第14課 世界の将来

目次

世界はどうなっていくのか

広島と長崎に原子爆弾が投下されて以来、人類は今に至るまで、絶えず核の脅威にさらされています。「アメリカの科学者の発見は、人類最大の利益となりうるが、また人類を滅亡させることもできる」「今日われわれの当面する最大の問題は、われわれの技術を支配することができるかどうかということである。人は自らつくり出した破壊的エネルギーを支配するか、またはその犠牲になるであろうか」「今後世界が存続しようとするならば、永久に戦争を止め、世界政府により原子力を管理しなければならない」「われわれは国家間の新しい安定か、文明生活の崩壊か、いずれかを選ばなければならない」

このような核の脅威だけでなく、地球の温暖化、環境汚染、原発問題などにともなう、さまざまなニュースを、連日、新聞やテレビなどが報道しています。人類はこれからどのような道をたどるのでしょうか。この暗黒に見える道を照らす光はないのでしょうか。

聖書の預言は、このような時代が来ることをあらかじめ示していました。2000年の昔、イエスは地上歴史の最後の時代について、「そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう」(ルカによる福音書21章25、26節)と言われました。私たちは今まさにそのような時代にきたのです。この状態は、どうなっていくのでしょうか。そして、どんなかたちで収拾されるのでしょうか。

根本的な問題

現在の世界には、多くの解決を要する問題がありますが、そのうち、最も根本的な問題は、人の心の問題です。

神は、この世界を創造して、人を住まわせましたが、人間は神の目的にそわず、罪が入ってきた結果、今日のような世界になってしまいました。しかし、キリストの十字架による福音は、罪によって本来のうるわしいかたちを失ってしまった人の心に、霊的平和を回復しました。神は罪から救われた人々の永遠に住む場所として、この地上からすべての悪を一掃し、永遠の平和郷をつくる計画を立ててくださいました。

罪が入って以来、人間はいつの時代でも、この世界、または自己の負っている運命について満足していませんでした。常により良い世界を求めてきました。しかしこれは、人間の力だけではできないことです。実際には、この世界の状態は悪化の一路をたどり、ここまできて初めて、人間はそれに気がついたのです。

再臨の希望

聖書は、罪のために歪められたこの世界は破滅に向かっていることを示しています。しかしそれは破滅のための破滅でなく、すべての悪を一掃したあと、神が初めにおつくりになったような「はなはだよい」世界をつくって、罪から救い出した神に従う民を住まわせるためです。この地球は、再創造されるのです。

科学者は、地球の終末の可能性を認めていますが、それがいつ起こるかをはっきり定めることはできません。聖書は、世界の終末がいかにして起こるか、またそのときにどんな事柄が起こるかを示し、だいたいの時期にも言及しています。

人類の歴史に終止符を打つ事件は、イエス・キリストが再び地上においでになる「再臨」と呼ばれるものです。そんなことが起こるはずがないという方がおられるかもしれませんが、聖書を調べるならば、これを認めざるを得ないのです。D・L・ムーディーによれば、聖書の中には、イエスが再び地上においでになることは、約2500回記されているそうです。

イエスの再臨のときに、人類の文明の崩壊、歴史の終末が訪れるのです。時代の感覚を持っている人々は、聖書を知らなくても、何か重大な歴史の段階に、私たちが入りつつあることを感じているはずです。

十字架にかかられる前に、イエスは弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書14章1~3節)と言われました。

イエスはまず神を信じ、またイエスを信じるように勧められました。神以外のものに頼っていては、人間は本当の平安や喜びを持つことはできません。昨日も今日も永遠に変わることのない神に頼るとき、揺り動かされることのない平安がくるのです。イエスは人間がいつまでもこの暗い罪の世に住み続けることを望んではおられません。私たちのために永遠の住まいが定められたとき、再び地上に帰ってこられ、そして天の住居に迎えてくださるのです。そのとき、暗いこの世の生活は終わって、永遠の国の生活が始まるのです。

オリブ山においてイエスは、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書24章30節)と、栄光の中に再臨することを、弟子たちに約束してくださいました。そして、いつこれが起こるかについて、詳細にその前兆となるべき事柄を示してくださいました。この前兆については、次の課で述べたいと思いますが、今やそれらの前兆は、ほとんど成就してしまいました。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイによる福音書24章35節)とイエスは保証しておられます。

大祭司カヤパの尋問に答えられたイエスの言葉が、マタイによる福音書26章に記されています。「大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ。』イエスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』」(マタイによる福音書26章63、64節)。

このイエスの答えに対して、イエスを殺そうと画策する人々は、「死に当るものだ」(マタイによる福音書26章66節)との宣告を下しました。イエスは罪に汚れた人間の心の中に、再び神の御像を回復するために、ご自分の生命を捨てられました。そして、救済の計画が完成する日を宣言されたのです。

