第2課 スター・ウォーズ-反逆者はだれだ!?

目次

神様なんて本当にいるのですか?

私には、決して忘れられない1つの体験があります。その日、私は23歳になる男性の家族と一緒に病院の待合室にいました。この男性が手術を受けていたからです。彼の奥さん、両親、そして私は、雑談をしながら外科医が術後の報告をしに来るのを待っていました。

やがて、緑色の手術衣をまとった医者が手術室から姿をあらわし、こちらへやって来て言いました。「悪いお知らせがあります。患者さんの胃の裏側にグレープフルーツ大の腫瘍が見つかりました。あと3か月しか生きられないでしょう」

私たちは一瞬気絶しそうになりました。だれ1人動くこともできず、息も詰まる思いでした。しばらく沈黙が続き、やがて耳をつんざくような泣き声が待合室に響きました。私は生きている限り、その泣き声を忘れることができません。そのとき、気が動転していた母親が私のほうを振り向き、苦痛のあまりに言ったのです。

「牧師さん、神様なんて本当にいるのですか?」

泣きながら彼女は席を立つと、出て行ってしまいました。

「神様なんて本当にいるのですか?」

今日、人間が発することのできる、これほど痛烈な質問は他にないでしょう。絶望のあまりこの質問をぶつけた母親を、一体だれが責められるでしょうか。突然襲ってくる、手のほどこしようのない苦悩に直面している人に対して、どのように神の存在や慈悲深さを説明すればよいのでしょうか。

この厳しい質問は、実は私が数か月前、匿名で受け取った次のような手紙と本質的に同じものでした。

親愛なるネルソン牧師様

私とボーイフレンドは、3年以上つき合ってきました。私たちは2人ともクリスチャンとして育ちましたが、長い旅行に私が出かけている間に、彼は突然信仰を変えてしまったのです。彼が考えていることは、次のように要約できると思います。

●なぜ神は罪を創造されたのか?

●なぜ神は罪をそのまま放っておかれるのか?

●神が何も手をつけず、罪のない人たちが苦しむままに放っておかれることを考えると、神は残酷な方だと思える。

●だから私は、神と関わりを持ちたくない。……

何と答えたらよいのでしょうか?もし神が、本当に慈悲深い愛の神であられるならば、私たちの心にひそんでいる疑問や失意について、いかに説明すればよいのでしょうか?

天で戦いが起こった!

この答えを得るためには、可能な限り物事の出発点にまでさかのぼる必要があります。「スターウォーズ」の舞台よりもはるか大昔、銀河系をまたにかけてダース・ベーダーやルーク・スカイウォーカーがレーザー剣を振り回した人間同士の戦いよりもはるか以前に、さかのぼらねばなりません。時間を何十億年もさかのぼると、そこには最初のスターウォーズ、最初の戦いの物語があるのです。生命の始まり、歴史の始まり、この宇宙におけるすべての苦難の始まり、聖書が伝える一つの悲劇にぶつかるのです。

聖書の一番最後の書物を開き、聖書全巻の中でも最も私たちに衝撃を与える一節を読んでみましょう。

「さて、天で戦いが起こった」(ヨハネの黙示録12章7節)

みなさん、信じられますか?!完全な理想郷であるはずの天国で、戦いが起こったというのです。私たちのこの世界で戦いが起こるはるか以前に、天で戦いが起こっていたのです。と言うことは、今日この地球上で、いえ、この全宇宙の中で、戦争の被害を受けていないものは何一つないということになります。

「さて、天で戦いが起こった」。そうです。星の世界における、まさにスターウォーズが実際にあったのです。しかし、いと高き神に敢えて戦いを挑んだ恥ずべき挑戦者とは、一体だれだったのでしょうか?一体だれが、神と戦ったというのでしょうか?聖書の続きには、こう書かれています。

「ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」(同7~9節)

