第4課 いのちをかけた愛

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神の小羊

大抵の宗教の教祖にとって、長生きすることは大切な条件の1つでした。なぜなら、彼が長生きすればするほど、たくさんの人に教えたり、助けを与えたりできるからです。「四十にして惑わず、七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず」(論語)と言えるのは、やはり六十を超え、七十を超えたからこそでしょう。

けれどもイエス・キリストは、わずか33年半の生涯を、十字架の死をめざして歩んで行かれました。

イエスの死は、救い主としての働きを始められた時から明言されていました。イエスの先駆けとしての役目を持った洗礼者ヨハネと呼ばれた人も、自分の弟子たちに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)と紹介しています。「罪を取り除く小羊」とは、ユダヤ人にとってよく使われている言葉でした。この国には千年以上にわたって、罪を犯した人が罪を取り除くため、神に羊を捧げる儀式がありました。そのことにより罪が赦されるのです。

ヨハネはイエスのことを「見よ、あなた方に正しい生き方を教える人」とは言いませんでした。また「病を治す人」とも言いませんでした。彼はただ「イエスこそ、そのための小羊、すべての人の罪の身代りとして死ぬために来られた神の御子である」と言ったのです。

罪を償うために

聖書の世界観をまとめて言うと、
1) 人は神に創られ、神と共にあった
2) 罪を犯したため、神から離れた
3) 再び神に帰る
の3つになります。

「罪」こそ人間が神から離れた原因ですから、神に帰るためにはその「罪」を清算する必要があります。

キリスト教で言う罪とは、いわゆる犯罪のように行動に移されたものだけでなく、私たちの心の奥深くにある不満や怒り、妬み、高慢、利己心までも含みます。こうした感情は、普段は心の奥に隠れているものですが、それこそが戦争やテロ、そして犯罪の源になっているのではないでしょうか。これが不義を厭う神と私たちの間をへだててしまった罪なのです。

聖書には「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマの信徒への手紙3章25節)とあります。このように私たちに代わって罪の代価を支払ってくださったのがイエス・キリストでした。

罪の身代わりとして

十字架は、日本人にとってもっとも理解しやすい性質を持っていると思います。日本の歴史を学んでいくと、そこには多くの身代りの死という史実が見られるからです。

例えば、豊臣秀吉と戦った備中高松の城主、清水宗治もその一人といえるでしょう。彼は秀吉の水攻めにあってついに力尽き、城兵たちの命を助けるため、自分が死ぬことを選びました。小舟を水面に浮かせての宗治の最後の有様は今も語り伝えられています。宗治の死によって城の者たちの命は救われました。

もちろん、私はこの清水宗治がイエス・キリストと等しいと言っているわけではありません。彼は実際に戦いを指揮した人でした。

それに引きかえ、イエスには私たちの持つ罪の責任は一切ありませんでした。ただ、知っていただきたいことは、罪を代わって背負うためには、その罪の重さに見合う地位の人が必要であること、そして、その人が総ての責任を負うことによって他の人々が赦される――そうしたシステムがあることです。

私たちの神は、すべての時代のすべての人の罪を負うために、御子イエスを遣わされたのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙1・4章10節)

永遠の十字架

ある時、「イエスが神の子であるなら、なぜ十字架から降りなかったのですか」と質問されたことがあります。でもイエスが十字架から降りたならば、彼は単なる教師であって、世の救い主ではなくなってしまいます。イエスは身代りの羊であり、死ぬために来られた方でした。ですからイエスは、十字架が待つと知りながら御顔をしっかりとエルサレムに向けて歩まれたのです。

イエスの身代りの死は、旧約聖書にたびたび預言されています。特にイザヤ書53章は有名ですので、聖書をお持ちの方は是非開いてご覧ください。

 「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり
  彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。  
  彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章5節)

イエスの教えと共に十字架もまた、語り継がれてきました。だからこそ、キリスト教において十字架は重要な出来事なのです。

千葉県に佐倉神社と呼ばれる神社があります。江戸時代初期、下総一帯の農民一揆の責めを一身に負って磔になった佐倉宗吾郎を祀ってあるそうです。関東では有名な神社ですが、関西に行くと宗吾郎の名を知らない人も少なくありません。

なぜ宗吾郎の名が忘れられ、2千年前の、遠いユダヤの国の1本の十字架が語り継がれるのでしょうか。それはイエスの十字架が、あらゆる時代のあらゆる人々の救いのために立てられたからに違いありません。

素晴らしい人や私たちを教え導く人たちは、たくさんいるでしょう。でも私たちを救う名はただ1つ、イエス・キリストのみです。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

聖書の言葉
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。ヨハネの手紙1・3章16節

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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