この記事のテーマ
今回で、ヨナ書の研究も終わりです。ヨナ書はわずか48節しかありません。しかし、簡潔さは内容の浅薄さを意味するものではありません。事実、聖書の中には、最も深遠な思想が非常に簡潔な言葉で表現されている部分もあります(たとえば、「神は愛です」という言葉など)。同様に、ヨナ書自体は短いかもしれませんが、そのテーマは永遠にわたって研究する価値があります。
繰り返しになりますが、これらのテーマの中でも最もすばらしいものは、神の恵みです。私たちはそれを完全に理解することができません。自分がいかに堕落した存在であるかを知らないからです。そして、私たちが周囲の世界を認識する手段である理性そのものが、とりわけ罪によって蝕まれているからです。あたかも酩酊状態の酔っ払いに、酒の害について聞くようなものです。
それにもかかわらず、感謝すべきことに、私たちが神の愛を知り、信じて従うに十分な恵みを、神は私たちに啓示してくださっています。それ以上に何を求めるべきでしょう。
神の赦し
ヨナ書と聖書のほかの書巻との間には、ある種の共通点があります。それらはどれも神の存在を証明しようとしていません。どれ一つとして神の存在を疑っていません。単なる想像にもとづいて神について語っていません。むしろ、それらは人間の歴史に介入される神について詳しく描写しています。ヨナ書もこの壮大な歴史の一部です。
ヨナ書にはっきりと示されているテーマがひとつあります。それは聖書全体に流れているテーマですが、ヨナ書において独特なかたちで示されています。それは、私たちの神が喜んで赦してくださるお方であるということです。この神の赦しの能力と性質は人間にとって驚くべきものです。ほかの多くの人々と同様、ヨナはこの神の深遠な品性を理解することができませんでした。罪深い人間にとって、神の徹底的な恵みを理解することは困難です。新約聖書の中で四福音書が繰り返し述べているように、神の赦しは人間の想像力の及ばないくらい寛大です。
次の各聖句は、神が喜んで赦してくださることをどのように例示していますか。マタ7:7~11、マタ20:1~16、ルカ15:11~32
ヨナ書は神の豊かな赦しについて描写しています。ヨナ書がユダヤ人の「ミンハー」において朗読されるのはそのためでしょう。これは贖罪日(ヨム・キップール)の午後の礼拝、つまり贖罪日が最高潮に近づく最も聖なる時間になされる礼拝のことです。裁きが終わろうとする最後の時間に、ヨナ書が開かれ、神の憐れみが力強く強調されます。
神の全能
ヨナ書は劇的な方法で、神の主権が信者だけの狭い範囲をはるかに超越したものであることを教えています。第1章に出てくる異教徒の水夫たちでさえ、「暴風」の中に単なる自然界の脅威以上のものを認め、天地の偉大なる神を受け入れました。聖書の記者はみな、例外なく、まことの神と偽りの神々との間にいかなる類似点も認めていません。ヤーウェの決定的で力ある御業は聖書の中で、無きに等しいほかの神々と著しい対照をなしています。
もう一度、ヨナ書に描かれている神の力に目を向けてください。それから、イザヤ書40章を読んでください。ヨナ書に描かれている神の御業はイザヤ書40章の記述をどのように例示していますか。
特にイザヤ書40章の26節と28節には、主の創造力に言及しています。主が世界を完全に支配しておられるのは、主が創造主であり、維持者であられるからです。苦しみや悩みの時にあっては理解できないかもしれませんが、究極的な意味で、私たちの神はすべてを支配しておられます。たとえそれが現在、この世においてでなくても、真に価値のある来たるべき世において、神は万物を更新してくださいます。この世における生命は霧のようなものですが、来たるべき世における生命は永遠だからです。
私たちに理解できないことはたくさんあります。いつでもそうでした。しかし、主は御言葉を通して、またヨナの物語を通して、いかに理解できないことが多くても、私たちは神について、神の品性について、神の力について、そして神の愛について十分に知ることができると教えておられます。神を愛し、神の召しに忠実に従うとき、神は私たちのうちに働いて、人々に御自身とその愛を啓示してくださいます。このことは、私たちが神を愛し、神に信頼する程度に比例します。
神の道徳性
ヨナ書が聖書のほかの書巻とどれだけ異なっていようとも、基本的なメッセージは、神が道徳的な神であって、すべての世界に適用される一定の道徳を持っておられることを明示しています。人間は与えられた光の程度に応じて裁かれますが、神の義の標準にしたがって裁かれることに変わりありません。
