第11課 人生の苦難

目次

なぜ、苦しみがあるのか

人生にはいろいろな意味で苦難が多くあります。昔から多くの人々が、苦難の問題について考えてきました。なぜ人は苦しむのでしょうか。物質的には何不自由ないと思われる人々にも、案外大きな精神的苦悩があることは珍しくありません。人の心の中に立ち入ってみると、いろいろな悩みがあるのが人生の偽りのない姿です。

イエスの弟子たちがイエスと道を歩いていたとき、目の不自由な人と出会いました。彼は生まれながら目が見えませんでした。弟子たちはイエスに尋ねました。

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」(ヨハネによる福音書9章2節)。

この弟子たちの質問は、当時のユダヤ人の抱いていた人生の苦難に対する考えを反映していました。ユダヤ人は一般に、罪はすべてこの世において罰を受けるものであると信じていました。ですから、すべての悩みは、その人自身か、またはその親の何か悪い行いの報いであると信じていたのです。

もちろん、人生のすべての苦難は罪の結果です。もともと、神のおつくりになった世界には、苦難はありませんでした。人間が神を離れて神の律法を犯したときに、その当然の結果として死がのぞみ、それに付随して人生のあらゆる苦難が入ってきたのです。

しかしユダヤ人はこれを間違えてとらえました。死や病気はすべてある特定の罪の結果、人にのぞむものであり、このような災いに陥る人は、大いなる罪人であると考えたのです。もちろん、病気が不摂生の結果起きることもあります。苦難が、罪の直接の結果であることもあります。しかし、すべての苦難が、その人の罪のためかどうか、またはある特定の罪のために、その苦難を受けているというようなことは、だれにもわからないのです。

当時のユダヤ人は苦難のために苦しんだばかりでなく、罪人であるという精神的な重荷まで背負って二重に悩んでいたのです。

イエスは人間のすべての問題に、新しい光を投げかけ、不幸のうちにある人々の心を明るくし、希望を与えられました。イエスはいろいろな問題について、積極的な、明るい観点を示されました。苦難の問題についても、ユダヤ人の持っていた因果応報的な宿命観を打破して、人生の重荷に悩む人々に希望を与えられたのです。

イエスは人間の悩みの直接の原因については説明されませんでした。人間の悩みについて、その根本原因は、罪の結果といえますが、個々の問題については、その責任を苦しみの中にある人に負わせることは必ずしもできないのです。神は聖書の中に、人間の苦難の真の構造の一面を示されました。

人間が罪を犯したときに、神は「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ」(創世記3章17、18節)と言われました。人間の苦難を象徴するいばらとあざみは「あなたのために」、すなわち、人間のために与えられたものでした。神はサタンがもたらした罪の恐るべき結果を変えて、人間の祝福に至る手段としてくださったのです。人間は苦難を通して再び神に帰るチャンスを与えられ、また苦難は私たちの品性を磨く道具となったのです。神は本当に祝福の源なのです。そして人間が神を見いだすときに「万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)という言葉の真実を味わうことができるのです。

ヨブの物語

旧約聖書にヨブの物語があります。ヨブは正しい人で、神を恐れ、神に仕えていました。男の子が7人、女の子が3人いて、その持ち物は羊7000頭、らくだ3000頭、牛500くびき、めろば500頭、しもべも非常に多く、東の人々の中で最も大いなる者でした。

しかし、ある日、彼の境遇に大きな変化が生じました。

「ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、使者がヨブのもとに来て言った、『牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』」(ヨブ記1章13~19節)。

一日のうちに、ヨブは悲しみの淵に落とされてしまったのです。所有物をすべて失い、愛していた子どもたちまで失ったのです。

この苦難に直面したヨブの態度は立派なものでした。なぜ苦しまなければならないのか、その理由はわかりませんでしたが、それでも彼は、神に対する信頼を捨てませんでした。彼はいかなることが起ころうとも神に対して忠誠を保つ決心をしていました。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)と言ったのです。

この物語には他の面がありました。人間の目に映らない場面があったのです。そして神はその幕をあげて、ヨブに起こった本当の原因を私たちに示されました。

ヨブ記1章6、7節には、「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。主は言われた、『あなたはどこから来たか』。サタンは主に答えて言った、『地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました』」と書かれています。

