詩篇23篇
主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のために
わたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは
死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと
共におられるからです。
あなたのむちと、
あなたのつえは
わたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、
わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに
油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが
伴うでしょう。
わたしはとこしえに
主の宮に住むでしょう。
詩篇23篇は、主にゆだねたクリスチャンの経験を描写した美しい詩です。マルチン・ルターは「小聖書」と呼びました。短篇の詩ですが読む人に深い感動を与えるので、美しい歌声をもって人の心に慰めを与える小さな鳥、「ナイチンゲールの詩」という人もいます。
この詩を書いたダビデは、少年の頃、羊飼いをしていました。彼は牧羊者の艱難辛苦をつぶさに味わい、羊に対する深い愛と犠牲を体験したのです。紆余曲折に富んだ青年時代を経て、イスラエルの王位につきました。この詩は神の霊感を受け、彼の生活と信仰の深い体験に裏づけられて生まれ出たものです。
聖書の中で詩篇23篇が置かれている場所を見ると、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(詩篇22篇1節)という悲痛な叫びで始まる「十字架の詩」と、「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」(詩篇24篇9、10節)という歓喜の声で終わる、凱旋の詩との間に置かれています。
ここには緑の野と静かなみぎわと草をはむ羊が描かれています。これはクリスチャンの地上生活の経験をあらわしています。人生のさまざまな苦難を通して、生きて働かれる神との出会いを経験することによって、私たちは神の栄光の国に導かれるのです。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ人への手紙4章19節)という神の約束が人生の中に現されるすばらしい経験をここに見ることができます。
わが牧者
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(1節)
この冒頭の一句は、人生の行路における神の導きと保護とをうたっています。これに続く数節は、この思想、この信仰の発展です。
「主はわたしの牧者」、これはキリスト教の根本的真理であり、クリスチャンの生活の土台です。
羊飼いと羊の群れとの関係は、私たちが想像する以上に密接なものです。羊飼いはこの弱い動物を保護し養っていくために辛苦を重ね、あらゆる犠牲を払うのです。羊はその飼い主をよく知り、その声をわきまえる本能をもっています。
「主はわたしの牧者」と詩篇の記者がうたったときに、羊と羊飼いを結んでいるその密接な生命的なつながりを考えていたに違いありません。天地を創造された神、罪を犯して望みのない状態におちいった人間のために、ひとり子イエスをお与えになった神、天のみ座を捨てて人類の罪を負われたイエスが「わたしの牧者」であるということは、信じる者に力と生命を与える事実です。
信仰は知識や意見ではありません。神の存在を論証し、理性的に認めるだけでは十分ではないのです。全生涯、全運命をおまかせするとき、「わたしには乏しいことがない」という境地が生まれてきます。精神的豊かさがあれば、物質的欠乏にはある程度まで耐えることができます。しかし精神的欠乏は絶望的です。生きていく目標を失って、希望も喜びもない生気のない生活か、自暴自棄の生活におちいるよりほかはないのです。近代人は精神の豊かさを失って、ニヒリスティック(虚無的)な生活態度や、いわゆる刹那主義におちいるのです。
ダビデは詩篇の中で次のようにうたっています。「主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない」(詩篇34篇9、10節)。
イエスは山上の説教の中に、うるわしい言葉を残されました。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6章25~34節)。
私たちはいろいろなことに心を使い、心配しますが、実際、人間がなしうる部分はいくらもないのです。こうして生きていることすら、私たちの力だけによるものではないことを忘れがちです。
人生の歩みに空虚と困惑を感じるときに、私たちに注がれている神の愛を発見するならば、心の乏しさは全く満たされます。このようにしてはじめて、真の「欠乏からの自由」が得られるのです。神を愛し、神にゆだねた生活には、いかなるものも奪うことのできない平安と喜びがあります。
みどりの野
「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(2節)
羊飼いに導かれて、青草の上に憩う羊の群れの姿を想像してください。何という平和な情景でしょう。神に導かれた生活の象徴をそこに見ることができます。満ち足りた状態です。
人間はこの世の生活において、自分の力だけで歩むことのできない場面にしばしば遭遇します。力の足りなさを感じさせられます。すべての宗教は、このような必要を満たそうと努力していますが、全宇宙の支配者である神のもとに行くとき、完全な解決を得ることができます。
疲れた羊を静かな緑の野に休ませなければならないように、人生の旅路においても、ときどき静かに休んで、新しい力を得なければなりません。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)とイエスは言われるのです。緑の野に伏して憩いと共に十分な糧が与えられます。人生の戦いに必要な力が供給されます。イエスのもとに憩う者にはどのような試練にも耐えることのできる力が与えられます。
パレスチナの地図を見ると、川や流れが多いのに気がつきます。しかし大部分の川は、雨季には泥水であふれますが、他の時期には水が枯れます。土地も水に乏しく、羊に水を与える適当な場所は案外少なかったのです。羊飼いは羊を青草のある所で養い、夕方になる前に水を与えなければなりません。羊は足の弱い動物なので、羊飼いはよく地理を知っていなければ、群れをよく養うことはできませんでした。