みなさんは竜を見たことがあるでしょうか?ここに出てくる竜とは、一体何者なのでしょうか?聖書のスター・ウォーズを詳しく調べるにあたって、まずはっきりさせておかなければならないのは、この「火のように赤い大きな竜」(同3節)が、おとぎ話に出てくる醜い小悪魔のようにちっぽけな存在ではない、ということです。

悪魔とかサタンと呼ばれるもの

ところで、中国にこんな盗賊のお話があります。彼らは山奥に住み、農民たちが収穫を始めると、大挙してやって来てはその収穫物を奪うのでした。そんな事件がくり返されたので、村人たちは自衛団を結成して対抗しました。この抵抗運動は功を奏し、盗賊たちの強奪も一時やんだのです。しかし盗賊たちは決してあきらめず、一つの計画を練りました。彼らは1人の年寄りを雇い、賊の頭が亡くなった、という噂を村中に言い広めさせたのです。これを聞いた村人たちは安堵し、警戒の手をゆるめてしまったのですが、まさにそのときをねらって、盗賊たちは再び村を襲い、収穫物を残さず奪い取ってしまったのでした。

悪魔とかサタンとか呼ばれる黙示録の竜は、どんな山賊よりも賢い存在です。彼は現代の心理学や神学という「年寄り」を雇って、悪魔は存在しない、と私たちに思い込ませようとしています。悪魔などというものは想像の産物にすぎない、とこの地球の堕落したイデオロギーを用いて悪魔はうそぶいているのです。

それにしても、一体彼はどんな存在なのでしょうか?この銀河系間のスターウォーズの危機的状況を理解しようと思うならば、黙示録の描く竜の正体を明らかにする必要があります。それには、聖書の二か所の聖句を調べるとよくわかります。

一か所目は、エゼキエル書28章です。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。/お前はあるべき姿を印章としたものであり/知恵に満ち、美しさの極みである。/お前は神の園であるエデンにいた。/あらゆる宝石がお前を包んでいた』」(11~13節)

彼の姿に注目しましょう。驚くことに、この大きな戦いをしかけた極悪な存在は、かつて非常に美しかった、というのです。また、「ティルスの王」とは、この非常に美しく、エデンの園の昔からいる極悪な存在を象徴的にあらわしているもの(その手先)にすぎません。

さらに14節には、こう記されています。

「わたしはお前を/翼を広げて覆うケルブとして造った。/お前は神の聖なる山にいて/火の石の間を歩いていた」

これまでにわかったことをまとめてみると、この存在者は、

●かつて、エデンの園にいた。

●この宇宙で、太古の昔のある時点に、神によって創造された。

●「翼を広げて覆うケルブ」として造られた

●「神の聖なる山にいて、火の石の間にいた」。

明らかに、この天使ほど神の近くにいた被造物は他にありませんでした。15節には、「お前が創造された日から/お前の歩みは無垢であったが/ついに不正がお前の中に/見いだされるようになった」とあります。

罪を生じさせたもの――「私」

この完全な天使の心の中に、ある変化が起こったのです!どのような不正、どのような罪が生じたのでしょうか?第二の聖句を見てみましょう。イザヤ書14章です。

「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。/お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ」(12節)

ヘブル語で「明けの明星」という意味のこの堕落した天使は、古代ラテン語では「ルシファー」と呼ばれました。天の戦いの扇動者ルシファーは、今日戦いで引き裂かれた宇宙の背後に存在する、ずば抜けた知性の持ち主なのです。彼の罪とは何だったのでしょうか?「かつて、お前は心に思った。/『わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し/雲の頂に登って/いと高き者のようになろう』と」(同13節、14節)

最高の被造物を堕落させた罪とは、彼の名前「ルシファー(Lucifer)」の真ん中にある文字によって象徴されるもの。英語の「罪(Sin)」や「高慢(Pride)」という言葉の真ん中にも入っているもの。それは、「私(I)」でした。私、私、私……、この私が問題となって悲劇が起こったのです。

