

この記事はこんな人におすすめ!
・ミケランジェロの「ダビデ像」について知りたい
・ダビデとゴリアテの戦いについて知りたい
・ダビデやソロモンなどのイスラエルの王や歴史について知りたい
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ミケランジェロの「ダビデ像」のモチーフとなったダビデとゴリアテの戦いを解説!
そのほか、ダビデの血統、家系図、子孫の現在やソロモン王についても詳しく紹介。
ダビデ像とは?なぜ有名なのか?彫刻に込められた意味と背景を解説
ダビデ王はどんな人?
ダビデはイスラエル王国の第2代国王(紀元前1011~971年)であり、キリストの祖先とされています。
羊飼いの少年時代には獅子や熊を倒す勇敢さを見せ、預言者サムエルに密かに王として油注がれました。
その後、サウル王に仕え、音楽で彼を癒やし、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒して名を上げます。しかし、サウルの嫉妬により命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされました。
サウルの死後、ユダの王に即位しましたが、約7年半の戦争を経て、最終的にイスラエル全土の王となります。このとき、ダビデは約37歳でした。
エルサレムを首都とし、宗教改革を推進しながら国を繁栄へと導きました。
一方で、バテシバとの不倫など道徳的な過ちも犯しています。また、晩年は息子アブサロムの反乱など多くの困難に直面しましたが、王朝を確立し、その血統はメシアへとつながっていきます。
『ダビデ像』の作者ミケランジェロとは?
ミケランジェロ(1475ー1564)は、イタリア・ルネサンスの三大巨匠であり、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ天才芸術家のひとりです。
ミケランジェロは、ルネサンスを代表する画家・彫刻家・建築家で、バロック様式の基礎を築きました。
代表作に『ピエタ』『ダビデ像』、システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』や壁画『最後の審判』があります。
晩年はサン・ピエトロ大聖堂の設計も手掛けました。
『ダビデ像』はどこにある?何がすごいの?


ミケランジェロの代表作である『ダビデ像』は、ルネサンス彫刻の最高傑作の一つであり、力強さと美の象徴とされています。
巨人ゴリアテとの戦いに臨む姿を表現した、高さ517cmの大理石像です。
この像は、もともとフィレンツェ大聖堂の一部として構想されましたが、完成後、その芸術的価値の高さと設置の適性を考慮し、シニョーリア広場(ヴェッキオ宮殿前)に設置されました。
ダビデ像の目はハートになっている?
実はダビデ像の目はハート型に彫られています。
これは恋愛やハートマークをあらわしているのではなく、立体感や闘志を表現するための技法で、光や陰影の計算の結果生まれたものです。
また、引き締まった口元や遠くを見つめる視線、石投げを手にしている様子が戦いに向かう前の緊張感を伝えてきます。
ダビデとゴリアテの戦いとは?あらすじをわかりやすく解説
ダビデとゴリアテ物語のあらすじ
- 巨人ゴリアテの登場
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ペリシテ軍とイスラエル軍は、エラの谷を挟んでにらみ合っていました。
そこにガテの巨人ゴリアテが現れ、40日間にわたりイスラエル軍を侮辱し、一騎討ちを求めます。
ダビデは兄たちに食料を届けるために戦場を訪れた時に、この挑発を聞き、戦う決意をしました。
- ダビデとサウルの面会
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ダビデはサウル王のもとに行き、自分がゴリアテと戦うと申し出ます。
サウルは最初は彼を若すぎると否定しますが、ダビデは羊飼いとして獣と戦ってきた経験と、主への信頼を語りました。
サイズが合わなかったために、王の鎧を使うことを辞退したダビデは、石投げと石を持ってゴリアテに立ち向かう準備をします。AIによって生成されたイメージ画像です
- 巨人ゴリアテの登場
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ダビデは、神に対する信頼を胸に、巨人ゴリアテに向かって走り出します。
彼が持っていた石を投げると、それがゴリアテの額に命中し、彼は地面に倒れました。
ダビデはゴリアテの剣を使ってとどめを刺し、その戦いに勝利します。
この予想外の展開に驚いたペリシテ軍は逃げ出し、イスラエル軍は一気に形勢を逆転させることになりました。