よき羊飼いであるイエスは、私たちの性質をよく知り、また人生の地理を詳細に知って、常に緑の野、憩いのみぎわに導いてくださいます。そこに完全な平和があります。
主の導き
「主はわたしの魂をいきかえらせ」(3節)
心理学者カール・ユングはクリスチャンではありませんが、「過去30年間、私のところに勧告を求めにきた人々の大部分は、宗教的信仰を失ったことが原因になっている精神病者であった」と言っています。近代生活は精神のバランスを奪いました。近代人は生活の中心を失っています。しかし神を発見するとき、柱を失った魂に回復が与えられます。人生の目的、存在の目的、日ごとの義務が明らかとなり、目標に向かって張り切って喜びに満ちた歩みを続けることができるようになります。魂は新たな生命を得るのです。
羊は時に盗まれたり、迷って群れから離れることがあります。羊飼いの保護を離れた羊は傷ついて苦しみます。今日、精神的な迷える羊がいかに多いことでしょう。さまざまなむなしい哲学や思想のとりことなって、自ら苦しみ、傷ついている人々が少なくありません。しかし、イエスはどんな人にでも力と希望を与え、魂を生かしてくださるのです。
「正しい道に導かれる」(3節)
イエスに従う道は必ずしも平坦な道ばかりではないかもしれません。しかし、それは正しい道です。
ソロモン王は「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」(箴言16章25節)と書きました。将来に対して正しい判断と選択をすることは、たやすいことではありません。主の言葉は私たちに正しい道を示してくださいます。しかも「み名のために」、神の尊いみ名にかけて、神は私たちのかよわい歩みを導いてくださいます。創造主なるイエスが責任をもって導いてくださることは、何というありがたいことでしょう。
その道は決して楽なものではないかもしれません。人生の最後の目標は、楽な生活ではなく品性の建設です。この世界に属するものは、やがて過ぎ去り、私たちが永遠の世界に持っていくことができるものは、品性のみです。神は私たちが永遠の世界を継ぐ者となるために正しい道に導いてくださるのです。いかなる境遇におかれようとも、詩篇の記者と同じように、自分の生活に常に神の導きがあることをかたく信じたいものです。
死の陰の谷
「死の陰の谷を歩むとも」(4節)
この経験がこの詩の初めでなくて、真ん中にあることは意味があります。食物と水を豊かに与えられ、休息を得た後、正しい道に導かれた、その後の経験です。クリスチャンは主に導かれて、豊かな糧と憩いを与えられるとき、どのような道を歩もうとも勇気をもって進む備えができるのです。
「死の陰の谷」というのは、最も暗い、危険な深い谷を指したものでしょう。パレスチナにはこのような谷があって羊飼いたちを恐れさせていました。エルサレムと死海の間のエリコへの道の南方に、このような谷の一つがありました。ダビデはおそらくそこを知っていたでしょう。向こう側の緑の牧場に行くためには、その谷を通らなければなりませんでした。
人生にもときどきそのような死の谷を通らなければならないことが起こります。すべての人に必ずのぞむ死の陰の谷は、死そのものでしょう。死の問題は、若くて元気なときには軽く考えていますが、これに直面するとき、死は真に厳粛な深刻な様相を帯びて、私たちに迫ってくるのを感じます。ときどき経験する、友人や肉親の死は私たちに対する深い警告です。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(ヘブル人への手紙9章27節)とあるように、この経験はだれにも起こってきます。私たちはこの死の谷を通らなければなりませんが、イエスはこの死の谷を変えて朝としてくださったのです。イエスの約束を信じるならば、少しも恐れることはありません。復活の希望は、私たちを死の恐怖から解放してくれます。
クリスチャンはどんな暗い経験の中にも、明るい落ちついた歩みを残すことができます。
「あなたがわたしと共におられるからです」(4節)
ダビデは危険におちいったとき、魂の牧者について語ることを止め、直接に話しかけています。その親しい交わりこそクリスチャン生活のエッセンスです。神を愛する者に恐れはないのです。
むちとつえ
「あなたのむちと、あなたのつえは/わたしを慰めます」(4節)
むちは野獣や盗人から羊を保護する武器であり、つえは羊を導き、時にはむちをあてる道具です。これは神の保護と導きを意味し、また神が与えられるこらしめを暗示しています。
「自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか」(雅歌8章5節)という聖書の言葉は教会の姿を示しています。クリスチャンは、主の保護によりすがって、慰めと励ましを得ていくのです。
「わたしの前に宴を設け」(5節)
「また彼らは神に逆らって言った、『神は荒野に宴を設けることができるだろうか』」(詩篇78章19節)。信仰を持たず、神の導きを体験しない者は、クリスチャンの生活態度を不安に思い、あるいはあざけるのです。ダビデは自分の経験からこれに答えることができました。神は宴を設けてくださる。この「設け」という語は、ヘブル語では「苦闘する、たたかう」という意味です。羊飼いが荒野にて羊を囲んでいる多くの敵と、一瞬も気をゆるすことなく戦って、羊を養っていることを意味しています。神に従う者はこのような神の保護を体験することができるのです。
「わたしのこうべに油をそそがれる」(5節)
羊飼いは羊をおりに入れる前によく調べて、けがをしたものには油をそそいで手当てをし、水を与えます。ここにもまた、神の行き届いた取り扱いの象徴を見るのです。
最後に「わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」(6節)との確信が述べられています。そして「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と告白しています。この世にてこれほどまで私たちを愛してくださった主と共に永遠に住む希望、これこそ、この世の何ものにも奪われない永遠の希望であり、必ず実現する希望です。
神にすべてをゆだねた者の歩み、それはこの世における最も幸福な、楽しい、安定のある満ち足りた生活です。
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