自己中心が起こす問題、それは「自己崇拝」に他なりません。自己崇拝!これが、かつては完全な天使であった者を、偽りと死の代理人に変えてしまったのです。

反逆者はなぜすぐに処刑されなかったのか

ところで、みなさんは、こんな疑問をいだかれないでしょうか?「なぜ神は、愛と安全の名のもとにルシファーを天から追い出されたのか?神はその場でルシファーを処刑しておくべきではなかったのか。もしそうしていれば、この世界は、人類が苦しむような破目に陥らなくても、済んだのではないか……」

全くその通りです。この疑問は当然の疑問です。しかし、次のようなことも考えてみてください。もしあのとき、神が直ちにルシファーを滅ぼし去っていたとしたら、この宇宙はその後どうなったでしょうか?

例えば、ある国の大統領が、根拠のない詐欺と横領で訴えられたと仮定してください。側近である閣僚の一人と、数人の国会議員が、多額の詐欺と横領事件をでっちあげて大統領を告発したとしましょう。そこで、全軍の総指揮権を持っている大統領は、自分を告発した者たちを直ちに殺すよう、軍隊の指揮官に命令しました。

確かに大統領は、すべての反対者を一夜のうちに沈黙させることができます。しかし、このようにして反対者を消し去ると、大統領は本当に金銭を横領したのではないか、という疑念をかえって残すことになるのではないでしょうか。いえ、もし大統領が軍隊を出動させたとしたら、国民は大統領の無実どころか、有罪を確信することになったでしょう!

神は、ルシファーの起こした反逆の当初に、彼を亡きものにする危険は冒されませんでした。もしそうすれば、ルシファーの主張は正しい、と全宇宙の住人に誤解を与えたかもしれないからです。そこで神は、別の危険を冒されました。神はルシファーを生き延びさせ、彼のとんでもない反逆の手の内を明らかにする機会を与えられたのです。神は、この堕落した天使が、罪深い高慢心の果てに、どんなに恐ろしい化け物に変わり果ててしまうかを実証されたのです。

こうして、悪魔の反逆は、機が熟すまで放置されたのでした。すべての心ある観察者たちに、その悪しき結果が明らかになるまでです。もし神が本当に愛であられるなら、悪魔にその手の内を示す機会を与える以外の選択はあり得なかったのです。

完全な愛は、完全な自由を意味します。ですから、堕落したルシファーに、神に対する反逆という彼の主張をあらわす機会が与えられなければならなかったのです。見方を変えると、神の愛の支配が、地球という創造されたばかりの世界の住民に示されねばならなかったのでした。

エデンの園での大事件

読書のみなさんは、エデンの園における人類の最初の両親、アダムとエバについての物語をお聞きになったことがあるでしょう。蛇にだまされたエバが禁断の木の実を食べてしまった、というあのお話です。創世記には、こう記されています。

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。/『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』/女は蛇に答えた。/『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』」(3章1~3節)

ここで何が起こったのでしょうか?この「古い蛇」が何者か、私たちは知っています。あの「ティルスの王」のように、蛇も、ずる賢いルシファーの手先なのです。しかしこの箇所には、一読しただけではわからないもっと深いことが隠されています。実のところ、この悲劇の中に神の驚くべきお姿が描かれているのです。

神の愛は決して強制しない

創世記2章16、17節には、こう書かれています。

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」

ここに神の愛のご品性に関する偉大な真理の1つがあります。愛のすべてに関する事実が、ここにあるのです。愛が愛であり得るためには、「はい」と言える権利だけでなく、「いいえ」と言える権利も相手に与えなければなりません。あなたに「いいえ」と言わせない愛は、実は愛ではないのです。愛は決して強制しないのです。

神はエデンの園に投票所を設けることによって、そのことを実行されたのです。園の中央にある木は「善悪の知識の木」と呼ばれ、神の態度は次のようなものでした。

「あなたたちがいつまでもここに住み続けることを、私は望んでいる。しかし私は強制しない。そこで、この木を園の中央に置こう。もし私に反対し、私の愛と命を拒みたいならば、この木の所へ行くがよい。堕落した反逆者のルシファーは、この木の所でしかあなたたちに近づけないからだ。しかし私は警告する。もしあなたたちがこの木の所へ行き、ルシファーを選ぶならば、彼が与えるものしか得られない。それは愛と命とは正反対のもの、憎しみと死だ」