次の聖句はどんなことを教えていますか。それらはヨナの物語とどんな関係がありますか。詩9:9(口語訳9:8)、96:9、13、98:9、使17:31、ロマ3:6
聖書の中では、宗教と道徳は密接な関係にあります。聖書は宗教を離れた道徳について教えていません(宗教を離れて道徳に従うことができるという考えは現代の考えです)。神は聖書の中で一貫して、道徳的な原則にもとづいて人間の歴史を評価しておられます。個人であれ、集団であれ、すべての人を造られた神はすべての人を同じ道徳的な秩序のもとに置かれるからです。
創世記15:13~16で、神はエジプトとアモリ人について何と言っておられますか。これらの言葉は異教の民族の道徳性について、また道徳的な行為に関する個人的な責任についてどんなことを暗示していますか。
ヨナ書の中で、邪悪なニネベの人々でさえ、神の裁きに直面したとき、神の裁きの正当性を認めています。さらに、聖書全体に言えることですが、ヨナ書の中で、神との関係が道徳的な生き方のうちに表されています。主の前に「正しく歩む」という表現は、聖書の中で道徳的な生き方を意味する一般的な言葉です。正義を行うことの重要性は聖書の中でつねに強調されています。
神は人格的なお方
ヨナ書において、神は個人的な関係に入られるお方として描かれています。神は単なる抽象的な概念、あるいは漠然とした非人格的な力ではありません。神は地上の人間とかかわりを持たない、遠くかけ離れた存在者でもありません。もちろん、自分の臣民に無条件の服従を要求する宇宙の独裁者でもありません。それどころか、聖書の中で、神は人間に嘆願し、人間と論じ合うお方として描かれています。ヨナ書4章などは、初めから終わりまで神とヨナとの対話になっています。イエスの生涯は、神が地上に来て、私たちと一対一で語られたことを表しています。
次の各聖句において、神は人と語っておられます。これらの聖句に共通していることは何ですか。創4:1~7、出3:1~8、ヨブ38~41章、ヨナ4章、使9:3~8
これらの聖句の中で、神は罪深い人間に警告し、教え、御自身とその愛を啓示しておられます。神は自由意志を持った人間に悪しき選択を思いとどまらせ、カインとヨブには誤った態度を改めさせようとしておられます。これらの実例からもわかるように、主は人類の祝福のためにのみ働いておられます。同じ主は今日、私たちのために働いておられます。この広大な宇宙について考えてみてください(私たちの知っているのはほんの一部です)。それらすべてをお造りになった神が私たちと個人的な関係に入られるのです!想像できますか。
イエスは神の肖像
人間との個人的な関係を求められた旧約聖書の神は、新約聖書の神と同じお方です。このことはイエスの生涯と働きのうちにはっきりと認められます。
イエスは人と交わるために人となり、私たちを滅びの道から救ってくださいました。
福音書に記されている、次に掲げてあるイエスの会話に共通することは何ですか。イエスはこれらの会話を通して何を実現しようとされましたか。マタ19:16~22、マコ7:24~37、ヨハ3:1~21、ヨハ4:1~27
キリストは人々に思慮深く耳を傾け、正直に答えるだけの時間と余地をお与えになりました。人々がただ御自分の言葉に聞き従うだけでなく、議論するのをお許しになりました。キリストは決して人々に無理やり同意させるような話し方をされませんでした。それは神の方法ではありません。キリストが望まれるのは、私たちが愛の心から従うことです。愛は強制することができません。
ヨナ書において、旧約聖書は最高の高みにまで到達しています。神を被造物および歴史と関係を持つお方として、またすべての生き物に対して優しい関心を持つお方として啓示しているからです。
どうして大いなる都ニネベとそこにいる無数の家畜を惜しまずにいられようか、という神の最後の問いかけのうちに、私たちの問題に介入される神の個性の一つをかいま見ることができます。ヨナ書に教えられていることは聖書全体を通して言えることです。すなわち、私たちはひとりではないということです。状況がいかに困難に見えようとも、神は導いてくださいます。私たちは問題の一部・表面しか見ることができません。聖書は私たちに問題の背後にある基本原則を見させてくれます。
まとめ