ダビデの石投げ機とは?
ダビデが使った「石投げ機(スリング)」は、羊飼いの道具として知られている一方で、古代の戦場でも実戦的な武器として用いられていました。
考古学的にも、紀元前701年のラキシュ包囲戦で使われたアッシリア軍の投石が発見されており、それは人間のこぶし大(直径約5〜7cm)でした。
また、士師記20章16節によれば、イスラエルのベニヤミン族の投石手たちは非常に正確な命中精度を誇っていました。熟練者は石を時速160km以上で投げることができ、有効射程は約100メートルを超えない程度と推定されています。
石投げ機(スリング)は、両端に紐のついた革の袋に石を入れ、それを頭上で回して一方の紐を放すことで石を高速で放つ、シンプルながら極めて効果的な武器だったのです。
ダビデとゴリアテ物語の後、ダビデはどうなった?
サムエル記に見るダビデ王の即位
- 少年時代とゴリアテとの戦い
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ダビデはエッサイの末の子として生まれ、羊飼いをしていましたが、預言者サムエルによって、ひそかに油注がれ、次の王とされました。
AIによって生成されたイメージ画像です - 逃亡生活の始まり
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ダビデの人気に嫉妬したサウル王は彼の命を狙い始め、ダビデは逃亡生活に入ります。
アドラムの洞窟などに拠点を置き、部下を集めて各地を転々としました。サウルの死後、ユダ部族によってヘブロンで王に任じられます(7年半)。
- 全国を統一
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サウルの家系が滅びたのち、ダビデは全イスラエルの王に選ばれ、約37歳で全国を統一します。
エルサレムを首都とし、周辺諸国に対して軍事的勝利を収め、王国の領土を拡大しました。さらに契約の箱をエルサレムに運び、神殿建設の準備も整えました(自らの建設は神から禁じられる)。AIによって生成されたイメージ画像です
- バト・シェバ事件
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王として絶頂にあったダビデは、ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫と、ウリヤの戦死工作という大きな罪を犯します。預言者ナタンの叱責を受けて悔い改めます
- アブサロムによる反乱
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バト・シェバ事件を機に王家に混乱が生じ、息子アブサロムの反乱によって一時退位に追い込まれます(後に復位)。
- ソロモンが後継者とされる
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晩年には人口調査によって神の怒りを買い、疫病がイスラエルを襲います。また息子アドニヤの王位簒奪未遂が起きますが、ナタンの助けによりソロモンが正式な後継者とされます。
- ダビデの死去
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ダビデは死の直前、ソロモンに信仰と正義を守るよう助言し、40年の統治(ヘブロン7年、エルサレム33年)を終えて死去しました。
ダビデ王国とソロモン王とは?列王記・歴代誌に記された王たちの歩みを解説
ダビデの子ソロモン王とは?
ソロモン王(紀元前971年~931年)は、イスラエル統一王国の最後の王であり、父ダビデの死の直前に即位しました。
知恵を授かる夢を見たことで有名で、繁栄した治世を築きましたが、多くの異国の妻を迎えたことが偶像崇拝を招き、王国の分裂を招きました。
彼は神殿建設や交易の発展にも尽力し、『箴言』『コヘレトの言葉』『雅歌』の著者とされます。