その木は、心で選んだことを行動で示す、あたかも投票所となったのです。愛による選択の自由は、これ以上明らかにできないほど明確に示されました。悲劇は、彼らが選択の自由を持っていたことではありません。悲劇は、彼らが神から自由になることを選択したことなのです。

反逆への参加

こういうわけで、あの運命の日、エバはたった1人で投票所のそばへ行ってしまったのでした。創世記の物語は、次のように続いています。

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」(3章4、5節)

ルシファーは蛇を通して、「エバよ、神ではなく、私を信じなさい。この実を食べれば、あなたは神のようになりますよ」とささやきかけたのです。

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を採って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(同6、7節)

こうしてアダムとエバは、愛の神に反抗するルシファーの反逆に加わったのです。その後、彼らの血を継ぐすべての子らは、みな同じ反逆に加わり、スターウォーズの渦中に投げ込まれることになったのでした。こうして私たちは、悪魔の偽りの中に、1人残らず落ち込んでしまったのです。

苦難の歴史をもたらした張本人

ここで、再び同じ質問がなされても不思議ではありません。アダムとエバの反逆的選択の結果、悲劇的な人類の歴史が訪れることを神が知っておられたのなら、なぜ直ちに彼らを滅ぼし、人類に新しく出直すチャンスをお与えくださらなかったのか?

その答えは、ルシファーが天の王国に反逆する勢力を結集したとき、直ちに滅ぼされなかったのと同じ理由です。もし直ちに人類が亡ぼされたとしたら、神に忠誠を誓う宇宙の他の住民たちは、「見てごらん。神にたてつこうものならすぐに殺されてしまう」とひそかにささやき合ったことでしょう。

このような恐怖心を忠誠や愛の動機とすることは、愛と命の主であられるお方にとって、全く受け入れられないことなのです。愛の唯一の選択は、ルシファーがこの地球に横暴な手を伸ばし、したいことをするにまかせているただ中で、人類の反逆する心に愛を呼び覚ますことでした。罪の恐るべき正体を暴かねばならないのです。

こうして、この宇宙における悲劇的な苦難の歴史が始まりました。広漠たる宇宙空間のほんの小さな惑星が横暴な悪魔に占領され、反逆の実験室となったのです。破壊、流血、災害、病気、そして死が、やむことを知らずに綿々と続き、歴史は憎悪、恐怖、絶望、悲惨、苦痛をくり返し生み出してきたのでした。

本物のスターウォーズの話を、きょう明らかにしたいと思います。人間にあらゆる苦難と苦痛、涙と悲しみをもたらした張本人は、反逆した堕落天使であって、その名はヘブル語で「敵対者」という意味を持つ、悪魔(サタン)なのです。

クリスマス物語の真相

この世界は炎に包まれています。そして、燃えさかる炎の真ん中に立っているのは、この火をつけた暗黒の放火魔であり、彼は神を指さしながら非難し、「すべての責任は神にある」と偽りの告発をしているのです。愛の神はどうなさればよいのでしょうか?放火魔の偽りを信じ、自分たちを救うことのできる唯1のお方から逃げ続けている人間に向かって、神はどのようになさるべきなのでしょうか?

神は、人類が彼のもとへ立ち帰るように、「この世界に向かって愛を訴えよう」と決心なさった、と聖書は述べています。そこで神は、預言者、王、聖徒たちを通して、何度もメッセージを送ったあと、ついにすべてを脇に退け、こうごうしい神の衣を脱ぎ捨て、自らこの地上に降り、私たちの心の扉をノックしてくださったのです!

