【士師記】救助者たち【解説】#3

目次

中心思想

「士師」は聖霊によって導かれ、力を与えられた救助者でした。これらの人たちはイスラエル人を圧迫していた敵を打ち破ることによって、イスラエル人のために正義を行いました。

無力な者のための助け

ジョニーはお兄ちゃんのボビーがいじめると言って、母親のところに走ってきました。母親があれこれ尋ねたところ、訴えが本当であることがわかりました。母親は、ボビーを自分の部屋に行かせて、これからどのようにジョニーをあつかったらよいかしばらく反省させました。

ある女性は雇用主からいやがらせを受けており、いくら話しても聞き入れてもらえそうにありません。困り果てた彼女は法律による保護を求めました。

大国の攻撃を受けた小国が、国連平和維持軍に保護を要請しました。要請は受け入れられ、攻撃はやみました。

どの場合も、強者が弱者を圧迫し、ついには弱者がより上の権威に助けを求めています。このような権威は、いわば「法律」であって、公正の原則に従って行動し、その原則を押し進めるものです。

イスラエルが神に背いた時、神は彼らが敵によって圧迫されるのをお許しになりました。しかし、彼らが悔い改めて、神に助けを求めた時、神は彼らを圧迫から救い、正義を行われました。

Ⅰ.オトニエル(士師記3章7~11節)

士師記2:14は、ヨシュアの死後におけるイスラエル人に対する神の対応を要約して、主はご自分に背いたイスラエル人を略奪者の手に渡されたと述べています。士師記に登場する最初の略奪者は、メソポタミア(ギリシア語でチグリス、ユーフラテスの「川の間」という意味)と呼ばれるパレスチナ北東部の地、アラム・ナハライム(二つの川のアラム)の王、クシャン・リシュアタイム(クシャン・リシャタイム)でした(士師3:8)。

この王の名はヘブライ語で「二重悪のクシャン」を意味します。この名の後半部分は、王がアラム・ナハライムの出身であることを暗示しており、「おそらくイスラエル人が王に対する嫌悪感を表すために付け加えたもの」です( 「SDA聖書注解」第2巻324ページ)。

クシャン・リシュアタイムが、イスラエル人と同様、カナン人と同盟したのか、あるいは彼らを圧迫したのかについて、聖書は記していません。重要なことは、イスラエル人が他の神々に仕えたので、主が彼らをクシャン・リシュアタイムの手に「売り渡された」ことです(士師3:7、8)。

士師記3:8は、主がイスラエル人を「売り渡された」と述べていますが、これは何を意味しますか。

士師2:14、申命32:30

神はイスラエル人をファラオの奴隷から解放されました(申命7 :8-ミカ6:4比較)。イスラエル人はもはやファラオのものではなく、神のものでした。しかし、彼らが恩知らずにも主を拒んだ時、主は彼らを一時的に残虐な支配者の圧迫下に置かれました。

8年に及ぶ圧迫の後に、イスラエル人はやっと過ちに気づき、助けを求めます(士師3:7、9)。彼らが神に立ち返った時、神は最初の「士師」の指導の下で彼らを救出されます。これが「カレブの弟ケナズの子オトニエル」でした(9節)。

「カレブの弟」がオトニエルのことを指すのか、ケナズのことを指すのかによって、オトニエルはカレブの異父弟(もしカレブの父エフネがケナズの別名だとすれば、実の兄弟一民数13:6、14:6、30比較)にもなり、カレブの甥にもなります。いずれにしても、オトニエルはキルヤト・セフェル(キリアテ・セペル)を攻め取ることでカレブの娘と結婚していたので、カレブの親戚でした(士師1:12、13)。オトニエルがカレブと近い関係にあったということは深い意味を持ちます。カレブと同様、オトニエルはイスラエル人のために勝利を勝ち取った勇敢な英雄でした。心から主に従っていたからです。

Ⅱ.士師は救助者(士師記3章9節)

「士師」と言えば、法廷に座って訴えを審理する裁判官を思い浮かべます。女預言者デボラはそのような人物でした(士師4:4、5)。

このデボラのように、士師記に出てくる「士師」たちはある程度の司法活動をしましたが、何にも増してイスラエル人を敵から救った軍事指導者として知られています(士師2:16)。それゆえ、士師記3:9はオトニエルに関して、「主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた」と述べているのです。ここでは、「士師」は「救助者」を意味しています。