列王記・歴代誌に記されるダビデ王国とその後
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- ソロモン王の即位
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ソロモンはダビデとバト・シェバの子で、兄アドニヤの反乱を預言者ナタンらの働きにより退け、ギホンで油を注がれ正式に王に即位しました。即位後は政敵を排除し、安定した王権を確立します。神から「知恵ある心」を願い求めたことで、知恵・富・名声が与えられました。
神殿と宮殿の建設、貿易・外交の拡大、行政制度の整備などにより、イスラエルはかつてない繁栄を享受しました。 - 異国の妻たちと偶像崇拝
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ソロモンは政治的婚姻によって多くの異邦人女性を妻とし(700人の王妃と300人の側室)、やがてその影響で偶像崇拝に傾いていきます。アシュトレト、モレク、ケモシュなどの神々の祭壇を築き、自身も礼拝するようになりました。これは明確な背教行為であり、神の怒りを買います。
- 民の不満と分裂の兆し
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贅沢な生活と壮大な建設事業を支えるために強制労働と重税を課したことが、民の不満を募らせます。これが後の王国分裂の直接的な引き金となりました。
さらに、エフライム族出身の建設監督官ヤロブアムが、ソロモンの政策に不満を持つ労働者たちの象徴的存在となり、預言者アヒヤによって「王国の10部族が彼に与えられる」との神の約束を受けます。
ソロモンは彼を殺そうとしますが、ヤロブアムはエジプトに逃亡します。
- 晩年と悔い改め
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晩年のソロモンは、自身の過ちと虚しさを振り返るようになります。伝道者の書に見られる空虚感と後悔の思いは、その晩年の彼の心境をあらわしているとされます。
- ヤラベアムとレハブアムによる対立
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ソロモンの死後、息子レハブアムが即位しますが、民は重税と労役の軽減を求めました。
しかし、レハブアムは年長者の助言を退け、強硬策を取ったため、北の10部族が反発し、ヤラベアムを王に立てて分離。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。
- 王たちの堕落
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イスラエルとユダの王たちは、たびたび偶像崇拝を繰り返し、神の戒めを守らず、預言者たちの警告を無視していきました。
- 王国の滅亡
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まず最初に北イスラエルが滅亡すると、今度は南ユダ王国が新バビロニア王国の王ネブカドネザルによって侵攻され、滅亡。
- バビロン捕囚
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ネブカドネザル王によって、都は焼き払われ、ソロモンの神殿は完全に破壊されます。またこの時に、民の多くがバビロンへと連行されて行ったのでした(バビロン捕囚)。
ダビデの家系図とまとめ


ダビデの子孫は現在もいるのか?
ダビデ王の子孫が現在も存在するかは確かな証拠がなく、特定するのは難しいです。
その理由は、古代の記録が失われたこと、宗教や政治に利用されてきたこと、ユダヤ民族の離散、DNA検証ができないことにあります。
もし子孫がいるとすれば、世界中に広がっている可能性が高いですが、特定の家系を「直系の子孫」と断定するのは困難でしょう。
ダビデの妻は何人いたのか?
ダビデ王の妻は 少なくとも8人 いたと聖書に記されています。ただし、側室も含めるとその数はさらに多かったと考えられます。
- ミカル(サウルの娘)サムエル記上 18章27節
- アヒノアム(イズレエルの女)サムエル記上 25章43節
- アビガイル(ナバルの未亡人)サムエル記上 25章42節
- マアカ(ゲシュルの王タルマイの娘、アブシャロムの母)サムエル記下 3章3節
- ハギテ サムエル記下 3章4節
- アビタル サムエル記下 3章4節
- エグラ サムエル記下 3章5節
- バト・シェバ(ウリヤの妻、ソロモンの母)サムエル記下 11章26ー27節
旧約聖書の記述では、最初の妻がミカルであることやバト・シェバとの不倫、またダビデが王となる頃には「数人の妻と息子たち」がいたこと(サムエル記下3章2–5節、5章13ー16節)が述べられています。
まとめ|恐れに勝つ力とは?ダビデとゴリアテ物語の意味と解説
ダビデの勇気はどこから生まれたのか?恐れと向き合う心のヒント
ダビデはサウルに言った。「あなたの僕は父の羊を飼う者です。ライオンや熊が出て来て、群れの中から羊を奪うこともあります。その時は追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。僕はライオンも熊も打ち殺してきました。ですから、あの無割礼のペリシテ人もあの獣のようにしてみせます。生ける神の戦列を嘲笑ったのですから。」
サムエル記上17章34ー36節
ダビデは過去の経験から勇気を生み出しました。そして、彼が培ってきた経験と技術は自信も与えたのです。
その証拠に、彼はサウル王から鎧や剣を借りた時に、「慣れていないから」と辞退し、自分の武器で勝負に出ます。
わたしたちも、過去の今までの歩みを見るときに、自信と勇気を得ることができるのです。
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参考文献
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『旺文社世界史事典 三訂版』、引用元コトバンク、「ミケランジェロ」、https://kotobank.jp/word/みけらんじえろ-3172052、閲覧日: 2025年02月26日.
Siegfried H. Horn, The Seventh-Day Adventist Bible Dictionary (Review and Herald Publishing Association, 1979), 272–275.