再臨の約束は、私たちの生活に希望と喜びを与えます。そして私たちの生活をきよめる契機となるのです。旧約の時代から今日に至るまで、イエスの再臨は、クリスチャンの変わらない信仰と希望でした。

神と共に歩んだエノクは、再臨信徒でした(ユダの手紙14節)。また、ヨブは、紀元前約1500年に、主が再び来られる日を待望して、次のように言っています。 「わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる」(ヨブ記19章26、27節)。

ダビデもダニエルも、また旧約のすべての預言者も、再臨を待望しました。新約の時代になって、イエスご自身がしばしば再臨について語られました。イエスが昇天されたときに現れた天使は、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1章11節)と告げました。これは初代教会に与えられた大きな希望の光でした。彼らはあらゆる残虐な迫害に耐えながらも、再臨の希望によって、生かされたのです。

新約聖書から再臨に関する言葉をいくつか引用してみましょう。

「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙4章13~17節)。

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる」(ヨハネの黙示録1章7節)

新約聖書は、再臨に対する全教会の待望を代表する次の言葉で結ばれています。「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る。』アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように」(ヨハネの黙示録22章20、21節)。

初代教会以後の教会は、イエスの再臨について、どのような態度を取ったのでしょうか。教会の信仰の表現である教会信条を見ると、ほとんどイエスの再臨と審判のことが含まれています。

使徒信条の中には「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」(『新聖歌』より)とあります。使徒信条は2世紀後半の「ローマ信条」に基づいて、つくられており、当時のクリスチャンたちの信仰をあらわしています。

紀元325年に開かれた第1回ニカイア公会議が採択した信仰箇条には「また彼(イエス)は天においても、地においても万物を造り、我らを救わんために世に降り、肉体を取りて人となり、死して後、第三日によみがえりて昇天し、万民をさばかんために来たらんとする者なり」とあります。現在のニカイア信条といわれるものは381年に修正されたもので、その中には、「再び栄えをもって万民をさばかんがために来たらんとする者なり」とあります。

ルーテル派諸教会の信仰の基礎となっているアウグスブルグ信仰告白の中にも、「終末の日に、われらの主イエス・キリストは、審判するため現われ」ることを言い表しています。

平和な世界の建設に対して、キリストの来臨を待ちのぞむことは決して新しい考えではありません。

再臨のときに何が起こるのか

イエスが再び来られるときに、どんなことが起こるでしょうか。

「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(ペテロの第二の手紙3章10節)。

火によるこの世界の滅亡、神に反逆するすべてのものの滅亡です。昔はこのような火による滅亡という聖書の言葉は荒唐無稽、または一つの比喩にすぎないと片づけてしまっていましたが、現代では、その可能性については、だれも否定することはできなくなりました。

神に従っていた人々は、イエスをお迎えして、「これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」(イザヤ書25章9節)と叫び、墓場からよみがえって出てきた多くの義人たちと一緒に、天に携えあげられるのです。そのあと、地上は1000年間荒廃し、地球はつくりかえられて、地上は再び聖徒たちの住み家となるのです。ここに善悪の争闘は終わり、永遠の平和がのぞみます。

ヨハネは幻で、新天新地の状態を見ました。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」(ヨハネの黙示録21章1~4節)。

人間の最も恐るべき敵である死は、この新しい世界にありません。涙を流すことも苦しみもなく、平和と喜びの生活が、永遠に与えられるのです。

神は人間を愛して、大いなる犠牲を払って、このような世界を準備してくださっています。私たちが希望するならば、そして神の道に従うならば、この新しい世界に入ることができるのです。

聖書は、「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」(ペテロの第二の手紙1章19節)と述べています。聖書の預言は暗きを照らす光です。

裁きと救いの完成のとき

聖書は、私たち一人ひとりは自分自身の人生に対して責任を持っていることを述べ、神の裁きを受けなければならないことを教えています。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(コリントの信徒への手紙2・5章10節)。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタイによる福音書16章27節)。

キリストの裁きは厳しいものです。キリストの前に隠れたことはありません。「神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう」(コヘレトの言葉12章14節)と言われている通りです。聖書は「正しい者はいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙3章10節)と述べています。その意味で、キリストの裁きに耐えうる人はだれもいません。キリストの再臨は、神に逆らってきた者にとっては、恐ろしい裁きの日になるのです。  しかし、クリスチャンにとっては、キリストの再臨は、喜ばしい救いの日となります。キリストの十字架の犠牲を信じる者は、罪の赦しをすでに得ており、再臨は永遠の命にあずかるときとなるからです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマの信徒への手紙6章23節)。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(ローマの信徒への手紙5章20、21節)。  

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