ある人々は、サタンの実在を信じません。しかし聖書は明らかにこれを示しています。神はヨブのことについて、サタンに尋ねられました。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」(ヨブ記1章8節)。

ヨブは神が誇りとなさるほどに立派な生活を送っていたのです。サタンは答えました。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記1章9~11節)。

ここに一つの違った見方がありました。ヨブの信仰は利己的なもので、神から恵みを受けたいために、また恵みを受けている間だけ神に仕えているにすぎないというのです。神を愛して神に仕えているのではなく、自己の利益を得たいための信仰にすぎないというのです。事実、世の中にこのような、愛を基調としないエゴイスティックな信仰があることも否定できません。しかし、その人の宗教生活が本当に神に対する愛から出ているか、または利己的な動機からのものであるかは、どうして判別できるでしょうか。

サタンは、もし神がヨブの所有物を取りあげるならば、彼は神を呪うようになると言いました。神は、このサタンの挑戦を受けられました。これはヨブの廉潔な信仰に対する神の信頼なのです。

その結果が、ヨブの生活の苦難としてあらわれてきたのです。ヨブがこの事実を知っていたら、この痛ましい試練の中にあって、どんなに耐えやすかったことでしょう。しかし、彼は人生の裏にあったこの事実を知りませんでした。

ヨブの苦難は、人生の悩みが必ずしも、その人個人の罪の結果としてだけ、あらわれるものでないことを示しています。立派な信仰をもって、正しい歩みをしている人でも、悩み多い生活を送る場合があるのです。

ヨブは神の信頼を裏切りませんでした。ヨブの信仰はいわゆる御利益信仰ではありませんでした。彼の信仰はもっと深い、神との人格的なつながりにその土台を置いていました。彼は神の側に立ってサタンの誘惑に勝利したのです。彼の信仰は純粋なものでした。

サタンはこの敗北に懲りず、さらに、2回目の挑戦をしてきました。「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記2章4、5節)。

神は再びこの挑戦を受けられました。聖書の記録をたどってみましょう。

「主はサタンに言われた、『見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ』。

サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」(ヨブ記2章6~10節)。

自分のできるかぎりにおいて神に従い、神を愛したヨブは、自分の身の上に起こってくるこのような出来事の解釈に困惑を感じたに違いありません。その理由はわかりませんでした。しかし彼は、神の愛と善意とを信じて、神に全く自分をゆだねたのです。

人生の歩みにはいろいろな予期しないことが起こります。誠実に、一生懸命な歩みをしていても逆境に陥ることもあります。ヨブの経験は人生の苦難に悩む私たちに、苦難の一つの真相を示し、また真の信仰がどんなものであるかを教えているのです。すべての苦難が必ずしも個人に対する神の怒り、神の呪いの結果ではないのです。苦難のすべての原因を、個々の場合について確かめることができると思ってはならないのです。

イエスの解決

イエスは人生の苦難に対して明るい解決を与えられました。イエスは生まれながら目の不自由な人に対する弟子たちの質問に対して、この苦難の原因を追求する代わりに、彼が神を発見するときに、どんな結果がもたらされるかを示されました。「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネによる福音書9章3節)。

人生のすべての問題に対して、イエスは積極的な明るい態度を教えられました。苦難の問題についても、もしその苦難が何かはっきりした自己の罪の結果であることがわかっているならば、反省して悔い改めなければなりませんが、そうでなければ、むしろ苦難が神の働きによって神の栄えとなることを期待し、その苦難を克服していく雄々しい態度を持つべきことを示されたのです。

神を見いだし、神と結びつくことによって、すべての苦難は、神の栄光の表される機会となるのです。人生の悩みに心を押しつぶされるのではなく、イエスを信じ、イエスによってその苦難を解決しようとするときに、必ずそれに打ち勝っていく力と道が備えられるのです。

イエスは目の不自由な人をいやされました。そのいやしは、彼のイエスに対する信仰からきたのです。そしてそこに神の栄光があらわれたのです。目が不自由だったという事実は、かえって神の力を体験する機会となりました。イエスを発見した結果、全く生まれかわった新しい生活に入ることができ、目が不自由だったという事実が契機となって、神の栄えがあらわれる新しい生活が生まれたのです。