マタイによる福音書1章18~23節には、こう記されています。

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

この箇所は、クリスマスの不思議な物語です。心をお痛めになった神が、神から逃げている人間を追い求めておられる愛の行為のお話なのです。神は、私たち人間の世界に、小さな傷つきやすい赤子として、しかも馬小屋の飼い葉桶の中でお生まれになったのでした。こうして、神ができる限り人類の近くにいてくださるという、深遠で神秘的な選択をなさったのです。

もちろん、この神秘を私たちは理解できません。宇宙の王が、この反逆した惑星にやって来られて、敵の真っただ中に上陸し、逃げる私たちを強い愛をもって追い求められたなどということは、私たちの理解力を越えています。

イエスはただの善人なのか

私は最近、神ご自身が降りて来られ、私たち人間と同じように生活なさったイスラエルの地を実際に歩きました。

少年イエスは、村の他の子供たちと同じように成長していきましたが、際立って親切で、優しく強く寛大でした。彼は右の頬を打たれたなら、左の頬を向けましたが、そうするときでも、決して弱々しくは見えませんでした。30歳になったとき、彼は大工の仕事場を離れ、南の方へ旅をし、泥水の川で洗礼を受けました。その直後、彼は四十日四十夜荒野をさまよい、あの堕落した天使長に誘惑されましたが、それに勝利されました。

彼は病人をいやし、死人をよみがえらせ、孤独な人を愛し、罪人を温かく迎えました。ご自分を求めてくるすべての老若男女にご自分の愛をお分かちになったのです。

私たちは、彼のこの生涯をどのように説明したらいいでしょうか。ある人々は、「イエスは、釈迦やマホメットや孔子のように、善人にすぎなかった」と言うかもしれません。しかし、それは違います。聖書が彼について証言している事柄をそんなに簡単に打ち消し、彼を否定することはできないのです。オックスフォード大学の教授であったC・S・ルイス(『ナルニア国物語』の著者)をご存じでしょうか。彼は若いころ無神論者でしたが、最後にはイエス・キリストの信者となった人です。その彼が、こう書き残しています。

「私は、人々がイエスについてしばしば言う本当に愚かな言葉を言わせないようにしたい。彼らは、『私はイエスを偉大な道徳の教師としては受け入れますが、神であるという彼の主張は受け入れません』と言う。これは、私たちが言ってはならないことなのだ。単なる人間である者が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、その人は、決して偉大な道徳の教師ではあり得ない。彼は精神異常者か、もしくは地獄からきた悪魔であろう。あなたが自分で選ばねばならない。この人はまぎれもなく神の子であるか、そうで

なければ、狂人、もしくはもっとたちの悪い人であるかのいずれかである。あなたは彼を馬鹿にしたり、唾をかけたり、悪鬼につかれた者として殺すこともできる。あるいは彼の足もとにひれ伏し、主なる神よ、と呼ぶこともできる。しかし、彼が偉大な人類の教師である、などというたわ言を支持するようなことはすまい」

自ら苦難を担われる神

旧約聖書のイザヤ書は、イエスがお生まれになる650年前に書かれましたが、新約聖書にその成就が記録されている通り、こう預言しています。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。/権威が彼の肩にある。/その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ書9章5節)

「力ある神、永遠の父、平和の君」が、ベツレヘムの赤子として私たちのもとに来られたのです!なぜ彼はおいでになったのでしょうか?それは、私たちの苦しみをともに分かち合うために、インマヌエル(「我々と共におられる」神)としておいでになったのです。

「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった」(同書63章9節)

「彼ら」を「私たち」と置き換えて読んでみてください。この神は、他の宗教の神とは全く違う神、私たちと苦難をともにしてくださる神なのです。

ルシファーは間違っていました。神は、ご自分の子らが苦しむのを冷ややかに放っておかれるような利己的で、無情なお方ではありません。ご自分がお造りになったものを深く愛するあまり、悪魔の手に落ちた暗黒の世界に自ら飛び込んで来られるお方。私たちの苦難をご自身の苦難とし、私たちの死をご自分の死となさったお方なのです!