士師記において救助者が「士師」と呼ばれているのはなぜですか。詩82:3

次の答えの中から最も適当なものを選んでください。

1.「士師」と訳されているヘブライ語は広い意味を持っていて、訴えを裁く人だけでなく救助者をも意味しています。

2.「裁き」、つまり「意思決定」は、王など政治的組織者の重要な役割でした(列王上3:9-サム下15:2〜4比較)。従って、イスラエル人は王を持つまでは(士師17:6)、その組織者、意思決定者を「士師」と呼んだのでした。このように理解するなら、士師記3:10は次のような意味になります-主の霊がオトニエルの上に臨んだので、彼は組織者としてイスラエルの指導者となり、戦いに出て敵を打ち破った。

3.法廷における「裁判官」は、圧迫された人を擁護する決定を下す権限を持っており、それによって彼を圧迫者から解放します(詩82:3、筬29:14)。同じように、イスラエル人が神に立ち返った時、神の契約の保護が再び発効しました。彼らの敵はもはや神の正義の執行者ではなく、不当な圧迫者となりました。「士師」は神に代わってその裁きの宣告をイスラエル人の敵に対して執行し(申命17:11比較)、神の民を圧迫から解放しました。

4.別の答え

5.上の答えすべて

Ⅲ.主の霊に促されて(士師記3章10節)

オトニエル(オテニエル)は自分でイスラエルの士師・救助者になったのではなく、主が彼を立てられたのでした(士師3:9)。「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた」(10節)。同じように、他の「士師」たちも主によって立てられました(士師2:16-3:15比較)。ある場合には、主の霊が彼らを特別な働きに立てる上で重要な役割を果たしています。主の霊は「ギデオンを覆」い(士師6:34)、「エフタに臨」み(11:29)、サムソンを「奮い立たせ」(13:25)、「激しく彼に降」りました(14:6、19、15:14)。これらの言葉から、神の霊が様々な方法で至難の時に特定の人々を支配し、導き、力を与え、普通ではできないことをさせられたことがわかります。

主の霊が信者に臨んだ時、ほかにどんなことが起こりましたか。

サム上11:6、16:13、使徒2:1〜4

主の霊(聖霊)は、先にイスラエル人が荒野を放浪していた時に(民数11:25〜29)、後にイスラエルの初期の王の時代に(サム上11:6、16:13)人々の上に臨みました。士師記の中で聖霊の支配によって促されている行為は主として軍事的なものでした(サム上11:6〜11比較)。

神の霊が軍事的な状況において特定の人の上に臨んだのは神の民を救うためでした。その他の状況において神の霊が人々に注がれたのはなぜですか。

民数11:25〜29、使徒2:1〜4

聖霊は神と人間との間の特別な交わりを可能とされます。そこには超自然的な要素が含まれるので、人々は心を引かれ、神との交わりから恵みを受けようとします。このような現象は影響が大きいので、それが「神から出た霊かどうかを確かめ」ることが大切です( I ヨハ4 : 1 ) 。

Ⅵ.神の民を苦しめたことに対する報復(士師記3章12~30節)

再びイスラエル人は主に背き、今度はモアブの王、エグロンに屈服します。エグロンはアンモン人とアマレク人の助けを得て、イスラエルを敗りました(士師3:12、13)。18年間エグロンに仕えた後、イスラエル人は主に仕える決心をし、主に助けを求めたので、主は彼らを救うためにエフド(エホデ)をお立てになりました(14、15節)。

オトニエルは最大の部族、ユダの出身でしたが、エフドは最小の部族、ベニヤミンの出身でしたので、その指導力には限界がありました。その上、彼の右手は「制限されて」(15節、ヘブライ語)いました。つまり、彼は左ききでした。

神が、ふさわしくないと思われる人たちを指導者に選ばれることがあるのはなぜですか。

サム上16:7、1コリ1:25〜31

エフドの身体的特徴は、彼が成功した重要な要素でした。イスラエルを救うためには、まず敵対勢力の指導者、エグロンを暗殺する必要がありました。エグロンを殺すためには、武器を持って攻撃できる至近距離に近づかなければなりません。貢ぎ物を携えて、神からのお告げを持ってきましたと言えば、彼に近づくことができるでしょう(士師3:15、17〜20)。しかし、どうしたら武器を持ったままモアブの護衛を通過することができるでしょうか。エフドは左き

きでしたので、普通なら左腰にある剣を右腰に帯びて隠すことができました(16節)。それで、護衛も武器に気がつきませんでした。

エフドによるエグロンの暗殺は、血なまぐさいまでに生々しく描写されています(士師3:21、22)。なぜでしょうか。

イスラエル人は圧政者たちの残虐さを心から憎んでいました。オトニエルによって征服された王が、へプライ語で「クシャン・リシュアタイム」(二重悪のクシャン)と呼ばれていたのはそのためです(士師3:8-日曜日の研究を参照)。エステル記に出てくるハマンの処遇を参考にしてください。エグロンの体つきはその品性に似て、見苦しく、「子牛」を意味するその名の通り、非常に太っていました(17節)。彼の不義の杯は満ちていて、神の裁きを受けるだけになっていました。