今日私たちが持っているいろいろな悩みも、イエスのもとに行くときに、神の栄光があらわれる機会を提供しているのです。この目の不自由な人の目が開かれたように、私たちも肉眼に見えない霊的世界に対して目が開かれてきます。私たちは永遠に至る輝かしい道を歩くようになるのです。

苦難は必ずしも取り去られないかもしれません。しかし、それに耐えていくに十分な力が与えられます。そしてヨブのように雄々しく苦難に耐えていく人の姿は、神のわざのあらわれであり、栄光に満ちたものです。

「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ人への手紙1章29節)と使徒パウロは言いました。イエスの精神が私たちの心に流れてくるとき、私たちはイエスの愛に動かされ、罪がもたらした宇宙的な一つの大きな問題の解決に、イエスとともに苦難を負う気持ちにまでなってくるのです。

救いの計画が完成するときに、私たちは死も悲しみもない聖なる国に迎え入れられるのです。そこにおいてはじめて、人生の苦難が一切取り除かれ、完全な解決がみられるのです。そのとき、私たちはヨブの物語のように、私たちの目に見えなかったいろいろな事情を知って、神のはかりしれない深い愛に感謝するでしょう。

「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩篇62篇8節)。

「雨の日」というロングフェローの詩があります。

つめたく 暗い ものがなしい日
雨が降る 風はなぎない
ぶどうのつるは
朽ちかけた壁にまつわり
ひと風ごとに 病葉は落ちる
暗い ものがなしい日
つめたく暗いものがなしい日々
雨が降り 風は止まない
おもい出は
遠い過去にさかのぼるが
青春の日の希望は
一つ一つ落ちてゆく
くらい ものがなしい日々

人生には、雨の日もあり、風の日もあります。若いときに希望に胸をふくらませて出発した人生の旅も、必ずしも楽しい日々の連続であるとはかぎりません。思いがけないときに、思いがけないことが起こって、人を失望の淵に突き落とします。

人生の苦難の問題は、多くの人々の心をとらえてきたものです。また、これをどのように解決するかについて、哲学者や宗教家がいろいろ考えてきました。

聖書は、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」(伝道の書7章14節)と教えています。災い、不幸なことが起こってきたときは、静かに自己を反省し考えてみることです。

「艱難汝を玉にす」というように、罪のためにゆがめられ、悪に走る傾向を持つ人間の品性が苦難を通して磨かれてくるのです。そして苦難は悪に対する防御の手段となるのです。植物の生長には雨の日も必要です。寒さにあうことも、よい収穫を得るための条件になります。人間も雨の日や、寒い冬の日を経過して、初めて人生のしみじみとした体験を得るのです。自己の小さいこと、人生を支配している大きい力、人に対する思いやりなど、人間を色づけ、人生の収穫を実り多いものとするために必要な経験が与えられます。

だから雨の日にも、嵐の日にも失望してはならないのです。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章28節)と使徒パウロは記しました。

神はいたずらに苦難をお与えになるのではありません。神を信頼して従っていくならば、必ず神は「万事を」祝福としてくださるのです。不平やつぶやきを捨てて、神の愛を信じて進むならば、必ず私たちも「わたしたちは知っている」という体験を持つことができるのです。

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル人への手紙12章11節)と聖書は約束しています。

ロングフェローの「雨の日」は次の言葉で結ばれています。

悲しめる心よ 静まりて
つぶやきを止めよ
雲のうしろには
変わらぬ太陽の光がある
ながさだめはすべての人のもの
人生に雨の日は
なくてかなわぬものなれば

雲のうしろに輝く太陽である神のみ姿を仰ぎ見ることができる魂は、暗い日にも希望に生きることができます。

やがてこの世は終わって、新しい神の国が出現します。そのとき、すべての苦難はぬぐい去られ、死も、悲しみも、涙もないみ国に迎え入れられるのです。

雨の日に、かなたに輝く太陽を考えましょう。輝くみ国を考えましょう。雄々しく不幸に打ち勝って、人生の収穫を実り多いものとしたいものです。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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