである。」

これは、私たちの人生において、もっとも大事なことは、まず神との関係を第一にすること、そしてその他のこの世に属する事柄は、全て神との関係から決定されるということです。

神学者カール・バルトは「安息日の休みは、人の働きを禁止するのではない。働きへの信仰を禁止するのである。人間が、自分自身の働きで、自分の計画や意志で、自己を救い義とすることができるかのような錯覚をすることに厳しい制限を加えるのである」と言っています。

私たちが日常の働きを一時中止して安息日の休みに入る時、あらゆる人間的行為への信仰を中止しているのです。安息日は、私たちを日常の働きから解放することにより、私たち人間が神に対して自律的に生きようとする誘惑から逃れさせてくれます。

4.神との関係のしるし

「わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった」(エゼキエル20章12節)と聖書に記されているように、聖書は、安息日は「神と人間との間のしるし」となるものでした。

十戒の第4条にあるように、聖書は安息日を重要視しています。人間が神と交わる時間をもつようにと制定されました。忙しい週日の生活の中にあって、聖書は「主は安息日を祝福し聖とされた」と述べています。

天国は神と共にあるという経験です。安息日に神様の特別なご臨在を体験することによって、私たちは天国の体験をあらかじめこの世において先取りしているのです。

私たちは、安息日において、神様のご臨在を体験します。安息日において私たちは、来るべき天国の体験の先取りをしているのです。聖書は天国について「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして」(黙示録21章3節)と表現しています。

天国は神と共にあるという経験です。安息日に神様の特別なご臨在を体験することによって、私たちは天国の体験をあらかじめこの世において先取りしているのです。その意味において、週ごとの安息日は「天国への一里塚」だといえるでしょう。永遠と時間は安息日において相交わっているのです。

5.聖化と忠誠のしるし

サタンが「神の時と律法を変える」と預言されていました。サタンは人間にとって重要なこの安息日の真理を曲げようと努力して成功しました。神に忠誠を尽くそうとするならば、聖書の真理にもう一度帰ることが必要です。聖書は安息日についてこう述べています。「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」(イザヤ58章13-14節)。

私たちは、安息日を喜びの日として安息日を尊重し、自分の業や楽しみではなく神のみ旨を行うように召されています。

以上に述べたように、安息日は、クリスチャンにとって重要な意味を持つものです。それだからこそ、神に反対する勢力(サタン)は全力を持って、この安息日を変更しようとしたのでした。プロテスタントの精神は「聖書のみ」です。この精神に生きようとするならば、神に従うものは、聖書の全ての真理に従うことが求められているのです。

聖なる時

ヘッシェルは「安息日:その現代人への意味」の中で、こう言っています。「安息日の意味は、場所ではなく時間を祝うことである。週の6日間、私たちは場所という事物に縛られて生きているが、安息日には、私たちは聖なる時間に調和しようとするのである。この日においては、私たちは、創造の産物から創造の奥義へと、創造された世界から世界の創造へと心を向け、永遠の時というものを共有するように招かれているのである。」

ヘッシェルが「安息日の意味は、空間ではなく時間を祝うことである」と述べているように、安息日の意義は「聖なる時」にあります。空間としての「聖なる場所」は特定の場所に限定されてしまいます。しかし「聖なる時」は、何処にいようと全ての人が平等に手にすることができるのです。人は、聖なる場所を避けることができ、またそれを破壊することもできます。しかし人は、聖なる時を避けたり、それを破壊したりはできません。

人がどこにいようと、安息日の祝福は全ての人に平等に提供されています。さらに「聖なる時」は、その人の全存在を包括するのです。

多くの宗教は、像をもって神を表しています。しかし、聖書の神は、ご自分を表すのに時間(安息日)を用いられました。神学者モルトマンは「他の宗教は神を像において表わし、イスラエルは時間において表わした。すなわち安息日は像なき神の現臨である」(創造における神)と述べました。

安息日の過ごし方

聖書によれば一日は日没から始まります。週の最初の日は、土曜日の夜から始まります。安息日は、金曜日の日没から始まり、土曜日の日没に終わります。1週間の歩みは、この安息日に向けて整えられると言っても過言ではありません。安息日は、私たちが神様と集中的に交わることができるように聖別されているのです。

私たちの日常生活の中心に神を礼拝する安息日はすえられています。一週間の生活が、この安息日の祝福に向かって全て整えられていることを自覚しながら毎日を送りましょう。

聖書によると、安息日は、金曜日の日没に始まります。聖書を信じる多くのクリスチャンは、その時を讃美と祈りのうちに聖書を読みながら迎えます。土曜日の朝は、教会の集まりに出席します。そこでクリスチャンの仲間と共に聖書を学び、礼拝説教を通して神のみ声に耳を傾けます。

午後は、日常の活動を離れて信徒の同胞と共に、神のみ言葉を学んだり、隣人への奉仕に生きながら、神のみ言葉とみ業を集中的に体験します。そして、土曜日の夕方には、感謝と祈りのうちに日没を迎え、新しい一週間へと歩み始めるのです。

ある人は「自分にとっては毎日が安息日だから、安息日だけを特別視しない」と言いました。それは、祈りについて「自分の生活全体が祈りだから、特別に祈りを必要としない」というのと同じです。神に集中する祈りの時を持たないなら、いつしか信仰生活は忙しさの中でおろそかにされてしまうでしょう。安息日を特別の日とする努力を怠るならば、私たちの信仰生活から安息日の意義がいつのまにか失われていってしまいます。安息日には、私たちは日頃の活動を中断して、神と共に安息日を祝います。全身全霊を持って安息日を尊ぶ姿勢によって、私たちは、神こそが第一であることを証しすることができます。

私たちが、自らの日常の働きを中止して、安息日の休みを手にするようにとの神の招きに応えて創造主であり贖い主である神に1日24時間を捧げる時、私たちは、神こそが私たちの救いの完成者であるとの信仰を、自ら告白し実践しているのです。

「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。・・・それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(ヘブル4章1-3、9-11節)

現代の私たちも、この安息日の休みに招かれています。あなたもこの神の約束を受け取りたいと思いませんか。

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