「神の愛は人類のためにはかり知ることのできないほど深く動かされたのに、これほど大きな愛を受けている者たちに表面的な感謝しかないのを見て、天使たちは驚く。天使たちは、神の愛に対する人々の浅薄な認識に驚き、天は、魂に対する人々の無関心さに憤慨している。そのことについてキリストがどう思っておられるか知りたいだろうか。父母は、自分の子供が寒さと雪の中に行き暮れているのに、それを救えたはずの人たちからみすごしにされ、死ぬがままにほうっておかれたことを知ったらどう思うだろうか。彼らはひどく悲しみ、狂気のように憤慨しないだろうか。彼らはその涙のように熱く、その愛のようにはげしい怒りをもって、そうした殺人者たちを攻撃しないであろうか。ひとりびとりの人間の苦難は神の子の苦難であって、滅びつつある同胞に助けの手をさし出さない人々は神の正義の怒りをひき起こすのである。これが小羊イエスの怒りである」(『各時代の希望』下巻374ページ)。
「主は御自分の広大な支配圏のあらゆる部分と積極的に連絡を取っておられる。主は地球とその住民に関心を寄せておられる。主は語られるすべての言葉に耳を傾けておられる。主はすべての嘆きを聞き、すべての祈りに耳を傾け、すべての人の行動を御覧になる」(エレン・G・ホワイト『今日のいのち』292ページ)。
「キリストのうちには、牧者のやさしさ、親の愛情、あわれみ深い救い主の比類のない恵みがある。キリストは、最も魅力のあることばで祝福をお与えになる。主はそうした祝福を宣言されるだけでは満足されない。主は、それらの祝福を、自分のものにしたいという願いを起こさせるように、最も魅力的な方法で提供される。キリストのしもべたちも同じように、言いあらわしようのない賜物であるキリストの栄光の富を紹介するのである」(『各時代の希望』下巻376ページ)。
ミニガイド
ヨナ書とイザヤ書40章
ヨナ書を「イスラエルが経験した歴史のようなもの」と見る人もいます。イスラエルの国民が、神に授かった使命を忘れ、かえって神のみ心にそむき神から逃走する、しかしバビロンの捕囚によって、本来あるべき場所すなわち、神にそむいた全世界に福音を宣教する立場に引き戻された歴史です。神が「わたしの民」と呼ばれ、異教徒の悔い改めを促す僕となる場所に。ヨナは神からの使命を拒んでタルシシへ逃避しましたが、船の乗組員たちに捕らえられ、大魚によって宣教の原点に立たされました。しかし、ヨナ書の象徴的な意味は、イスラエルにおいては、完全には成就されませんでした。全世界に宣教をするどころか、自分たちの保身のために、選民意識だけを高揚させ、ヨナがニネベの町に宣教したようには全世界に向かって宣教はしませんでした。イスラエルは主の証人とはならず、メシアが到来してもそれを無視して、「わが民」と呼ばれた特権を捨て去りました。
イザヤ書40章は、バビロンに捕囚されたイスラエルの民がペルシャの王キュロスによって捕囚の身から解放され、エルサレムに帰還する預言です。そして、イスラエルの神ヤーウェが宇宙の創造者であり、比類のない方であり、歴史を支配なさる方であり、彼を待ち望む者に豊かな力を添えてくださるお方であることを宣言しています。イザヤは、バビロンの捕囚、エルサレムの崩壊という民族的な苦難の体験を乗り越えて、新たな歩みをなそうとするイスラエル民族に、その拠って立つべき出発点を明らかにしています。
道徳と宗教
ローマ人への手紙の3章で、パウロは古来からユダヤ人の基本的な概念である「世界を裁かれる神」という考えを持ち出しています。善と悪の絶対的基準がなければ、善悪の概念は、すべて相対化してしまいます。「絶対的」な神が存在し、その神が基準を示されてはじめて、この世の道徳的秩序は成立する。これが宗教の立場です。そうでなければ「善が生じるために悪をしよう」(ローマ3:8)という極端な論理も出てくるでしょう。パウロはここの3章で、神の民とされたイスラエル人の罪とそれを裁かれる神の怒りを語る上で、神は真実か不真実かの問題を避けて通れませんでした。神を絶対なる方、至高の聖なる存在として、力強く論証しています。
最後に
ヨナがタルシシヘ行くために船に乗ろうとしたヤッファの港は、使徒ペトロが異邦人伝道のために調えられて、ここから派遣された場所であることを、十数年前私が旅行した時に教えられました。ヨナとペトロが異邦人伝道に赴いた町、時を経て神の主権的な憐れみと恵みが、奇しくも異邦人の私のような者にも及んだ感謝を思い出しています。
*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。