しかし神は、ただこの苦痛にうめく地球に降りて来て、私たちの苦難や苦痛をご自身の身に受けられるだけで事足れり、とされたのではありません。神の愛は、人間の苦難を永久に終わらせるために、悪魔の堕落した支配を打ち破られたのです。

十字架における身代わりの死

では、どのようにしてそれがなされたのでしょうか?これこそ、スターウォーズの輝かしいクライマックスなのです!私たちの苦難と死をご自身のものとして受けられた神は、この地球上で死をつかさどる悪魔を征服なさり、その結果、死そのものを滅ぼされたのです。

ヘブライ人への手紙2章9、14、15節を読んでみましょう。

「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。……ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」

彼は、私たちを解放するために来られたのです!悪魔から、苦難から解放するためです。その結果、もはや悲劇も、涙も、病も、死もなくなるのです。

イエス・キリストが十字架上に両腕を広げ、堕落したルシファーの恐るべき拷問に身をまかせられたとき、悪魔の恐るべき化けの皮がはがされたのでした。そして、神は無情で信頼できない、という神に対する悪魔の非難が偽りであることが明らかになったのです。

こうして、スターウォーズの真相がついに明るみに出されたのでした。この地球の苦難は、すべて悪魔のせいである。つまり、神の王国を戦争へと導き、インマヌエルの神を殺してしまったのは、自己崇拝と狂気じみた高慢心に取りつかれた悪魔のせいであったことが明らかになったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)

神の愛に動かされた一人の神父

私は、復活祭を過ぎたある日の朝、静寂なアウシュビッツの敷地に立っていました。そして地下深く降りて、あの神父の独房へ行ったのです。暗がりに目をこらして見ると、独房には美しい花が飾られていました。

勇敢な囚人であったマクシミリアン神父の話をご存じでしょうか?ある凍りつくような寒い日、点呼のときに看守が不運な若者の囚人番号を大声で読み上げたのでした。彼は規則違反の責任を負わされ、他の囚人の見せしめとして処刑されることになり、前方へ進み出るようにと命じられました。

そのとき、神父は若者のそばにいたのですが、若者が呻くように、「私は死にたくない。妻と子供がいるんだ」と言うのを聞きました。その瞬間、神父は決心したのです。「彼の代わりに私を処刑してください」と神父は叫びました。「この男はまだ若いし、家族がいるのです。見せしめなら、だれであってもかまわないでしょ」と。

指揮官はしばらく困惑していましたが、「代わりにこの神父を処刑せよ」と命じました。そして彼らは、その通りに実行したのです。

他の人(マクシミリアン神父)が進み出てあの若者の死を自分自身に引き受け、その結果、若者は生き、他の人が死にました。これこそが、苦しみを受けるために地上においでになり、カルバリーで亡くなられた神の物語なのです。彼は前に進み出て、あなたや私の身代わりとなられたのです。そしてルシファーは、私たちの代わりに彼を殺したのです。

あなたは「いいえ」と言えますか?

アウシュビッツ第11棟独房番号1632号室の壁には、いまでも刻まれた十字架が残っています。その十字架のそばに、囚人はイエスの顔を彫りました。イエスの顔のすぐ下には、破れた心臓が彫られています。そして壁には、次の文字が書かれています。

「イエスはここにおられた」

みなさんがきょう何に苦しんでおられるのか、私にはわかりません。しかし、はっきりわかっていることがあります。それは、だれがあなたを苦しめているかということ、だれがあなたとともにその苦しみを耐えてくださるかということです。

あの独房の壁の文字は本当です。「イエスはここにおられた」のです。イエスがここにおられたので、悪魔の恐怖の支配は最終的に絶滅することが確かなのです。イエスがここにおられたので、スターウォーズの最終的勝利は無条件に保証されたのです。

思い出してください。神の愛は、神に対して「いいえ」と言う権利を人間に与えましたが、同時に「はい」と言う権利も与えているです。人類の苦しみと心の痛みを前にして、うそつきの反逆者に対して「はい」と言い、愛にあふれる神様に対して「いいえ」と言うことなど、一体だれにできるでしょうか?

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