Ⅴ.勝利に駆り立てる(士師記3章31節、10章1〜5節、12章8〜15節)

エフドの後、シャムガルが牛追いの棒で600人のペリシテ人を殺し、イスラエルを救いました(士師3:31-5:6比較)。ここでわかっていることは、シャムガルがアナト(アナテ)の子であったということだけです。士師記は他に5人の「小士師」、つまりトラ、ヤイル、イブツァン(イブサン)、エロン、アブドンに言及していますが、その出身地、家族のこと、イスラエルを裁いた期間以外のことは何も記していません。

「小士師」が士師記に載せられているのはなぜですか。士師3:31、10:1〜5、12:8〜15 次の答えの中から最も適当なものを選んでください。

1.著者は完全な救助者の名簿を作ろうとしました。

2.著者は様々な部族・地方出身の人々の貢献について記録しようと考えました。

3.小士師を入れると、士師記にはイスラエルの12部族のように次の12人の士師が登場します。オトニエル(オテニエル)、エフド(エホデ)、シャムガル、デボラとバラク、ギデオン、トラ、ヤイル、エフタ、イブツァン(イブザン)、エロン、アブドン、サムソン。

4.小士師(太字)についての短い記録は、士師記全体の構成を完全なものにしています。
 I.「士師」の時代に関する序言(士師1:1〜3:6)
  A.歴史的序文(1:1〜2:5)
  B.要約と説明( 2 : 6 〜3 : 6 )
 Ⅱ.「士師」についての記録(3:7〜16:31)
  A.オトニエル(3:7〜11)
  B.エフド( 3 : 1 2 〜3 0 )
  C.シャムガル(3 : 31)
  D.デポラとバラク( 4 : 1 〜5 : 3 1 )
  E .ギデオンとその子、アビメレク( 6 : 1 〜9 : 5 7 )
  F. トラ( 1 0 : 1 、2 ) 、ヤイル( 1 0 : 3 〜5 )
  G.エフタ(10:6〜12:7)
  H.イブツアン(12:8〜10)、エロン(12 : 11、12)、アフドン(12:13〜15)
  I.サムソン(13: 1〜16 : 31)
 Ⅲ.結び——二つの重要な事件
  A.ミカの偶像礼拝とダン族の移動(17: 1〜18 : 31)
  B.ベニヤミン族の犯行と彼らに対する戦争( 1 9 : 1 〜2 1 : 25 )

5.別の答え

6.上の答えすべて

研究と瞑想

士師記の構成を内容的な観点から分析してください。その構成上の特徴(たとえば、終わりに近づくにつれて小士師が増えていることなど)が、士師記全体にとって何か意味を持つかどうかを考えてください。

士師記が二重の始まりと二重の終わりを持っていることに注目してください。この書の初めの歴史的序文(士師1:1〜2:5)は、ベニヤミン族との戦争を扱った終わりの部分(19:1〜21:25)と関連があります。どちらの部分においても、部族間の軍事的統制はユダが最初に上れという主の命令によって保たれています(1:1、2、20:18)。さらに、初めから2番目と終わりから2番目の部分(2:6〜3:6、17:1〜18:31)は、共に偶像礼拝を強調しています。このように、士師記の初めと終わりの部分は、「カイアズムス」(交差配列法)と呼ばれる倒置法によって統一されています。

ユダが最初(1:1〜2:5)      偶像礼拝(2:6〜3:6)

                     X
   
偶像礼拝(17:1〜18:31)    ユダが最初(19:1〜21:25)

統一性に加えて、この形式は「士師」の時代に起きた悲劇的で、皮肉な変化を強調しています。士師記の初めにおいて、ユダはカナン人に対する戦いを先導しますが、イスラエル人はカナン人の神々を拝むようになります。終わりにおいて、イスラエル人は自分たちの神々を造り、ユダは同じイスラエル人に対する戦いを先導します。つまり、イスラエル人は互いに敵同士となったのです。

士師記の背景、主題、構成については、『SDA聖書注解』(英文)第2巻301〜306ページを読んでください。

「神によってイスラエルを導き、救う者として選ばれた時、オトニエル(オテニエル)は責任を負うことを拒まなかった。彼は神の力によって直ちに、主が命じられたように偶像礼拝を中止し、正義を行い、道徳と宗教の標準を高め始めた。イスラエルがその罪を悔い改めたので、主は彼らに大いなる憐れみを示し、その救いのために働かれた」( 「SDA聖書注解」第2巻1 002ページ、エレン・G・ホワイト注)。

*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。

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