第9課 悲しみの彼方

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いてくれてありがとう

朝、年老いた母の寝室のドアを開けます。ベッドの上にすでに起きている母の笑顔と、その腕に抱かれた猫の優しい目を見ると、いてくれてありがとうと心につぶやきます。

私たちの幸福の大きさは、「いてくれてありがとう」と言える相手が、どれほどいるかによって豊かになっていくのではないでしょうか。それは家族であり、友であり、時には動物や植物であったりするかもしれません。

そうした愛に抱かれて生きている私たちは、その相手がいなくなると、例えようもない喪失感に襲われます。特に死別の痛みは耐え難い悲しみです。その人に対して持っていた愛は行き場をなくしてしまいますし、その人から注がれていた愛は、もう受けることができなくなります。

だからこそ人は、死んだ人々がまだどこかにいると考えてしまいたいのです。死後の世界があって、亡くなった方たちは、今も後に残した人たちを愛してくれているのだと。

そう考えなければ、かけがえのない人を失った者は、生きていく力もなくなるでしょう。ですから、多くの宗教では、死後の世界のことを教えるのです。

でも聖書は、死んだ人たちがすぐ天国に行くとは教えていません。まず、死という眠りの時があると書いています。

眠りの時

イエスの親しい友、ラザロという人が重い病に倒れた時のことです。知らせを受けてラザロの家へ向かうイエスは弟子たちに、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と語られました。普通こう言われれば、弟子たちが理解したように、ラザロの意識がなくなっていると考えるでしょう。しかし、このときラザロはすでに亡くなっていました。それを知っていたイエスは、あえて「眠っている」「起こしに行く」と語り、死は「眠り」であることを教えようとされたのです。

復活の約束

ではなぜ、死を眠りと言うのでしょうか。

第1に、それはもう1度目覚める時があるからです。私たちは死で終わりではなく、死からの復活の約束が希望として与えられています。

聖書には「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(テサロニケの信徒への手紙1・4章13、14節)と約束しています。

だからこそ、キリスト教は「死」に対して強いのではないでしょうか。

イエスの昇天後しばらくしてから、教会には迫害の嵐が吹きすさぶことが度々でした。信じたら処刑される――その事実を目のあたりにしながら、なお信仰の火は消えなかったのです。ローマなどの地下に今も残るカタコンベは、迫害時代のクリスチャンの隠れ家であり、また、墓所でした。その墓誌には「我が愛する者よ、死は永遠ではない」「彼は、その眠りから甦るであろう」と繰り返し書かれていると聞きます。そこには、死を恐れなかった初代のクリスチャンの姿が見えます。

私は、現代のクリスチャンにも同じ精神があると思います。F先生は私の恩師、温かい心と優しい手を持った方でした。数年前、先生は病に倒れ、ホスピスに入院されました。その病室の先生は本当に明るいのです。「天国の夢を見たの。輝くように美しい所よ。あそこでみんなと会えるのね」とほほえむ先生を前に、見舞いの人々もまた、笑顔を返します。

その最後は、神が先生の心をそっと抱き取ってくださったように思えました。死は先生にとって恐ろしいものではなく、優しいものとして来ました。もう一度目覚める希望があるために。

静寂の眠り

死を「眠り」と呼ぶ第2の理由は、それが深い深い無意識の時だからです。

子どもの頃の深い眠りを覚えていらっしゃるでしょうか。目をつぶって、開けるともう朝になっていたあの時代です。その眠りには確か夢も時間もありませんでした。

明日は動物園に行くと言われた夜は、私はなかなか眠れずにはしゃいでいました。すると母が「早く寝ると、早く朝が来るわよ」と言います。そして寝て目を覚ました時には、本当に朝になっていたのです。

あの深い眠りに死の眠りは少し共通するのです。聖書ではそのありさまを「生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。……その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ 太陽の下に起こることのどれひとつにも もう何のかかわりもない」(コヘレトの言葉9章5、6節)と書いています。

死は静かな、時の流れさえない状態なのです。今、F先生は目覚める日まで、深い眠りの中におられるのです。

目覚める日

では、その死の眠りから目覚める日はいつなのでしょうか。それは、イエスが再び天から降られる日です。

聖書には、こう記されています。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」(コリントの信徒への手紙1・15章54、55節)

友人のAさんの葬儀の日、主治医だったM先生は寂しそうでした。「あんなに一生懸命闘ったのに――」と。不治といわれる病に、AさんもM先生も必死に闘っている姿を、私たちは見ていました。でも、死が勝利してしまったのです。

けれど、イエスの再び来られる日、死は敗れ、私たちは失った愛する者に再び会えるのです。

その希望こそ、長い迫害の中を、クリスチャンが信仰を捨てなかった理由ですし、F先生を始め、多くのクリスチャンたちが今も、死を恐れていない理由でもあるのです。

聖書の言葉
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。
神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、
イエスと一緒に導き出してくださいます。テサロニケの信徒への手紙1・4章14節

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