第3課 なぜ苦しみはあるのか?

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神は愛なり

1998年8月、ケニアのナイロビでアメリカ大使館が爆破され、200人以上が亡くなり、4,000人が負傷しました。この惨劇によって破壊された一台の車の姿が、現場に居合わせたある夫婦の目に留まります。車の持ち主はすでに亡くなっていましたが、フロントガラスには「神は愛なり」というステッカーが貼られていたのです。

「なぜ、神は罪や苦しみをゆるされるのだろうか」という問いかけがよくなされます。聖書はその答えと、神は愛であることを明らかにしています。

神はどのようなお方か?

神はどのようなお方ですか?

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

ヨハネの第一の手紙4章8節

聖書の物語は、「初めに神は……」(創世記1章1節)という神を紹介する言葉から始まっています。神は無から有を創造し、すべての命を支えている存在です。

しかし、神は単に愛を注いでくれる存在ではありません。神は「愛」そのものなのです。「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」です(出エジプト記34章6節)。

神の愛の性質(品性)とは何でしょうか?

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

コリント人への第一の手紙13章4―5節

人類に対する神の愛は無条件です。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さった」と聖書にはあります(ローマ人への手紙5章8節)。神の愛は「自分の利益」を求めず、すべての人々に無償で与えられています。

悪のはじまり

悪と苦しみの責任は、神にあるのでしょうか? 

「ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか」。主人は言った、「それは敵のしわざだ」。すると僕たちが言った「では行って、それを抜き集めましょうか」。 彼は言った、「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。

マタイによる福音書13章27―29節

キリストはこの問題を、畑に麦の種をまく農夫にたとえて話しました。

ある人が良い麦をまいた後に、その同じ場所に毒麦がまかれてしまいました。やがて、麦が育つにつれて、麦の間に毒麦も生えてきます。この「悪」は誰の責任ですかと問われたとき、キリストは「敵」、すなわちヘブライ語でサタン(悪魔)を非難しました(マタイによる福音書13章39節)。

しばしば神は、世界に悪がはびこっているゆえに非難を受けます。しかし実際には、悪は愛と平和の神に敵対するサタン(堕落した天使)の働きによるものなのです。

今日、サタンはこの世界でどのように働いているのでしょうか? 

世界の終わりまで、わずかしか時間が残っていないことを知っているサタンは、この世界に大きな苦難を与え、神の心に最大限の痛みを与えようと狂暴さと激しさをもって働いています。

サタンはどのような人々を標的にしているでしょうか?

龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

ヨハネによる黙示録12章17節

聖書の預言で「女」は象徴的に教会をあらわしています。世界の最後のときに、サタンは自分の憎しみと怒りを教会、つまり神を信じる神の民(クリスチャン)に向けて攻撃してくるのです。

神がサタンを創造したのでしょうか?

あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

エゼキエル書28 章15節

神がサタンを創造したのではありません。ルシファーという名の完全で美しい天使を、神は創造しました。その名前は「光を掲げる者」という意味です。しかし、ルシファーは神に反逆することを選びました。神の心から離れたのはルシファー自身の選択によるものでした。

神は、ご自分が創造したもの(被造物)にどのような特別な能力を与えましたか?

あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい

ヨシュア記24章15節

神は、自分がつくった存在に選択の自由(自由意志)という特別な能力を与えられました。神に仕える道を選ぶのも、神にそむく道を選ぶのも人間の自由です。天使たちにも、同じように自由意思が与えられました。罪を犯すという行為は、アダムとエバ同様、ルシファー自身の選択でした。わたしたちは神に従う道も、罪を犯す道も選ぶことができるのです。

なぜ、ルシファー(サタン)は神に反逆したのですか? 

黎明(れいめい)の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。 あなたはさきに心のうちに言った、「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう」。

イザヤ書14章12ー14節

驚くべきことに、つくられた存在であるはずのルシファーは神の王座を欲しました。彼は王として、統治者としての地位と、自分自身が崇拝されることを望んだのです。神のみ前で最高位である守護ケルブとしての地位(エゼキエル書28章14節)には満足せず、神だけが受ける栄光を手に入れようとして、彼は神に反逆しました。

ルシファーが神に反逆した理由について、聖書はさらに何と言っていますか?

あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。あなたは神の園エデンにあって……わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて……あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。……あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚した……

エゼキエル書28章12―17節

神から知恵と美しさを与えられていたにも関わらず、神に栄光を帰すことよりも、むしろサタンは自分自身の栄光を求めました。このような自己中心的な思いは、神の自己犠牲の愛とは相反するものです。

重要な原則

サタンの堕落、罪のまん延、そしてこの世界の苦難を理解するための重要な原則は、選択の自由(自由意志)という原則です。神はルシファーをロボットのようには創造しませんでした。ただ機械的に命令に従うのではなく、選択する能力を与えられたのです。ルシファーには神を愛するか、あるいは拒む自由がありました。悲しいことにルシファーは後者を選びました。

もし、神がルシファーに選択の自由を与えなければ、神が独裁者であると誤解させる根拠を与えることになったでしょう。神は、愛の性質に矛盾することなく、造られたものすべてに選択の自由を与えられました。この決断は非常に大きなリスクをともなうものです。

もし、神が創造したもののひとつが神に反逆し、自分自身の思いに従うことを選択したならば、そのときにはご自身の命をもってその代償を支払う覚悟を、神は選択の自由を与えた時にしたのでした。

「世の初めからほふられた小羊」(ヨハネの黙示録13章8節KJV)であるキリストは、すべての人々が永遠に生きるために死なれたのです。罪の発生によって最も苦しまれたのは神ご自身でした。

大争闘とわたしたち

サタンの反逆は、結果的に何をもたらしましたか?

さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、

ヨハネの黙示録12章7節

サタンは、天使の多くが自分の側について神の権威に反対するならば、神の権威を傷つけることができると考えました。

現在、善と悪の戦いはどこでくり広げられているのですか? 

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。

ヨハネの黙示録12章9節

地球は、キリストとサタンの大争闘(善と悪の戦い)の中心地となりました。サタンが神の姿を偽って伝え、神の善や公正さを疑わせようとする一方で、キリストは人々に真の神の愛の品性をあらわすためにこの世界に来たのです。

世界の人々はみな、神がどのようなお方であるかということについて、サタンの見解か、キリスト(神)の見解か、どちらかを受け入れる選択を迫られています。わたしたちの選択は、究極的には、わたしたちが神の愛を信じるかどうかで決定するのです。

神がどれほど人類を愛しておられるかを、どうしたら知ることができますか?

わたしを見た者は、父を見たのである。

ヨハネによる福音書14章9節

天の父である神がどのようなお方であるかを知るためには、「キリストがどのようなお方であるか」に注目する必要があります。なぜなら、キリストがこの世界に神の品性をあらわしたからです。

キリストの奉仕の精神と自己犠牲の性質、そして「方々を巡り歩いて人々を助け」た姿こそ(使徒言行録10章38節 新共同訳©️日本聖書協会)、父なる神の品性そのものです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3章16節

神はキリストをこの地上につかわし、わたしたちのために十字架にかかるという究極の対価を支払うことによって、罪深い人間が罪の力から解放され、永遠の命を得ることができるようにしてくださいました。

この犠牲は、神が人類の苦難や罪に無関心ではないことをあらわしています。事実、罪の問題を解決するために、わたしたちの誰もが支払うことのできない大きな代価を神が支払われたのでした。

世界を悩ませる罪の問題に、人間はどのように関わるようになったのでしょうか?

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

創世記3章6節

神の思いに対するアダムとエバの故意の不服従は、神が創造のときに彼らに与えた純粋さと罪を知らない純潔さを失う原因となりました。罪が彼らを神から引き離し、この地球を敵(サタン)の支配下へと導いたのです。

そして、人類の最初の人間と同様に、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いると聖書はのべています(ローマ人への手紙3章23節)。アダムとエバのように、わたしたちも罪を犯し、罪に対する刑罰である「死」の運命の下にいるのです(ローマ人への手紙6章23節)。

大争闘の終わり

自分が崇められることに執着するサタンの思いは、世界をどこへ導くのでしょうか?

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。

ヨハネの黙示録13章8節

自分が崇められることを求めるサタンの自己中心的な思いは、生きているすべての者を、神を選ぶか、サタンを選ぶかという究極的な決断に導きます。

善と悪の戦いの結果、サタンの運命はどうなるのでしょうか?

そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

ヨハネの黙示録20章10節

サタンの最終的な運命は決まっています。地球全体をそそのかして神に反逆させるサタンの計画が成功することはなく、自らを破滅に導くのです。       

この世界にある希望

罪と困難の世界にあって、わたしたちは何を期待できるでしょうか?

しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

ペテロの第二の手紙3章13節

神は、この世界を完全で美しい姿へと再創造し、罪も苦しみもない状態にしてくださると約束してくださいました。敵の攻撃や誘惑は終結したので、罪悪感や悲しみは消え去るのです!

想像してみましょう。神は地球を完璧に創造し、罪のない美しい園に完璧な2人の人間を置かれました。

しかし、彼らは罪を犯す理由のまったくない状況にありながら、神に反逆することを選び、宇宙を罪の混乱に陥れたのでした。

そして、その罪は、他の誰でもない神ご自身に無限の犠牲を強いることになったのでした。

神のみ子であるキリストが、罪深い人間の身代わりになって十字架で死ぬ、という究極の選択を神は選ばれました。

歴史上、これほどまでに無我の愛があらわされた例は他に見つけることはできないでしょう。聖書が述べているように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです(ヨハネによる福音書3章16節)。

サタンや罪が存在しない世界に住むことができると、どうして信じることができるでしょうか?

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

エペソ人への手紙2章8節

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

ガラテヤ人への手紙2章20節

イエス・キリストを信じることによって、すべての人には永遠の命を得る希望があります。

キリストは堕落した世界、人類に対する神の深い愛をあらわすために死なれ、キリストを信じる者に永遠の平安を約束してくださいました。

ついにサタンは敗北し、罪は消え去り、宇宙は再び平和な場所となり、ただ神だけが礼拝されるようになるのです。

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